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第94話 米国、講和交渉の仲介をする。


1905年6月

カザマ株式会社


風間社長

玲子さんから電報が届き、マン島のバイクレースで優勝したと連絡がきた。そうとう派手なことをして優勝したようで欧州で販売を任せている会社からもお祝いの電報が届いていた。


それだけでなくレースで使用したバイクのレプリカモデルとしてバイク開発室の河野君がすすめていた、市販車で250cc水冷2気筒のレプリカモデル”KAZAMA-A1(エースワン)”が完成しており販売見本で数台、、英国と仏蘭西と独逸にカタログと一緒に送っていたが玲子ちゃんの欧州での活躍で”KAZAMA”は日本を代表する世界一のバイクメーカーと認識され欧州の販売協力商社から数千台のオーダーが入ってきたのである。


その他にもエンジン始動方式で世界特許を取ってある原付自転車も”KAZAMA”ブランドということでこちらは数万台がすでに注文がきていた。


すでに結城君はこうなる事を予想していたのであろう、それぞれの生産スペースは十分に確保されていて工作機械を入れて職人を増やせば3~4ヵ月程でこなせる数量だった。


今はこのバイクブームがしばらく続くだろうが、早く車も大量生産をめざさなければいけなったが、これは結城君も米国の市場次第だといっており、もうすぐ自動車会社〇ォード・モーター社がT型〇ォードという車を売り出し日常生活において自動車の利用が普及する モータリゼーションが起きると言っていた。


その波にT型〇ォードへのカウンター商品として安さと利便性に性能の良さの三拍子でモーガン商事の販売網に乗せて全米で販売する計画と言っていた。


今度は米国の自動車レースにも挑戦するため二人乗りの、今後のデザインや技術の方向性を表現するためのコンセプトカーを自動車製作班が考えている。


ファミリー向けには軽ワゴン、小さい業者の運搬用には軽トラック、そして独身者向けに今開発中のコンセプトカーをぶつけるのが最適だと結城君が言っていた。


彼が言うのであれば間違いないだろう。風間交通は人力車の車夫を雇用して300人体制になり、ちゃんとした福利厚生も他のグループ会社と合わせて、好条件で200台以上のタクシーが走り回り、運転手からあがってきた車の改善点を聞いて次の改良車に生かそうと考えている。


買ってもらったお客には、使う本人または社員へ一週間の運転講習を必ず受けてもらう事になっており、これも好評だった。しかしまだまだ市民には手が届かない贅沢品だよ、食べていくので精一杯だから、平均賃金がもっとあがらなければ生活の質はあがらないだろうと思った。


それからまた会社を一つ子会社として立ち上げた風間飛行機である、ついに飛行機の設計が始まった、河川敷の800mの飛行場はすでにアスファルトで整地され結城君が持ってきた未来ではセスナと呼ばれる機体の詳しい資料をもとに現在の手に入る材料で詳しい図面を書いている。


これは翼が上部についている高翼機で上部に翼を設置することで飛行時の横安定性を増すことが可能となる。突然のアクシデントに見舞われても機体を水平に戻そうとするいわば「復元力」を得ることが出来る機体で横に指導者を乗せた広い操縦席が特徴である。、この二人並んでの操縦指導で大勢のパイロットを育成していくつもりだが、、最初の飛行は、この会社の空を飛ぶことを夢見る社員達からはじめてもらわないといけないだろう。


空を飛ぶことを夢見る社員には、未来の飛行機の飛ぶ原理や操縦方法、機体の専門用語に関する資料を手なおしてこの時代にあった言葉で印刷所に頼み、そのマニアル本を覚えさせながらチームは動き出した。


結城君からいろいろ教わっていたが世界の飛行機のエンジンは星形空冷エンジンがしばらくは主流になると言っていた、これは円を描くようにクランクシャフト を中心にして シリンダー が放射状に並べられる 空冷 星型の気筒配列が最も多く採用されたらしい、


これから起きる世界大戦では各国ともこの星型9気筒が主流で110馬力から130馬力、スピードも160km~180kmでこの空を自由に飛び回り殺し合いをする日がもうすぐやってくる。


結城君が持ってきたこのセスナ機の計画しているエンジンは水平対向6気筒空冷エンジン150馬力でスピードは200kmを考えている。これで二人乗りの練習機だと言っているけど、一人乗りの戦闘機になったらどれだけの性能になるのか楽しみだ。


  ~~~~~~~~~~~


1905年5月

丸の内の会社


結城

俺は政府の財政難の解決になればと思い、新しく立ち上げた資源開発会社の奥野英太郎技師とその部下3名に、この時代まだ未開発の国内油田を親父の資料から探し出し秋田県の秋田市の近郊にある、未来では八橋やばせ油田と南秋田郡、金足かなあし黒川にある黒川油田に調査に行かせた。


ここは八橋やばせ油田が1907年以降に発見され本格的に産油するのは1930年代からだ、黒川油田はもっと早く1913年頃に開発されていくのだ。


このような日本中の地下資源の場所がはっきりわかっているので山師と呼ばれる奥野技師はあてもなく探す必要もないピンポイントで発見できるのだ。


後は原油を汲出し精製する事だ、この秋田県だけで国内原油の70%が汲出される、それを国営石油会社を立ちあげて国内消費にまわして利益を国政に生かしていくのだ。


立憲政友会の党首である西園寺 公望先生とは打ち合わせ済みで大蔵省もからみ国営石油開発企業、旭日石油が立ち上がっているそして秋田県において石油由来の化学製品の開発拠点をここに作りプラスチック、ポリエチレン、合成ゴム ナイロンやアクリル、ポリエステル、などの合成繊維などの開発研究所を国で立ち上げるつもりだ。それをどうやってつくるか未来の資料があるのだ。その提供を俺は西園寺先生に提案してある。




1905年6月


米露間の外交関係は、日米関係のそれよりも歴史が古く、アメリカとロシアはたがいに最高の権限を持った国の代表大使を派遣しあっていた、だが日本とアメリカではその下の格である公使を派遣しあうにとどまっていた。


そんな米国とロシアの関係を持っている大統領セオドア・ルーズベルトに我が国の駐米公使高平小五郎が、手土産をもってロシアとの講和交渉の仲介を正式にお願いをする為、ホワイトハウスを訪れていた。すでに駐日公使のサイモン・カーターからこの話について聞いていたルーズベルト大統領は喜んで承諾をした。


そしてもらった土産をあけるとそれは忠臣蔵の討ち入りを描いた浮世絵だった忠臣蔵の一番の見どころが数枚りっぱな額縁に入っていたのである。大統領は高平駐米公使に「なぜ、、私が忠臣蔵を好きな事を知っていたんだ、」と興奮するほど喜び彼に聞いてきた。


高平公使には俺から連絡をして大統領が忠臣蔵の英語版の本を読んで、日本のサムライ精神にひどく感銘を受けた事を連絡してこの浮世絵を手にいれて仲介の手土産にする為に送っていたのである。笑みを浮かべながら高平公使は”忠臣蔵が好きだと知人から聞いて用意しました。”と答えて交渉がうまくいく事を確信して帰ったのである。


すでに未来の情報の中にはこの大統領が日本にすごく興味を持っていることは知っていた。他にも日本海海戦の際も一日中そのニュースだけを追い、ルーズベルト自身「私は興奮して自分の身はまったく日本人と化して、公務を処理することもできず終日海戦の話ばかりしていた」と、その日のことを振り返っている。


そんな情報もあったので、連合艦隊の東郷司令官にでも合わせたらどうなることやらと思った。


高平駐米公使から大統領が喜んでいたと連絡を受けて、いくらもしない浮世絵数枚の土産であるが、これで米国大統領はこちらの思惑通りに日本の為に動いてくれると思った。


なんとしても樺太、ロシアではサハリンと呼ばれる北海道と隣同士で地下資源に森林や漁業資源が豊富な金になる島を日本領土として奪い取ってやるつもりだった。


そのあとルーズベルト大統領とロシアとの会談はうまいき歴史通りに1905年8月にアメリカ・ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所において、ロシアとの講和交渉をすることが決まったのである。







つづく、、、、







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