第2話 無能だったはずの男
オークの群れが、こちらに気づいた。
濁った黄色の目。涎を垂らす牙。
女騎士を追い回していた個体だけでなく、木々の陰から次々と姿を現す。
「ひっ……まだ、いたの?」
女騎士が青ざめる。その足元は震えている。さっきまで血まみれで、まともに動けなかったのだから当然だ。
俺は一歩前に出て、彼女を背中でかばった。
「下がってていい。……試したいことがある」
「た、試したいって……今そんな——」
言葉の途中で、オークの一体が吠えながら突進してきた。
普通の冒険者なら、前衛が盾を構え、後衛が魔法を準備するところだろう。
だが俺は——右手を軽く振っただけだ。
「《重力圧》」
空気が、音を失った。
見えない何かが空から押し潰すように降り注ぎ、オークの巨体が地面に叩きつけられる。
骨の折れる鈍い音。地面には、クレーターのような凹み。
「グ、グオォ……?」
呻き声を上げる間もなく、全身がひしゃげて動かなくなった。
女騎士が息を呑む音が、やけに大きく聞こえた。
「な、なに今の……? そんな魔法、聞いたことも——」
「ちょっとした応用魔法だよ。……調子は悪くないな」
ステータスの数値が、頭の片隅にホログラムのように浮かぶ。
——魔力残量 ∞
——消費魔力 誤差レベル
笑えてくるほど、余裕しかない。
後続のオークたちが、一瞬怯んだ。
だが数で押せると踏んだのか、一斉に咆哮を上げて突っ込んでくる。
「数が多い……! 危ない、逃げないと——」
女騎士がそう叫んだ瞬間、俺は地面に手を触れた。
「じゃあ、次は範囲を試そうか」
「は、範囲……?」
「《永劫の理:地獄門》」
足元の大地が黒く染まり、無数の魔法陣が浮かび上がる。
そこから、漆黒の鎖が蛇のように飛び出した。
「グオオオオッ!?」「ギャアアア!」
鎖はオークたちの四肢に絡みつき、そのまま地面深くへと引きずり込んでいく。
悲鳴と咆哮はやがて泥の中に溶け、残ったのは不気味な静寂だけ。
地上には血も肉片も残らない。
そこにあったのは、ほんの少し黒ずんだ土が混ざった小さな穴だけ。
「……殲滅完了。うん、やっぱり単体に使うとオーバーキル気味だな、これ」
「……」
女騎士は言葉を失っていた。
剣を握る手が震えているのは、恐怖からか、それとも——。
やがて、彼女はかすれた声で絞り出すように言った。
「い、今の……本当に、あなただけが……?」
「他に誰かいるように見える?」
そう返すと、彼女は慌てて首を振った。
「そ、そうじゃなくて! だって……そんな魔法、王都でも聞いたことがありません!
あのオークの群れ、私の隊が十人がかりでも倒しきれなかったのに……」
「十人がかりで?」
自分の感覚と、世間とのズレに、少しだけ眩暈を覚える。
——あぁ、そうか。
俺が知っている「当たり前」は、もうこの世界にとっての「異常」なんだ。
二度世界を救った前世の記憶。
それを持っているのは、今や俺だけ。
「……でも、助かったのは事実だろ?」
そう言って手を差し出す。
女騎士は驚いたように目を瞬かせ、そしてぎこちなく俺の手を取った。
「た、助けていただいたのは事実です。本当に……ありがとうございます」
立ち上がった彼女の姿を、改めて見て気づく。
陽に焼けた健康的な肌。
良く鍛えられた身体つき。
鋭さと柔らかさを併せ持つ、琥珀色の瞳。
鎧はところどころ欠け、マントは破れている。
それでも、姿勢だけは折れていない。
「私はリア・ローゼン。辺境国ローゼン領の騎士です」
胸に手を当てると、彼女は真っ直ぐな瞳で名乗った。
「リアか。俺はカイル。元・勇者パーティの“無能枠”だ」
自嘲気味に付け加えると、リアはきょとんとした顔をした。
「……今の戦いを見た後で、それを信じろというのは、さすがに無理があります」
「だよなぁ」
肩をすくめると、リアはくすっと小さく笑った。
さっきまで死にかけていた人間とは思えないくらい、強い目をしている。
「ところでリア。さっき、隊が十人と言っていたけど……他の人たちは?」
問うと、リアの表情が翳った。
「……私の隊は、辺境での魔物討伐任務についていました。
けれど、予定にないオークの大群と遭遇して……私以外は、全員……」
言葉が途切れ、唇が震える。
「すみません。情けないですね。騎士のくせに、生き残ったのが私だけだなんて」
「情けなくなんてない」
俺は即座に否定した。
「生き残ったから、こうして誰かに伝えられる。
そして——また誰かを守れる。俺だって、そうやって何度も助けられてきた」
前世の記憶。
あのとき、仲間たちは何度も俺を守り、俺の前に立った。
命を賭けて。
その結果、俺だけが生き残り——記憶を封じられた。
「……だから、今度は俺の番だと思ってる」
ぽろっと本音がこぼれる。
リアはしばらく黙って俺を見つめ、そして深く頭を下げた。
「カイルさん。もしよろしければ——この先、少しの間だけでもご一緒させていただけないでしょうか」
「一緒に?」
「はい。任務は失敗。本国に戻って叱責を受けるのは当然です。
でも、このまま戻っても、オークの大群を放置したという事実は変わりません。
せめて、被害をこれ以上広げないよう……戦力になる人と、少しでも多くの群れを討ちたいんです」
真っ直ぐな瞳。
自分を責めながらも、まだ誰かを守ろうとしている。
——本当に、騎士だな。
「いいよ」
「え?」
「俺もちょうど、腕試しの相手を探してたところだ。
それに……一人で歩くより、誰かと一緒のほうが、飯も美味い」
そう笑うと、リアは目を丸くしてから、ふっと頬を緩めた。
「……ありがとうございます。必ず、お役に立ってみせます」
そのときだった。
遠く、森の向こうから、低く重い咆哮が響いた。
さっきまでのオークの比ではない。
空気そのものが震えるような、圧力を伴った声。
「……今の、聞こえましたか?」
「あぁ。たぶん——“群れの主”だな」
前世の記憶が警鐘を鳴らす。
このクラスの気配を放つ魔物は、辺境にはめったに現れない。
——にもかかわらず、今、ここにいる。
何かがおかしい。
「行ってみよう。放っておくと、辺境どころか国ひとつ消し飛ぶかもしれない」
「……はい!」
リアは剣を握り直し、俺の隣に並ぶ。
こうして、
追放された“無能”と、すべてを失った女騎士の、奇妙な二人旅が始まった。




