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弟子入り先の師匠が超一流なのに、ちょっと抜けてて心配です

作者: 鳥獣跋扈

 かつて「灰の森」と呼ばれたその地は、いまやただの辺境の森にすぎなかった。

 森を貫くように敷かれた獣道を、ひとりの少年が歩いていた。


 まだ十五にも満たぬその少年の名は、エル。

 栗色の髪に小柄な体躯、薄手の外套を羽織り、背には荷物と、鍛えた者だけが持つ木剣を背負っている。


 その顔は、覚悟と、少しばかりの不安に揺れていた。


 (本当に……ここにいるんだろうか)


 手にした羊皮紙の地図は簡素なもので、文字も図も粗い。

 森の中腹に描かれた赤い印には、「ユディト」と名前が記されている。


 “風を従える魔導の使い手”、“かつての王立学院筆頭講師”、“七年前、突然の引退と失踪”──。


 伝説にも似た逸話に惹かれたのが、エルがこの地へと向かった理由だった。


 (本物なら……あの人に弟子入りして、力を借りたい。強くならなきゃいけない)


 その思いの裏には、幼いころに襲われた村と、守れなかった家族の記憶がある。

 剣では届かぬものがある。力が足りない。だから、学びたい。魔法の力を。

 エルは地図を胸に畳み、もう一度、歩を進めた。


 やがて森の奥──ひらけた草地の先に、それは見えた。


 石積みの囲いの中、風に吹かれる木造の家。小さな畑と井戸。

 よく手入れされてはいるが、華やかさはなく、どちらかといえば慎ましい暮らしぶり。


 その家の前で、何かを干している人影があった。


 風に揺れる青みがかった髪が目を引いた。腰まで届く長髪は、ところどころ結われており、風に踊るたびに魔法のような軽やかさを見せる。

 身につけたローブは灰色に近い青で、袖はやや長く、指先を隠している。

 立ち姿は凛とし、背筋が通っている。それでいて、時折しゃがんでは洗濯物を地面に落としたりと、どこか様子がおかしい。


 「……あれが、ユディト……さん……?」


 口にしてから、半信半疑になる。

 だが、手元の地図と一致する場所。伝承にあった「風を従える者」が、風の魔術で洗濯物を乾かしている様子も──妙に現実味がある。


 意を決して、エルは声をかけた。


 「す、すみません!」


 洗濯物の山と格闘していた女性が、はっとこちらを向いた。

 鮮やかな翠の瞳が、真っすぐにエルを射抜く。


 「……誰?」


 その問いには、威圧でも警戒でもなく、ただ純粋な“疑問”が込められていた。





* * *





「ぼ、僕は、弟子入りを──魔法を学びたくて来ました!」


 勢いで言ったつもりだったが、ユディトは特に驚いた様子もなく、ぽかんと首をかしげていた。


 「……魔法を? ここで?」


 「は、はい! あなたは元・王立学院の筆頭講師、“風の魔女”ユディトさんですよね?」


 その言葉に、ユディトの表情がぴたりと止まる。


 「うわ。……なんで知ってんの、今どきの子。もしかして……うちの生徒だったり?」


 「いえ、違います。僕、村の出で……けど、昔、旅の賢者があなたの話をしてくれたんです。学院でも屈指の天才だったって。それで、ずっと探してて……」


 早口になりながらも、エルは精一杯、思いの丈を語った。


 家族を失った日のこと。自分には何もできなかったこと。

 剣では届かないものを、魔法で補いたいという焦がれるような願い。

 そして、その力を持つ者がこの森に住んでいるという噂を、信じてここまで歩いてきたこと。


 ユディトは黙って聞いていた。

 時折、風が二人の間を抜けるたびに、ユディトの長い髪がさらりと揺れ、目を伏せたその横顔が、静かな水面のように見えた。


 「……あのね、エルくん」


 名前を呼ばれて、エルの背筋がぴんと伸びる。


 「たしかに私はユディト。たぶん、その“元筆頭”ってやつで合ってる。でも、教えるのは久しぶりだし……何より……」


 と、彼女はローブの袖をめくり、指を見せた。親指の先が、まるで絵の具をこぼしたように赤くなっている。


 「洗濯ばさみに指を挟んだところなのよ。魔法は得意だけど、生活能力は残念な感じ。……そんな私でもいいの?」


 とぼけたように言いながら、どこか不安げに笑った。


 エルは目を丸くした。けれど、すぐに吹き出してしまった。


 「それくらい、全然平気です。……魔法がすごいなら、あとは僕が家事とか頑張りますから!」


 その言葉に、ユディトは数秒間、黙ってエルを見つめた。

 そしてふ、と小さく笑った。


 「……よし。じゃあまずは、雑用係から始めましょ」


 「えっ、あ、はい!?」


 「いきなり魔法を教えるのはね、あんまりよくないの。昔の子たちも、最初はみんな、薪割りとか畑仕事からだったし」


 そう言って、ユディトは洗濯物をまとめながら、さらりと付け加える。


 「弟子っていうのはね、“生活”から学ぶのよ。基礎体力、大事。あとごはんもちゃんと作れる人じゃないと、長く魔力を保てないんだから」


 「そ、そんなものなんですか……」


 「そんなものなのよ。さ、今日は畑の草抜きから始めようか。あと井戸の掃除。……あ、そうそう、私いま財布なくしてて、お昼は自給自足ね♪」


 完璧に話を進めていく口調は、堂々としていて、妙に説得力がある。

 けれど、言っている内容の端々にはツッコミどころが満載だった。


 (なんか……すごい人なんだけど……すごく変だ……!)


 エルは心の中で小さく叫びながらも、ぎこちなく頷いた。


 こうして、エルの“弟子生活”が始まった。





* * *





 翌朝、エルはまだ陽も登りきらぬうちに目を覚ました。


 慣れぬ木製の簡素な寝台、薄い布団、窓から差し込む涼やかな朝の光──。

 けれど、身体は不思議と軽かった。胸の奥に、これからの日々への期待がある。


 (さて……まずは草抜きから、だったよな)


 昨夜、ユディトに割り当てられた「雑用リスト」は驚くほど細かく、しかも丁寧だった。


 ・畑の東側の草抜き(根からしっかり)

 ・井戸の掃除(桶もロープも磨くこと)

 ・朝食の支度(卵、パン、ハーブティー)

 ・魔力測定用の水晶の水拭き


 (いや……一応、魔法関係の単語もあるっちゃあるんだけど……)


 愚痴りたくなる気持ちを堪えて、エルは外に出た。


 朝露に濡れた畑は、ほんのりと草の香りがしていて、空気はひんやりと澄んでいた。

 こういう静かな時間も、悪くないと思えるのが、自分でも不思議だった。


 「おはよう、エルくん。いい朝ねー」


 軽やかな声が背後から聞こえた。

 振り返ると、ユディトが大きな麦わら帽子を被って、寝癖のまま現れた。


 その姿は、師匠というより、どこか「よくできた農家の奥さん」のようでもあった。


 「おはようございます。今日も、草抜きからでいいですか?」


 「うんうん。ありがと。あとね、卵も取ってきてくれる? 鶏が怒るかもだけど、そこはうまく言いくるめて」


 「言いくるめる、って……鶏相手にですか……?」


 「そうよ? 彼女たち、意外と聞き分けいいから。私はよく、“朝ごはんにするからちょうだいね”って言って渡してもらうの」


 「……わかりました。頑張ってみます」


 エルはそっとため息をつきつつ、鶏小屋に向かった。

 案の定、最初は羽ばたきとくちばしの応酬だったが、根気強く声をかけ続けていたら、何とか三つほど卵を回収することに成功した。


 「……言いくるめられた、のか?」


 自分でも半信半疑だったが、成果を持って戻ると、ユディトは目を輝かせた。


 「すごいじゃない! 立派な弟子の第一歩ね!」


 「……ありがとうございます」


 言いながらも、ほんの少しだけ誇らしい気持ちが湧いた。


 朝食は簡素なものだったが、焼きたてのパンとふわふわの卵、ユディトの淹れる香り高いハーブティーは絶品だった。


 「これ……本当に美味しいです」


 「でしょ? 魔力の循環にいいの。ちょっとした調合魔法みたいなもんよ」


 「なるほど、これも魔法の一種……」


 「そうそう。台所も魔法陣みたいなものなのよ」


 その言葉に、エルはしみじみと頷いた。


 (本当に、すごい人なんだ……でも、すごい人なのに──)


 ちらりと視線を向ければ、ユディトはハーブティーをこぼして、自分の袖を濡らしていた。


 「あちゃー、やっちゃった」


 抜けてる。この人、やっぱり抜けてる。





* * *





 午後、日が高くなったころ、ユディトは家の裏手からなにやら古びた木箱を抱えて現れた。


 「はいこれ。エルくん、魔力量の基礎測定をしてみましょっか」


 「……! はいっ!」


 ようやく、魔法らしい内容が出てきたことに、エルの声が自然と弾んだ。


 木箱の中には、水晶玉のような透明な球体が一つ、布の上に丁寧に置かれていた。手のひらほどの大きさで、光を反射してきらきらと輝いている。


 「これが、測定水晶?」


 「そうそう。古いやつだけど、ちゃんと動くはず。……たぶん」


 「……たぶん?」


 「ちょっとだけ、こないだ井戸に落としちゃってね。乾かしてはおいたけど」


 (……やっぱりどこか抜けてる)


 そんな不安を抱えつつも、エルは姿勢を正して水晶に手をかざす。


 「リラックスして、意識を内に向けて。呼吸は自然に──」


 ユディトの柔らかな声に導かれながら、エルは静かに魔力の感覚を探った。


 小さな波のような、身体の奥からふわりと立ち上る感触。それが手から水晶へと流れていく──。


 すると、水晶が淡い蒼の光を帯びた。中にうっすらと渦が生まれ、中心に向かって優しく収束していく。


 「……おお」


 「ふふ、やるわね。素直で綺麗な魔力。粗さもないし、訓練すればすぐに制御できるようになるわよ」


 ユディトの声は、どこか本職の教師のように聞こえた。


 「ありがとうございます!」


 エルの胸が高鳴る。自分の中に、ちゃんと“才能”があった。そう確信できるだけの手応えが、そこにあった。


 「よーし、それじゃあ次は──ちょっとした風の魔法、試してみましょっか」


 ユディトが微笑む。軽く指を鳴らしたかと思うと、その指先に風の帯が集まり、細く空気を切り裂くように流れ始めた。


 「《風精霊の囁き(ウィスパーウィンド)》」


 低く唱えられた言葉とともに、周囲の空気がさざ波のように振動し、風が草をなで、空を舞った。


 柔らかく、でも確かに“制御された風”──。


 それは魔法書の中でしか知らなかった魔術が、目の前で現実になった瞬間だった。


 「す、すごい……!」


 「でしょ? このくらいなら、初歩中の初歩。でも大事なのよ。“風を掴む”っていう感覚が」


 その瞬間、背後からバサバサと布がはためく音がした。


 「あっ、しまった! 洗濯物飛ばした!」


 さっきまで畑に干してあったシーツが、彼女の魔法で綺麗に空へ舞い上がっていた。


 「……風、掴みすぎましたね」


 「う、うーん……ちょっとサービスしすぎたかしら」


 師匠の顔に、子供のような苦笑いが浮かんでいた。





* * *




 空へ飛んでいった洗濯物は、ユディトの魔法で無事に回収された。

 風を操るその様子は、あまりに鮮やかで、まるで踊っているかのようだった。


 ──風が、彼女に懐いている。


 そんな錯覚さえ覚えるほどに、ユディトの魔法は美しかった。


 「……どうだった? ちょっと、派手だったかしら」


 シーツを抱えたユディトが、少しだけ恥ずかしそうに笑う。

 エルは素直に、心から言った。


 「すごかったです。……あんな魔法、見たことありません。いや、本で読んだことはあるけど……本物は、全然違う」


 「ふふ。ありがと。風ってね、ちょっと気難しいんだけど、仲良くなれるとすごく素直なの。……ま、人にもよるけどね」


 そう言って、彼女は視線を遠くへ向けた。

 その横顔は、どこか昔を思い出しているようにも見えたが──すぐにいつもの調子でエルに振り向いた。


 「さて、午後の授業はここまで! 次はお掃除ターイムよ♪」


 「そ、掃除……」


 「そうよ。魔法陣を描くにも、床が汚れてたら台無しだもの。術者の心がけは、まず清掃からってね」


 ……理屈は合っているような、こじつけのような。


 とはいえ、逆らう理由もない。エルはバケツと雑巾を持って、家の中へと足を踏み入れた。


 ユディトの家は、見た目よりも広かった。


 木の温もりが残る床、魔導具や古書が整然と並ぶ書架、小さなラボのような調合室。

 そして──散乱する巻物、薬草、空の瓶。


 「……え?」


 「わりと、片付けるの苦手で……えへへ」


 ユディトが頭をかく。


 「でも見て、この本棚の並び順。ちゃんと“風属性の基礎理論”→“中級の応用”→“風精霊との契約”って、順に並んでるのよ?」


 「たしかに……理論面はすごく整理されてますね……足元は……ぐちゃぐちゃですけど……」


 エルは肩を落としながら、魔導書の下に挟まっていた干からびたハーブの束を拾い上げた。


 (師匠の中で、「重要」と「それ以外」の線引きが極端なんだろうな……)


 それでも、こうして近くで触れてみれば、ユディトのすごさはただの“伝説”ではなかった。

 一つ一つの道具が意味を持って配置され、魔力の流れに沿って空間が設計されていることがわかる。


 無造作に見える部屋すら、彼女にとっては“意味のある世界”なのだ。


 「……全部を完璧には、できないんですね」


 ぽつりと、独り言のようにこぼすと、ユディトが少しだけ目を丸くした。


 「……ふふ、そうね。たぶん私、何かを極めようとすると、それ以外はすごく雑になるのかも」


 「でも、それでいいと思います」


 エルは、雑巾を握った手に少しだけ力を込めた。


 「僕が、“それ以外”の部分、補いますから。……弟子ですからね」


 その言葉に、ユディトは目を見開き──やがて、ゆっくりと優しく微笑んだ。


 「……じゃあ、頼りにしてるわね。エルくん」


 エルの胸の奥に、何か小さな灯がともった気がした。





* * *





 その夜、夕食後。

 ユディトは珍しく、何度もくしゃみをしていた。


 「……はっ、はっくしょん!」


 「だ、大丈夫ですか?」


 「んー……なんかちょっと寒気するかも……。あれぇ、おかしいなあ……昼間、風使いすぎたかな……?」


 「もしかして、風邪ですか?」


 エルの問いに、ユディトは照れたように頬をかいた。


 「うーん、まぁ、たぶん……魔力の循環、ちょっと乱れてたのかも」


 「……休んでください。お水と薬草茶、持ってきます!」


 エルは立ち上がり、手慣れた様子で薬草を棚から取り出す。

 ここ数日で、棚のどこに何があるのかをある程度把握できるようになっていた。


 茶葉を刻み、湯を沸かし、慎重に濾しながら薬効のある茶を淹れる。

 その手つきに、ユディトが少し驚いたように声をあげた。


 「……エルくん、意外と、手際いいのね」


 「初日で“買い物袋ごと井戸に落とした師匠”を見てしまったので……ある程度、自衛本能が働きました」


 「うう……それ、いまだに言われるの……」


 布団にくるまりながら、ユディトが不満そうに唇をとがらせる。

 だが、どこか微笑ましい空気が流れていた。


 エルは湯呑を差し出し、ユディトの額にそっと手を当てる。


 「……ちょっと熱、ありますね。今日は無理しないでください」


 「了解です。……えらいなあ、ほんと」


 ふわりと笑って、ユディトは目を閉じる。

 その頬に、ほのかに赤みが差していたのは、熱のせいだけではないかもしれない。


 その夜、エルは遅くまで、そっと調合室を片付けたり、明日の雑用リストを見直したりして過ごした。


 そして翌朝。


 ユディトは布団から出られなかった。


 「んぅ……ごめん、今日はほんと、起きる気力がない……」


 その声はひどくかすれていて、額もまだ熱かった。


 エルは迷った。


 今日は、師匠が明言していた“魔法の材料採取日”。

 本来ならユディトが同行して、精霊の住む谷で必要な触媒を取ってくる予定だった。


 だが──。


 「僕が、代わりに行きます」


 エルは、はっきりとそう言った。


 ユディトは驚いたように目を開く。


 「……え? でも、あの谷はまだ危ないのよ? 精霊の気配が不安定だし、魔物が近くに出るって……」


 「大丈夫です。場所は地図で見ましたし、魔物避けの粉も、調合室にありましたよね。持っていきます。だから……休んでいてください」


 ユディトは、しばらくエルを見つめていた。


 「……わかった。でも、無理はしないで。少しでもおかしいと思ったら、すぐに引き返すのよ」


 「はい!」


 そうしてエルは、師匠の寝息を背に、森へと駆け出していった。


 不安はある。でも──自分も、誰かを守れるくらいにはなりたい。

 師匠のために、初めての独り立ちをしたい。


 そんな思いが、胸の奥で熱く灯っていた。





* * *





 谷は、森の奥にひっそりと開けていた。


 大地が緩やかにえぐれ、両側を高い岩壁に囲まれたその地は、空からの陽光をたっぷりと受けて、青い苔と光る葉を持つ植物が咲き誇っていた。

 空気が澄んでいて、どこか神聖な気配すら漂っている。


 「ここか……精霊草の群生地……」


 ユディトの書き記した地図と照らし合わせ、エルはそっと足を踏み入れる。

 空気が変わったのを感じた。生ぬるく、湿っていて、どこか異質。


 (慎重に、急がず……)


 腰には護身用の小剣。ポーチには魔物避けの粉と、応急処置用の薬草。

 呼吸を整えながら、一歩ずつ奥へと進んだ。


 風がざわめく。葉がこすれる音の奥に、何か、異質な音が混じっていた。


 ──がさり。


 「……!」


 足を止め、音の方向へ視線を向けた。

 草がわずかに揺れ、その奥から、ぬっと姿を現したのは──


 灰色の体毛に覆われた、獣のような影だった。


 「グルル……」


 それは、牙をむき出しにした四足の魔物。

 名前は知らない。だが、その瞳に宿る殺気だけは、十分に伝わった。


 (魔物避けの粉……!)


 エルは慌てて袋から小瓶を取り出し、魔法陣に沿って地面に振りまこうとした。

 が──


 風が吹いた。突風。

 谷に溜まった空気が、渦を巻くように彼の手元をかすめ、粉は宙に舞って散った。


 「くっ……!」


 チャンスを逃さず、魔物が跳んだ。


 咄嗟に小剣を抜き、エルは身を翻して草むらへ転がる。


 「ぐっ……!」


 肩にかすった爪が、皮膚を裂いた。鋭い痛みが走る。


 (逃げなきゃ……! でも、逃げ道は……!)


 背後は崖、左右は草の壁。行き止まり。

 魔物が、ゆっくりと、しかし確実に詰め寄ってくる。


 逃げ場はない。


 ──ああ、僕はまた、何もできないのか。


 あの時と同じ。無力で、誰も守れなくて、こうしてただ死ぬだけ──


 その瞬間だった。


 「《烈風のシールドゲイル》!」


 轟く風音と共に、突如現れた風の障壁が、魔物の突進を真正面から受け止めた。


 「な……!」


 魔物が跳ね返され、地面に転がる。

 そして、風の向こうから──ローブの裾をひるがえし、ユディトが姿を現した。


 青銀の髪が荒ぶる風に舞い、翠の瞳に、燃えるような光が宿っていた。


 「……間に合った」


 小さく呟き、ユディトは息を整える。

 その顔には、まだ熱の名残がありながらも、強い意志が宿っていた。


 「ユディト、さん……!?」


 「……あんたが出発してから、ちょっと気になってね。……えらいじゃない、ちゃんと地図も持って、準備して、薬草袋まで下げて」


 ユディトはちらりと彼の装備を確認しながら、苦笑した。


 「でもね、“任せた”とは言ったけど、あれは“無理しない”って約束付きだったはずよ」


 その声音には、怒りよりも、明らかな心配がにじんでいた。


 エルは、痛む肩を押さえながら、顔を伏せる。


 「ごめんなさい。でも……師匠に休んでほしかったんです。僕も、できることをしたかった」


 「知ってるわよ。……だから助けに来たの。これは“甘やかし”ってやつ」


 ユディトが指を突き出すと、風がさらに巻き上がり、魔物の足元をすくい上げる。

 動きが止まった隙に、彼女は魔法の矢を連続で放った。


 「《風刃連射バーストスライサー》!」


 無数の風の刃が、魔物の体を切り裂き、瞬く間にその動きを封じる。


 数秒後、谷に残ったのは、静寂と、微かに揺れる草の音だけだった。


 ユディトは膝をつきながら、エルのもとへ駆け寄る。


 「ケガ、大丈夫? ちゃんと歩ける?」


 「はい……なんとか。でも、師匠こそ、まだ本調子じゃ……!」


 「……まったく。仕方ない弟子を持つと、こうなるのね」


 彼女はため息をつきながら、でもどこか優しい顔で、エルの額に手を置いた。


 風が、二人の間を優しく撫でていった。




* * *





 谷を吹き抜ける風が、ひとときの静寂を連れてくる。


 ユディトはゆっくりと腰を下ろし、胸元で大きく息を吐いた。

 その肩はわずかに震え、呼吸も浅くなっている。まだ、熱が完全に引いてはいないのだ。


 「……やっぱり、無理をさせてしまったんですね、僕……」


 エルは、傷の痛みに顔をしかめながらも、ユディトの側へにじり寄った。

 ローブの袖を濡らしてしまわないように、そっと自分の上着を脱いで彼女の肩にかける。


 「……ふふ、ありがと。エルくんは優しいわね」


 ユディトは、どこか困ったように笑った。


 「……でも、怒ってもいいんですよ。僕が強く言って出かけたせいで、師匠を無理に動かすことになったんですから」


 「うーん、そうねぇ……怒るべきかもだけど……」


 と、ユディトはエルの額にそっと指を当てた。

 魔力のさざ波が小さく流れ、彼の熱と痛みがほんの少し和らいでいく。


 「……ちゃんと“誰かのために動ける”ってことが、すごく大事なの。魔法ってね、力そのものより、使う人の“心”が問われるから」


 そう言って、ユディトは遠くを見つめるように目を細めた。


 「学院にいたころはね、ただ才能のある子にしか魔法を教えなかった。結果だけを見て、“この子は無理だ”って決めつけたこともある」


 風が、彼女の髪を揺らす。


 「でも、エルくんみたいに“誰かを守りたくて、必死になれる”子を見ると、思うのよ。……ああ、私は、ちょっと偉そうすぎたんじゃないかって」


 「……そんな」


 「だからね、こうして一緒に風に吹かれて、同じように無茶して、同じようにへとへとになって──」


 ユディトは小さく笑いながら、彼の頭をぽんと撫でた。


 「やっぱり、“仕方ない弟子だな”って思うわけ」


 その言葉に、エルの胸の奥が、きゅっとなる。


 あたたかい。

 叱られたわけでも、褒められたわけでもないのに──自分が、自分として受け止められた感覚があった。


 「師匠……僕……」


 言葉にならず、エルはただ俯いた。

 涙がこぼれるのを、どうしても止められなかった。


 「泣かないの。ケガして泣くのは、まだ早いわよ」


 「ち、違います。悔しいんです……悔しくて……。やっぱり僕、一人じゃなにもできなかった。何かしたつもりで、結局助けてもらった……」


 その震える声を、ユディトはじっと聞いていた。


 そしてそっと、彼の頭を肩に引き寄せる。


 「一人で何かしようとしたことが、大事なのよ。失敗はね、“できなかった証拠”じゃなくて、“やろうとした証”なの」


 「……証、ですか」


 「そう。だから、今日は“ちゃんとやろうとした記念日”ね。来年のこの日には、きっと思い出して笑えるくらいに、強くなってるわ」


 「……はい……」


 涙をぬぐった頬に、少しだけ笑みが戻る。

 ユディトもまた、満足そうに息をついた。


 「さて、師匠としては、弟子の失敗はちゃんと見届けたわけだから……あとは回収作業ね」


 「回収?」


 ユディトが指さしたのは、谷の奥。魔物が現れる直前、エルが目を留めていた群生地。

 青白く光る葉を持つ薬草──“精霊草”が、そこに静かに揺れていた。


 「せっかくだから、取りに行きましょ。来たついで、ってことで」


 「……はい!」





* * *





 帰り道は、来たときよりも穏やかだった。


 谷を離れるころには、空の色が赤く染まり始めていた。

 風は少し冷たくなっていたけれど、ユディトの隣を歩くエルの足取りは、どこか軽やかだった。


 背負った籠の中には、丁寧に摘み取った精霊草が収まっている。

 ユディトが採取方法を一つ一つ指導してくれたおかげだ。


 「上出来だったわよ、ほんとに。特に根の残し方、初めてにしては上々。センスあるわね」


 「ありがとうございます。でも、師匠がそばにいてくれたからですよ」


 「えらい! 今日いちばんの合格点。……褒めるの、ちょっと照れるけど」


 ユディトは帽子を深くかぶり直しながら、頬をほんのり赤く染めた。


 やがて、木々の合間から見慣れた小屋の屋根が覗く。

 その光景を見たとたん、ユディトは小さく「ふぅ」と息をついた。


 「……あ、そうだ。お風呂沸かしてくるの、お願いしてもいい?」


 「もちろんです。でも、師匠は横になっててくださいね。まだ熱、完全に引いてないんじゃ……」


 「大丈夫よ。さっきちょっと回復魔法かけたし……多分、平熱」


 「多分って……」


 苦笑しながらも、エルは焚き木と水を準備しに走った。

 その背中を、ユディトは縁側に腰を下ろしながら、ぽつりと呟いた。


 「……ほんと、いつの間にこんなに頼もしくなったんだか」


 焚き火が上がり、湯気が立ち昇るころには、空は群青色に染まっていた。


 エルが戸口から顔を出す。


 「準備できましたよ。師匠、先にどうぞ」


 「うーん、でもエルくんも汗かいたでしょ? 一緒に入る?」


 「いえ、それはさすがに遠慮しておきます」


 「ふふっ、残念」


 からかうように笑いながらも、ユディトの顔はどこか嬉しそうだった。


 その夜。


 食事の後、二人で焚き火を囲みながら、静かな時間が流れていた。

 星が、頭上にひとつ、ふたつと瞬き始める。


 「師匠」


 「ん?」


 「今日……本当は、怖かったです。

  でも、それ以上に、“自分でやりたい”って思いました。……これからも、ちゃんと学びたいです。魔法のこと、もっと」


 その言葉に、ユディトはしばし黙った。

 湯呑を両手で包むように持ち、ゆっくりと口を開く。


 「……じゃあ、明日から本格的に始めよっか。魔法の基礎理論と、術式の書き方から。あと魔力循環の感覚調整も大事ね」


 「はい!」


 まっすぐな返事に、ユディトはふっと微笑む。


 「でもその前に、明日の朝の雑用リストもあるからね? 畑の草取りと、屋根の修理と……あと、虫除けの調合も」


 「……あれ、魔法の勉強は……」


 「生活魔法って大事なのよ。術者の身体は資本だもの。掃除も料理も、魔法のうち♪」


 あっけらかんと笑うユディトを前に、エルはもはや抵抗する気も起きず、苦笑するしかなかった。


 けれど、不思議とその胸の奥には──温かい灯が、ずっと揺れていた。





* * *





 翌朝。


 まだ太陽が顔を出しきらないうちに、エルは目を覚ました。

 鳥の声が遠くから響き、空は淡い朱に染まり始めている。


 屋根の隙間から漏れる朝の光が、木の床に柔らかい影を落としていた。


 エルは起き上がり、深く息を吸った。


 (……今日から、本当の“弟子”だ)


 昨日までとは違う気持ちが、胸の内にゆっくりと広がっていく。

 痛みはまだ肩に残っていたが、不思議と足取りは軽かった。


 食器棚の整理、洗い桶の掃除、朝食の仕込み──。

 何も言われずとも、身体が自然に動く。師匠の癖も、リズムも、もうだいぶ掴めてきている。


 ちょうどハーブティーに湯を注ぎ終えたころ、奥の部屋から寝ぼけ眼のユディトが現れた。


 「……おはよう。あれ……エルくん、もう起きてたの?」


 「おはようございます。今日から魔法の勉強ですから。ちゃんと準備しておこうと思って」


 「うわ……なんか……できすぎてて、逆に怖いわ……」


 ユディトはぽりぽりと頭を掻きながら、ふらふらと椅子に腰を下ろす。

 そして湯気の立つカップを手に取り、ひと口すする。


 「……うん、おいしい。昨日の配合、覚えたのね?」


 「ちゃんとメモしました。分量も、火加減も。師匠の好みも」


 「……すごっ。えっ、もしかして私、弟子じゃなくて奥さん迎えたの?」


 「それは困ります」


 即答するエルに、ユディトはぷっと吹き出した。


 「……はー、なんだかんだで、うまくやっていけそうね。

  私がちょっと抜けてても、エルくんがしっかりしてくれるなら、ね」


 「……それ、お互い様だと思います。師匠がいなかったら、僕、何もできないままでしたから」


 焚き火の残り香が、部屋にほんのりと漂っていた。

 朝の光が窓から差し込む中で、ユディトはまぶしそうに目を細める。


 「そっか。……じゃあ、今日の魔法講座、始めましょっか」


 「はい!」


 エルは立ち上がり、魔導書を両手で抱えた。

 それは、昨日の夜にユディトが「もういいよ」と言って渡してくれた、弟子専用の“初級魔導書”。


 表紙は少し擦れていて、角も折れていたけれど──その重みが、たまらなく嬉しかった。


 「それじゃあまずは、“魔力の呼吸”からね。深く、穏やかに、空気の粒と一緒に自分の中心を探っていくの」


 「……あの、師匠」


 「ん?」


 「昨日、谷で助けてくれたあと……言ってましたよね。“仕方ない弟子だな”って」


 「……ああ、うん。言ったかも」


 「……もう一回、言ってもらえませんか?」


 ユディトはぽかんとした顔をして、しばらくエルを見つめていた。

 そして、ふっと目元をゆるめて、椅子の背にもたれかかる。


 「……ほんと、世話が焼けるんだから。

  仕方ないわね、まったく──“仕方ない弟子だな”」


 その言葉は、どこかくすぐったくて、でもあたたかかった。


 エルは小さく笑って頷いた。


 ──この場所で、僕はようやく、

  “何かになれる”気がしている。




きっとエル君は半ズボン派。

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