第七話:「目覚め」
僕はズタズタにされた。もうおそらく…この命の灯火も持ってあと数舜であろうことも、分かっている。
だけど僕は「死」がどういうモノなのかを、よく知っていたから…人々に対してまったく憎しみは抱かなかった。きっかけは、レンと共に歩んだ…あの儚い冒険だ。家族のいない僕にとってレンは何より、誰よりも大切な存在だった。人非ざる僕にも、大切な存在は確かにいた。僕はこれまで、村の墓を訪れに来た人間が泣いているのを見ても、死はそんなにも不快なことなのだろうか…その程度にしか思えなかった。けれど…その涙の正体とは「哀しみ」であり、それは僕にだって訪れることを……レンが最期に教えてくれた。そして死の間際にして、やっと僕は…人間にとってその隣人こそが、かけがえのない存在であることを理解できた。だけど
それと同時に…理解したことがもう一つある。そう、人間の前にはいつか必ず「死」が訪れる…。この事実が意味する事…それこそが、僕が彼らを許せる理由…それは
いつか訪れるであろう彼らの死を待つことが、たまらなく嬉しいからだ。
そしていつか、その親、その家族、その大切な人が死んだ時に…彼らが失意のどん底に落ちて行くことを、僕自身が、深淵よりも…どこまでも深く、理解できたからだ。
何をせずとも、いつの日か人間が死の絶望を味わうと理解ってさえいれば……レンを失い苦しみ悶える僕と同じように、人間もまた親しい人を失くしたとき……喪失に悶えると分かってさえいれば…心に去来するこの不快感も、僕の心の中で勝手に潰えていった。
だから今の僕は、どんな人間からの暴力も…すぐ笑いごとにできる。人間は、生まれてから死ぬまでの間に、どんな醜悪さを、可能性を、僕に魅せてくれただろう。その可笑しさを考えただけで、僕の内から抱えきれないほどの…可笑しさが無限に溢れ出てきて、この瓦解した心を、いっぱいになるまで満たしてくれる。だからだろうか。最期にふと…僕の心底から「微笑み」が、ゆっくりと浮かび上がってきた。もはやどんな感覚も曖昧な僕は…抵抗することなくそれを、情動の赴くままに自身の顔へと…そっと浮かべた。
ああ……。笑える…笑える…おもしろい、と。
どこかへ流されていくような、奇妙な感覚に支配される。何も見えない…聞こえないが、唯一「自分が在る」という実感だけは、おぼろげながら感じる。このまま僕は…どこへともなく、流転を続けるのだろうか。だけど、それでもいいと思えた。それでまたレンに、会えるのなら…。
「――。」
突如、何もないはずの空間から「音」が聞こえてきた。それは…なにか乾ききった塵が、擦れるような音…。
暗闇の中でうっすらと、青白い光の柱が伸びてくる。その光の柱の中を、ナニか…名状しがたきナニかが…ゆっくりと降下してくる。「それ」について、あえて言語化するなら…口も目も鼻も無く、朽ち果てた死体のような…本当におぞましい、正真正銘の化け物であった。「それ」は青白い光の中で、干乾びきった無残な全身を晒しながら、ぼんやりと浮かんでいた。そこでふと気付くことがあった。なぜ僕は…光のないこの場所で「それ」の存在を知覚できるのだろう。目を閉じているのに姿が見えてしまう様な、そんな異様さに気付いた僕は……思わず笑ってしまった。なんなのだろう、この存在は! なんなのだろう、この美しさは…!
そして、僕がはじめて知る感覚に酔いしれていると
「人間、いや汝…神たる我が姿を見て…気が触れたか…?」
「それ」は僕へと語りかけてきた。またもや、不可思議なことが起こった。僕にはもう…何も聞こえないはずなのに、声が聞こえてきたのだ。面白い、面白すぎる。
「やはり、汝こそ…我が希求せし存在か…」
汝こそ、って…まるで「他」のが望まない存在みたいな言い草だな…
「その思い込みで、相違ない…。我を抜き去りし者は…わが神性には不適格だった。ゆえに、汝と異なり…その魂は外道の輪廻に回帰した。よって、かの者と汝が再び相対する時は…永久に訪れぬ。」
聞こえてたんだ…。てことはお前が、魔剣に封じられた邪神…。いや、それより……
お前がレンを…奪ったのか?
「その思い込みは…わが行いとは相反する。すなわち…汝の勘違いだ…。」
だったら、どうしてレンは消された…?
「抹消された訳ではない。ただ、この世界に跋扈せし輪廻の中へと…引き戻されたのだ。そしてその諸悪を生んだ罪過…その所在は我にあらず。この世界の神…ニャルラトホテプにこそあり…。」
輪廻…ニャルラトホテプ…なに、それ…?
「ニャルラトホテプとは、この仮初の世界を創り出した外なる神の名…。また、人間共に月神とも呼ばれる存在を指す…。そして、輪廻とはこの月世界を覆う因果…転生を伴いし地獄のことを指す…。転生とはなにか。それは肉体が死せようが、ふたたび魂が現世へ顕現し続けるまさに生き地獄…魂の滅却を許さぬ無限地獄とも言い得よう…。」
分かりづらいな…。端的に言うと、なに…?
「本来…生きとし生けるモノが死すれば、皆ことわりの外側へ…天国へと向かうはずであった。だが、月神はその因果を捻じ曲げ、自身の創り出した生命をこの月世界に閉じ込め…その苦しむさまを見て、愉悦に浸る事にいそしんでいるのだ。」
……なぜ?
「愉悦こそが…かの神の本懐であり、存在意義だからだ…。ただひたすら…快楽を得るために弄ぶ…。それこそが、月神における至上の欲求なのだ…。」
おもしろい、だと…?
「そうだ。おもしろさゆえに奴は、他を虐げ…虐め…陥れる。この世界で生きとし生ける……全ての生命を…。」
僕は、今までになにかを憎んだことは一度もなかった……。ただし、それは生きていた頃の話だ。はじめて…僕は怒りを、憎しみを…このすべてを飲み込むドス黒い情動を、心の底から煮えたぎらせた。月神はレンが、僕が、生きとし生ける全てが、無限の苦しみの渦中でもがくさまを…観測し、愉しんでいるのだ。
「その…最低な、邪悪な神の存在を、わざわざ僕に伝えたのには…なにか理由があるんだろうな…?」
僕はもう死んだ。けれど
「僕は今、生まれてはじめて…ここまで強い欲が芽生えたんだ…。ねぇ、肉体を失った僕は…この欲望を、どこに、ぶつければいいんだよ…!」
僕は、溢れそうになったこの思いを吐き出す。今や口すら無い僕は、それを言の葉の外で示す。
「それが汝の…偽りなき本当の魔力、いや狂気か…」
何もないはずの空間で、僕の想いが…魔力となって吹き荒れた。
「お前…僕を生き返らせるために、ここへ来たんだろ…?」
なぜだか僕は目の前のコイツに、死すらも超越し得る…そんな予感を見出した。その根拠は…言葉にはできないが、そう確信した。
「ほう…我が思惑を読むか……そう、その通りだ。我は汝に…選択肢を与えるために顕れた。
この黄泉の世界から…現世に帰還するか、それとも…」
「答えは…もう分かり切ってるだろう?」
「そう言うな…。あまり急いては事をし損ずる…。格別な存在たる汝であろうと、それは同様のこと……。そう、そのもう一つの選択肢とは、ことわりの外の世界…すなわち天国へ逝くこと…。」
「天国…?」
「そうだ…。不浄に満ちたこの世の外には…天国と呼ばれる場所が存在する。汝は善く生き、誓いを守った。ゆえに、天国へ逝く資格がある…。そこは最善の世界であり、祝福に満たされた約束の地…。そこへ逝けば汝における、永遠の幸福を確約しよう…。」
「僕にとっての、幸福…」
「汝は、もはや有り余るほど…この地獄を苦しみ抜いた……。再びそこへ戻ることも出来るが…。さて、汝は…どちらを選ぶ?」
「僕は…」
束の間の迷いの後…答えは、自ずと出た。
「ありがとう。君がくれたこの2つの選択肢…いずれも僕の為の道だ…。」
ピタリと、魔力の嵐が止む。
「けど、天国には行けない。」
そして、闇の中に…一筋の行幸が差し込む。
「たとえどう転んでも…その世界は、僕の希望にはなり得ない。輪廻の外へ逝ったところで…そこに僕が望む美しさはないから。」
「威勢がいいな…。だが、この世界を壊し、新世界を創るならば…天国へはもう行けぬ…。我が力を以ってすれば、新世界の創造はたやすいが…それは既に存在する理を、破壊することにほかならぬ…。ゆえに天国への道は失われる。それでも…」
それは、ボロボロの身体で僕の眼を覗き込み、問いかける。
「汝に…最善の世界を、捨てる覚悟はあるのか…?」
「…ああ。」
しがらみは、戒めは、もういらない。
「天国なんかなくても…僕にはレンから託された夢がある。それに…」
「それに…?」
「善いっていうのは、欠点がなにも無いって事じゃない。どっちを選んでも、欠けているなら…どっちにしろ悪なら…僕は敢えて悪を、勇気を持って選ぶよ。だから、僕は…善人としてじゃなく、悪として」
漆黒の黄泉の世界に、ひびが入る。
「生きる。」
すると、僕の話を黙って聞いていた「それ」の身体に、亀裂が入り……その亀裂から神々しいなにかが出でた。もともとの乾ききったそれとは、まるで打って変わったような姿で、その神は僕の前に仁王立ちした。全身に燃え盛る蒼い炎を纏い、その両腕はまるで…剣のような形をしていた。
「よくぞ言った…。では、最期に我が名であり…契約の証でもある言葉を授けよう。さぁ、唱えよ…。
エクスクロピオス・クァチル・ウタウス!」
「エクスクロピオス…クァチル・ウタウス!!」
その言葉と共に、朧気であった世界の輪郭が急激に鮮やかになっていった。