第96話 日露講和条約
1904年2月に日露戦争が始まり激戦が長引くにつれ「マツヤマ」 「マツヤマ」と片言の日本語を叫びながら、自らの意志で武器を捨てて投降するロシア兵がたくさんいた。そのロシア兵は、どうして「マツヤマ」と日本語を叫んで投降したのであろうか。
日露戦争においては、多くのロシア兵が捕虜となり、捕虜収容所は、愛媛県の松山や千葉県の習志野など全国29か所日本各地の収容所で生活することになった。
日本は、日露戦争が始まる18年前の1886年に、捕虜を人道的に扱うというジュネーブ条約(赤十字条約)に加入していた。世界の人たちは、やばんな東洋の日本がこの国際的な決まりをきちんと守るか注目していたのである。日本は世界の一等国に認めてもらいたくて国をあげて国際法の順守を徹底して守っていたのである。
愛媛県松山市は、戦争が始まると1904年 3月、日本で最初のロシア兵の捕虜収容所が開設された。松山の捕虜収容所を管理する人たち、日本赤十字社の医師や看護婦たちに日本軍士官それに一般市民 の人達みんなが、国の国際法順守に従い捕虜に対して、やさしく、親切に接した。
例えば、捕虜が松山に最初にやってくる玄関口の高浜港には「祖国ロシアのために勇敢に戦ったみなさん、我々は心あたたかく迎えます」 とロシア文字の大きな看板を掲げた。まるでおもてなしの待遇をした松山である。
また、捕虜のうち将校はかなり広い範囲での自由外出が許された上、ロシア人将校の捕虜で、負傷したフォン・タイルという将校は松山の収容所にいたが、
本国の妻がロシアからの来日をゆるされ、民家を借りて夫の看病にあたることができたそうです。
捕虜たちは、小学校の運動会や中学校のボートレースに招かれたり、大相撲や芝居の見物まで楽しむことができた。
将校達は松山市内を自由に外出できるため、市内の食料品店で自分好みの商品を買ったり道後温泉で温泉に入りくつろぐことができた。
このように捕虜を人道的に扱う以上に手厚くもてなしたようすが、外国の記者たちにより伝えられ、それがロシアの新聞にのり、 さらに日露戦争で戦っているロシア兵士まで伝わったのであろう、どうせ捕虜になるのであれば”おもてなし”の「マツヤマ」に行きたいということになったわけである。
このよう国際法順守の明治の日本も太平洋戦争になると、捕虜を強制労働させたり、極度の飢餓状態に置いたりして捕虜虐待や戦争犯罪など国際法に反する行為として戦犯として裁かれ、多くの軍人や関係者が戦後処罰を受けることになる、この時代とは大違いである。
1905年8月
アメリカ・ニューハンプシャー州ポーツマス近郊の日本全権代表団が宿舎としたウェントワースホテル
結城
俺は小村寿太郎外務大臣を筆頭にした講和会議の為の日本政府代表団の政務官として同行してきた。すでに出発前にこちらの計画である樺太つまりロシア側でいうサハリン島は絶対に日本の領土とすることで外務大臣とは合意できていた。また米国にも協力してもらうための条件もすでに了解してもらっていた。
そのため米国から協力してもらう為の秘密の打ち合わせに大統領の外交顧問ヘンリー・デニソン氏がこのホテルの会議室にきていた。俺と外務省の山岡次官とで面談して再度の確認という事になった。
向かいに座る外交顧問ヘンリー・デニソン氏とその部下に挨拶をするとさっそく覚書を渡して説明をはじめた。
「今回の日本代表団にとって最大の交渉は賠償金についての問題です。御存じのように我が国ではこの戦争で莫大な費用がかかっております。今までロシアとの幾つもの大きな戦いで勝利してきた日本にとっては、賠償金問題が一番です、しかしロシアもまだまだ負けた気になっておりませんから賠償金問題はこの交渉の中で一番問題となりいつまでも合意できないとおもいます。」
「そこで我が国が占領して実質支配しているこの樺太を、日本の領土として認めてもらうように大統領からロシア全権団と皇帝ニコライ二世への助言をお願いしたいんですが、あとは、ロシア軍は満洲および朝鮮からは撤兵し、満洲南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する日本の支配権など、細かいところはここに書いてあります。これが最終的にわが国が同意してもいい講和条件となりますが、、これについてご協力していただければ日本から米国への見返りはこちらの条件です。」
そう言って俺は駐日公使のサイモン・カーター氏に話した条件を書いた覚え書きを渡した。
1・日露の講和が成立したとき日本政府はノーベル財団に、この功績によって多くの兵士の命が助かったとして、アメリカ合衆国セオドア・ルーズベルト大統領がノーベル平和賞の受賞ができるように推薦状とその意見書を必ず出させていただきます。
2・遼東半島の大連港を国際経済特区として各国に開放して米国には特別対応させてもらいます。
3・大連からの南満州鉄道については米国企業との共同経営を提案します。
4・樺太に米国海軍基地の設営を認めるとする。
向かいに座る外交顧問ヘンリー・デニソン氏はにやりと笑いながら、立ち上がり右手を出して、
「聞いてる通りだ、日本との最高の取引だ。了解した。」
そう言って我々と握手をして彼らは帰っていった。
そりゃ、最高の取り引きだろう、なんせロシアに日本と妥協するよう言うだけで、この見返りがくるわけだ。簡単な仕事だぜ、だがこちらは違う、この島に眠っている地下資源や材木資源を頂けるわけだ、がんばって口説いてくれよ、と思っていた。
こうして裏工作も終わり、翌日から両国の代表団による講和条件についての会議がはじまった。
史実通りロシアからは全権を持っているセルゲイ・ウィッテ代表と次席全権のロマン・ローゼン駐米大使が中央の席に座っており、こちらは小村寿太郎外務大臣と高平小五郎駐米公使が対するように座って交渉がはじまった。
俺は学校の歴史でならった、このポーツマス講和会談の末席現場にいる事に興奮しながらロシア全権代表のセルゲイ・ウィッテ氏を見つめていた。
年齢は56歳で身長180センチメートルを越す大男であった。彼の置かれた状況も未来の資料で分かっていた。この戦争については財政事情等から日露開戦に
反対していたものの、かれの和平論は対日強硬派により退けられ、戦争中はロシア帝国の政権中枢より遠ざけられていた。そういう事もありロシア国内では全権としてウィッテが最適任であることは衆目の一致するところであった。
最初の会談に小村外務大臣はロシアは、日本が戦争遂行に要した実費を払い戻す事、として賠償金の問題を入れた史実通りの12箇条の提案からはじめた。最初は高い値段から言って下げていくような価格交渉である。
当然ロシア側も了解なんかするもんか、セルゲイ・ウィッテ氏も皇帝より「ひとにぎりの土地も、一ルーブルの金も日本に与えてはいけない」という厳命を受けていた。そのためまるで戦勝国の代表のように振る舞い、ロシアは必ずしも講和を欲しておらず、いつでも戦争をつづける準備があるという姿勢をくずさなかった。
そのため講和会議は十数回も行われて、8月も終わりに近づく頃、ついに米国が裏で動きニコライ二世に働きかけて、セルゲイ・ウィッテ代表と裏で密談を仕掛けた。
セルゲイ・ウィッテ氏は小村に対し「もしロシアがサハリン全島を日本にゆずる気があるならば、これを条件として、日本は金銭上の要求を撤回する気があるか」という質問をなげかけてきたのである。
それを待っていた小村寿太郎外務大臣はさりげなく俺を見つめてきたので、俺はうなづき合図を送った。
こうして会談がまとまり、軍事費として投じてきた国家予算4年分にあたる20億円を埋め合わせるための戦争賠償金を獲得することはできなかったが、この条約によって、ロシアは満洲および朝鮮からは撤兵し、樺太島(サハリン島)の日本への譲渡、満洲南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する権益などを獲得した。
こうして日本は樺太を領土として手にいれたのである。
つづく、、、、