タイトル未定2025/10/28 17:12
初めまして、天川裕司です。
ここではシリーズでやってます『夢時代』と『思記』の原稿を投稿して居ります。
また、YouTubeドラマ用に仕上げたシナリオ等も別枠で投稿して行きます。
どうぞよろしくお願い致します。
少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。
サクッと読める幻想小説です(^^♪
お暇な時にでもぜひどうぞ♬
【アメーバブログ】
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【ノート】
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【YouTubeドラマにつきまして】
無課金でやっておりますので、これで精一杯…と言うところもあり、
お見苦しい点はすみません。 なので音声も無しです(BGMのみ)。
基本的に【ライトノベル感覚のイメージストーリー】です。
創造力・空想力・独創力を思いっきり働かせて見て頂けると嬉しいです(^^♪
出来れば心の声で聴いて頂けると幸いです♬
でもこの条件から出来るだけ面白く工夫してみようと思ってますので、
どうぞよろしくお願いします(^^♪
※過去の記事を再アップしております^^
【本日のメッセージ】
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【ブログ】
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(ブログを見てくださると聖書や讃美歌も閲覧できます)
聖書
『使徒行伝』(第二二章六〜一一節)
『出エジプト記』(第三章一〜六節)
讃美歌〜
讃美歌352番
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=rpSGzYlt54E&pp=ygUP6K6D576O5q2MMzUy55Wq
讃美歌515番
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=mZLo28ub4jo
2025年7月13日 礼拝説教 聖書箇所
「わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』という声を聞いたのです。」
使徒言行録22章7節
主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。
出エジプト記3章4節
はじめに
受難と復活・昇天(着座)された主キリスト・イエスの中に、使徒の回心を学ぶ。
1
「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと」と、エルサレムの神殿の境内で逮捕され、二本の鎖で縛られた使徒パウロは、千人隊長の許可のもと、多くの人々に向かって、弁明を続ける。それは、ダマスコの地にいる「この道」に従う者たちを「縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するため」であった。その時、「真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周囲を照らしました」と証言する。先に伝えられたサウロ(前の名前)の回心(使徒9章)が、使徒パウロ自身の証言において繰り返して物語られる(アグリッパ王の前で再度証言(26章))。「わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです」と、パウロはありのままを伝える。「『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました」。他の箇所にはない「ナザレの」が加えられる。聖霊降臨の日、使徒ペトロも「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」(使徒2章22節)と伝えたとおり、ユダヤ人たちにとって、「十字架につけて殺したイエス」(同36節)との共通認識に沿った証言と言える。その自覚のある人程、パウロの証言は心に迫った。
2
「一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした」との証言は、先の箇所(9章)では「声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた」。ここでは、パウロの思いは、主イエスご自身の声に聞いたことにある。しかし、他の人々は、その声を聞いても誰の声かは分からなかった。「『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました」との証言は、主への屈服を証しするもの。
パウロの回心は、多くのユダヤ人からすれば「この道」への改宗。しかしながら、回心は人為的になし得るものではなく、ただ聖霊の業(働き)による。「新しく生まれるとは、恵み深く、抵抗することのできない聖霊の御業です。それによって罪の中に死んでいた人間が、キリストにある新しい命によみがえる」「真の回心とは、罪を心から悲しむこと、そして救い主であり、主であるキリストに誠実に立ち帰っていくこと」(ハイデルベルクコンペンディウム問52,53)。使徒パウロは、自身に現れた「主キリスト・イエス」とへの感謝を手紙でも伝えた。じつに、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は、真実と(テモテ一1章12~17節)。
3
「わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました」。パウロの変化は、外からは目が見えなくなったことに留まった。キリストの光によって、一時的に目がくらんだのではなく、パウロはその光によって肉の目を失った。それは高ぶりの目を失ったということ。盲人の目をいやされたとき、ファイサイ派の人たちは、「我々も見えないとうことか」と言った(ヨハネ9章40節)。それは、聖書の証言する主イエスに従った人たちと同様(取税人マタイ(マタイ9章、同ザアカイ(ルカ19章)、サマリアの女(ヨハネ4章)等)。
おわりに
パウロの回心は、召命を与えられた日。モーセ同様、パウロもその名を呼ばれ、主の召命に応えた。本来、われらの回心は、主キリスト・イエスに向かう誠実な道。
(Mynote)
二〇二五年七月一三日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『スコットランド教会新カテキズム』
「使徒信条の七つ目の箇条は何を含んでいますか。」
「審判の為にキリストが来られる事です。」
お金を預かったしもべの話が引用された。お金を増やした人、そして預かったお金をただ置いて、増やす事も使う事もしなかった人。両者の内、お金を使わなかったしもべは「悪いしもべ」とされた。これはイエス様の例え話。このお金は賜物であろう。その賜物を信仰に於いてフルに使う事、工夫して、正しい信仰に生かされようと改める事が、全ての人(罪人)のするべき事にあろう。
(公同礼拝)
『使徒行伝』(第二二章六〜一一節)
『出エジプト記』(第三章一〜六節)
『使徒行伝』のこの箇所では、パウロがサウロの時代から改心し、その後、使徒として遣わされるまでのエピソードを、パウロ自身の口から告白する場面が描かれる。
『出エジプト記』のこの箇所では、モーセが神様に呼ばれ、「ここは聖なる地だから踏み入れず、足から靴を脱ぎなさい」と教えられ、モーセに信仰を守らせた。モーセはその通りに従った。
詰り召命のエピソードであり、信仰に救われる事は誰にとっても早い遅いは無く、神様がその人の為にタイミングを必ず設け、その人が、そのタイミングにきちんと応えられるかどうかがポイントになる。
そのポイント・ターニングポイントで、神様の声に従う者と、従わない者に別れる。そのポイントかつ、神様からの召命の声は、おそらく日常の形で知らされる事、サインの様になるだろうか。その事は、その召命を受けた人にだけ分かる事になろう。同じその召命を受けても、その人にしか分からないものにあれば、他の人にその召命は分からない。同じ光を見ても、召命を受けた者には救いの光に見えるが、召命をまだその時に受けて居ない者にとっては同じく日常の、普通の光にしか見えないのだろう。この見極めが大事にあり、その見極めは正しい信仰に依ってしか分からないものである。
神様に捕えられる、という言葉がある。これは召命の事であり、その時点から信仰に生かされる起点になり、その人の人生は百八十度変わる事になる。パウロはサウロの時、キリスト教を迫害して居た。でもダマスコの途上で神様に捕えられ、信仰の途に救われた時、同じく百八十度、真逆の信仰に歩む事になった。
その時パウロは光により目が見えなくなり、のちにダマスコに行ってから、アナニヤと言う兄弟が神様に遣わされパウロの所に行き、またパウロは目が見える様になった。この時の、パウロの目に注目する事が大事。見えなくなる前の見えて居た時の目は、肉により、肉を見る目であった。しかし聖霊の働きに依り見えなくなった後に又見える様になったその目は、霊を見る目、聖霊を見る目に変えられた。それにより信仰に救われ、その後はイエス様を全ての人に伝える伝道者となって、神様に遣わされる人生に変わったのである。
パウロ「私が受けた事」…改心した事を踏まえてこの事が最も大事にある(『コリント人への手紙』参照)。イエス様が十字架の死から三日目に甦り、全ての罪人の為にその罪を贖う契機を与えた事。即ち、イエス様の存在を通して全ての罪人(人間)は改心する機会(悔い改めの機会)が与えられ、その後の信仰の生活に変えられる事の大事である。ただ神様がパウロに与えた奇跡に依りパウロが変えられただけでなく、その後のパウロの行動により、努力にもより、その救いの奇跡を生かす形で救われた。そこで人は一つずつを学ぶのである。信仰に就いて学び、改めて何度も神様とイエス様に教えられ、正しい信仰に生かされる為の土台を改めて持ち直す事。これは全ての人に言える、神様から与えられた愛と恵みに在り、罪の悔い改めにより罪から救われるという、罪人にとって最大の喜びに繋がるのである。
パウロがサウロの時に犯した罪は、キリスト(イエス様)を迫害する事だった。信仰を持つ事、改心する事(悔い改める事)は、神様に近付く事である。近付くとは、神様の声を直接の聴く事である。詰り聖書の御言葉に聴く事である。神様、イエス様から人に近付く事は、この聖書の時代から現代までを通し、その都度の神様とイエス様の言葉、聖書から聴く言葉により、既に現れて居る。イエス様の事を知った時点で、人の興味を引く形でも、神様は既に全ての人に近付いて居る。何より全ての人は神様から生まれたのだから、その細胞レベルで神様を最も身近に感じて知って居る。
しかし人は神様を忘れて生きるものにあり、だからこそ信仰が育てられる為、自分の方から「主よ、あなたは誰ですか?」と近付く様に姿勢を改めねば成らない。パウロもこの時、
「主よ、あなたはどなたですか」
と問うた。するとイエス様は、
「私は、あなたが迫害しているナザレ人イエスである」(『使徒行伝』第二二章八節)
とパウロに応えた。この問いと応えには、信仰の努力と、神様がその人に与えるタイミングが必要になろう。誰にでも決まって、その人の時がある。神様から与えられる「時」であり、その時に神様に従えば、その人は正しい信仰の途に歩む事が出来る。そう信じるべきではなかろうか。
又、パウロが召命を受けたこの時、同じ光を見てもパウロには神様の声・イエス様の声が聞こえたが、パウロと共に居た連れ人達には聞こえなかった。この「聞こえた人・聞こえなかった人」に分けられた事に、既に神様から与えられる夫々の人のタイミングが現れて居る。詰りその人の信仰は、神様から与えられるその人だけの信仰となり、これは兄弟姉妹共に救われるその信仰の土台、きっかけになるものにあろう。夫々の人の救われ方の事である。この改心(悔い改め)は、聖霊に依り新しく生まれ変わる事にあり、人が自力で出来る事には無い。誰でも、イエス様を通して神様に、聖霊に、信仰に救われるのである。パウロがサウロだった時、キリストを迫害するその時間さえ、信仰に救われる迄の猶予として与えられて居た。この迫害を通したからこそ、パウロは「その罪から救われ、その後、使徒として遣わされた」と言えるだろうか。パウロはその起点で、神様に従い、信仰に生かされた。救いを受けた事により先ず悔い改めて、それから神様に従ったのだ。この事が、全ての罪人にとって必要である。
【日本キリスト改革派 男山教会】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【最寄りの教会検索用】
https://www.rcj.gr.jp/
Table Caffe〜
榎本保郎牧師 ミニ説教19 「イエス・キリストを身近に」
https://www.youtube.com/watch?v=MCyjy8BuIIw&t=2s
「SEIZE THE DAY / 今を生きる」
https://www.youtube.com/watch?v=A7Aobi9nmWM
イエス・キリストの生涯をたどる旅 II (1)
https://www.youtube.com/watch?v=vPB9SBXalPA
ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin
星のカケラ
https://www.youtube.com/@星のカケラ-v5x/videos
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