表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
98/140

第98話 尚美、樺太に行く。


1906年8月


運転席前方に大型エンジンをのせたボンネットを、鼻づらのように突き出して詰めれば4~50人ほどのれるバス車両、ボディーには”かざま交通”と書いてあり王子の鉄道駅と、近隣の町や村を回りながら走っていた。


バスには運転手のほかにバスガールと呼ばれる女性の車掌が運賃をもらい切符を渡していた。このような光景が東京の近郊の鉄道駅を中心にみられるようになった。東京の街中は小型の"かざま交通”のワゴン車が客を運び、郊外ではこのバスが活躍していた。


すでに日露戦争の話題も少なくなり、大勢の徴兵された兵士も帰国して普通の生活をしていた。


カザマの工場では物凄い活気があった兵役で戻ってきた男性達を大勢雇いれて、欧州向けの原動付自転車や250ccのレプリカモデル”KAZAMAエースワン”などを忙しく作っていた。


他にも開発した大型エンジンを積んだバス車両も完成品から順次、かざま交通に納品され軽自動車のベテラン運転手から順次このバスの運転手になってもらい、即席で採用した若い女性がバスガールの簡単な講習を受けると次々に鉄道駅を始点に新しい周回コースが決まり投入されていった。


鉄道駅からも遠く交通の手段がなくて、歩くしかないような町や村を定時に周回するバスに、住民は喜んだ。それも良心的な値段でのれるのでどこの周回バスも満員の客をのせて走っていたのである。


近隣の町の町長や村長が早く自分の所にもバスの巡回をしてほしいと会社に陳情にくるほどであった。



  ~~~~~~~~~~



日本の領土となった樺太そこのデカい樹木を「チュィィィン~」と機械音を鳴らしてアイヌ人が支給された作業服と作業靴をはいて、カザマと書かれた50ccのエンジンをつけたチェーンソーで器用に大木を伐採をしていた。


バイクや自転車で丈夫なチェーンの技術をもっていたカザマは結城のアドバイスでこの時代では画期的な発明である、チェーンソーを30ccタイプ、40ccタイプそしてデカい大木用の50ccタイプの3種類を誕生させて販売を開始した。史実ではあと20年後に米国で誕生するはずだったが、すでにカザマが国際特許を取得して爆発的に売れているのだった。


ここは樺太のオハと呼ばれる北樺太のオホーツク海に面した場所である。近くにはその近郊に住んでいたアイヌ人達を好条件で資源開発の社員になってもらい彼らの生活の為の立派な住宅建設が進んでいた。


社員の多くはアイヌ人だ、史実では江戸時代から長いあいだ不平等の扱いに苦しんだ彼らに対して結城が、昨年から北方の資源開発には寒さに強いアイヌ人の協力が必要だと立憲政友会の良識がある人たちを説得して、アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができるように社会的な平等の権利が保証された法律ができて差別に対しての罰則ができたのである。


狩猟だけで食べていた彼らにとっては、いきなり近代的な生活になるのである戸惑いもあるだろうが、労働力を提供すれば賃金がもらえて、それからいろいろな物を買うという、習慣をつける為にもちゃん賃金を払った。 


最初は、生活に便利な鍋や釜に煮炊きのできる七輪や包丁や鉈やかまなど、布団や下着に洋服や靴など文化的な物を大量に持ち込み彼らに現物支給をした。


あとは彼らが食べていく為の米やみそに野菜に塩などを提供して信用してもらい、通訳を通して機械の操作や車の運転を覚えてもらい、作業が始まったのである。


近くの海には建設資材や食料などが大量に積まれた貨物船が仮設の桟橋に停泊しており、船のクレーンで下ろすとアイヌ人達がカザマの軽トラックを何台も運転して、その荷物を積むと丘の上にあるエザキスチールが開発した丈夫なプレハブ倉庫へと運んでいた。


冬の厳冬期にはこのオホーツクの海も氷がはり冬のあいだは船も近づけないため夏の間に資材や食料を大量に運び込み、冬の間はそれで作業を続けてもらうのだ。


現場では地下資源会社の奥野英太郎が指揮をしてアイヌ人達がカザマの試作品である小型のブルトーザーで整地をしてオハ油田のプラントを建設していた。


その海岸から近くのアイヌ人達が、生活する仮設プレハブ住宅の村に尚美はきていた。


尚美

樺太のオハ油田の開発の為に、結城に頼まれて、地下資源会社の社員になったアイヌ人の健康診断の為にこの樺太までやってきた。彼らは今までこのような近代的な医療は初めてだろうが、本土からきた、私達からたちの悪い感染症の病をもらったら一発で終わりだ、さしあたって健康診断をしながら天然痘の接種を住民にしていた。


北海道から通訳の為に本土の言葉が分かる、まだ18歳のシュマリとういうアイヌの女の子といっしょにプレハブ診察所で住民の健康診断をしていた。住民はここにくるとお菓子をもらえるので怖がらずにくるようようになり、ほとんどの住人に天然痘の種痘が終わりかけた時だった。


いきなり診療所のドアをガラガラと開けて一人のアイヌの爺さんが、子供を背負い飛び込んだきた。


私は立ち上がりそばによると、


「どうしたの!、、急いで、この診療台にのせてちょうだい、、」


その子供の背中には鋭い爪で傷ついて着ていた着物は出血で真っ赤になっていた。


私のいっていることをシュマリはアイヌ語で訳してその爺さんはその子を診察台に寝かせた。


私は着物を脱げせ背中を見ると右肩から3本爪で斜めに傷が走っていた。10歳ほどの男の子で背中の肉はえぐっていたが骨まではいってなかった。


すぐに母親と父親も診療所にやってきたが、何を言っているのかさっぱりわからなかった。


シュマリが通訳して

「ヒグマにやられたときのアイヌの治療法があるから、子供には手を出すな」と言ってます。


「私が絶対治すから心配するな!、と言ってちょうだい」


シュマリが通訳で説明している間に、私は素早く傷の周りを消毒すると痛み止めの注射を傷の周辺にチクリ、チクリ、と刺しながら薬液を注入していった。


ごちゃごちゃ言っていた両親も連れてきた爺さんが一言いったら大人しくなって私の治療を見ていた。


痛み止めの薬が効く間に点滴の用意をして、念のために持ってきてた粉末結晶のペニシリンを生理食塩水で溶解して破傷風が怖いので点滴の中にもそれを混入した。それと金属のでかいボールに残りのペニシリンをいれて生理食塩水で攪拌しながらデカいガラスの針のない注射器で吸い取ると、傷を洗うようにしながらばい菌を流していった。


何度も流していくと出血も収まりピンク色の肉になってきたので、アルコールで手を消毒したら清潔な手袋をつけて縫合糸と針を用意して傷口に沿って縫い始めた。


その子供は背中をこちらに向けて泣きもしないで大人しくしていた。私は「もうすぐ終わるからね、、」と言うとわかったのかうなづいてくれた。


30分ほどできれいに縫い終わると、消毒をしてガーゼをあてて包帯をグルグル巻いたらペニシリンが入った点滴を腕にすると治療を終わらせた。


心配して私の治療をじ~と見ていた両親と連れてきた爺さんに、私が笑顔で指でOKマークをつくると意味がわかったのか、三人も笑顔になり拝むように手を合わせて頭を下げてきた。


「シュマリこの人達に伝えてよ、この点滴が終わったら家に連れていってもいいけど、痛み止めの薬と化膿止めの薬をだすから食事の後に飲むように話してくれる。」


シュマリはそれを両親に伝えた。


そうして1時間ほどで点滴も終わり、薬をもらって両親が頭を下げながら父親が子どもを背負い爺さんと家に連れていった。


私はシュマリにさきほど聞いたアイヌの治療法について聞いてみた。


シュマリ

「熊に引っ掻かれた場合は、傷口をチマキナ(ウド)の根の煎じ汁で洗い樹皮の繊維や髪の毛で縫い合わせます。」


「まじか、それじゃあ、バイ菌が入ったらもうおしまいよ、」


「それがアイヌの治しかたです、」


「それと人を襲った熊はまた、人を襲います。尚美先生も一人歩きはしないで下さい、」


「え~、そうなの、大丈夫よ、そんな事もあるかも知れないから愛銃を持ってきているのよ、」と言ってリュックからコルト社のリボルバーの拳銃を出して


「これで、安心よ、私に任せてちょうだい、」シュマリに見せびらかして自慢する尚美だった。



(シュマリちゃん、ぜったいこの人、安心じゃないですよ~すぐ逃げてね~)東京で心配する結城







つづく、、、、






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ