第90話 バルチック艦隊の最期
1905年5月
日露戦争、最後の戦い、日本海海戦この戦いはただの日本の勝利というだけには終わらなかった。アジアの有色人種が白人の命じるままに隷従するという時代に終止符を打ったのである。
有色人種の国としてアジアで唯一近代国家としての道を歩いている日本は、アジアの人々にとっての希望でした。インドネシア人をはじめ日本に好意を寄せている多くのアジアの人々は、巨大なバルチック艦隊が海峡を通って行くのを見て、もうこれで日本はおしまいだと涙を流した。
ところが予期せぬ日本大勝利の報告が寄せられると、アジア中が沸き返りました。有色人種が白人に打ち勝ったという感動にアジアは満たされたのです。
白人の支配に苦しめられていた世界各地の有色人種の人々は、日本がロシアを打ち破ったことを我がことのように喜び、自分たちも白人に勝てるかもしれないという思いを新たにしたのです。
日本がロシアに勝ってからは、アジア全体の民族は、欧州を打ち破ろうと考え、盛んに独立運動を起こしました。エジプト、ペルシャ、トルコ、アフガニスタン、アラビア等が相次いで独立運動を起こし、やがてインド人も独立運動を起こすようになりました。即ち日本がロシアに勝った結果、アジア民族が独立に対する大いなる希望を抱くことになった。
それまでの世界を支えていた白人優位という価値観・秩序は音を立てて崩れ去りました。有色人種の反撃がはじまったのである。
船でアジアの港に立ち寄る日本人は誰もが大歓迎を受け、関税の役人や現地の人々から握手攻めにあいました。熱狂はたしかにアジアを包み込んでいったのである。
このように日露戦争の勝利は、まさに世界を変えた戦争の歴史の中で世界中に驚くような影響を与えたのはこの日露戦争だけであった。
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1905年5月27日
日本海海戦は満州にいる日本陸軍と本土とをつなぐ制海権を争う日露の激突である。大陸での陸戦を維持するには海上輸送の安全確保が必要だった。
そのために旅順のロシア太平洋艦隊を旅順港に閉塞して制海権を握り補給路を確保していた。陸海ともに敗色が濃くなってきたロシアは連合艦隊を制圧して制海権を奪取することで情勢を一挙に挽回しようとしたのである。
海上は南西からの強風が吹き荒れ風浪が高かった。作戦参謀であった秋山真之が東京の大本営に打電した電文の最後”本日天気晴朗ナレドモ波高シ”この気象は日本側に味方した、連合艦隊の乗組員は荒波で激しく動揺する艦上での砲術の経験が豊富でありこの日の為に必死で訓練もつんでいた。
一方、砲の数は多いが射撃能力で劣るロシア側はこの荒波によって命中率がさらに低下しそのうえ艦が動揺して喫水線の下をさらすこととなって格好の攻撃目標を与えてしまった。船腹に砲弾を受けて穴が開くことは艦船にとって命取りとなることだった。
戦闘が開始され連合艦隊はロシア艦隊の先頭部に攻撃を集中させた。高速で艦隊を運動させて常に敵の前面を圧迫して先頭部へ集中砲火を浴びせ続けた。
連合艦隊にはもう一つ装甲艦に属さない艦艇、旧式装甲艦艇や小型巡洋艦からなる戦闘部隊が控えていた。この部隊はいち早く敵艦隊に接触して東郷司令官の主力部隊のもとへ誘導する役割を果たしていた。これにより連合艦隊の主力艦が先頭部を集中攻撃をしているあいだ、他のロシア艦艇による援護を妨げていたのである。
常に前面を抑えこまれたロシア艦隊は進路の変更を余儀なくされた。しかしこのような場面でも砲戦を突破する気概がなければいけなかった。この気持ちがあれば針路を変えず連合艦隊を蹴散らし勇猛に応戦していれば血路を開いてウラジオストックまで逃走できたかもしれなかった。
先頭艦がバラバラに陣形を乱し、後続の艦にも連鎖反応をおこした。かくしてロシア艦隊は悲惨な状況に陥ったそれはまぎれもなく敗北の前兆であった。
東郷平八郎は、指揮能力、統率能力も秀でていた。最前線で敵の動向に瞬時に対応する陣頭指揮を行いつつ、幕僚を戦艦「三笠」で最も安全な司令塔に移動させ、自分が戦死した後の速やかな指揮権継承を保障するなどの指揮をとった東郷は常に演習を行い十分に艦隊の練度を上げていた。
黄海海戦などの戦闘経験と、その勝利によって士気も高かった。また黄海海戦の教訓を十分に活かした複数の艦を同時に自由に反転させるなどの様々な艦隊運動を思いのままに行うことができた。このため、逃げ回るバルチック艦隊の風上に常に回り込み、艦隊を維持しながら砲撃を加え続けることができた。
連合艦隊は、艦隊決戦において敵前大回頭とそれに続く丁字戦法による砲撃を検討研究していた。当時の海戦の常識から見れば、敵前での大角度逐次回頭は危険な行為であった。実際にその後、旗艦であり先頭艦であった三笠は回頭定針直後から敵艦隊の集中攻撃に晒され、被弾48発の内40発が右舷に集中していた。しかし、連合艦隊はそれらの不利を折り込んで実行したのである。
日露戦争以前の砲戦では、各砲が各々の判断にしたがって射撃した。この方法は砲が小さく射程が短い時代は有効であったが、砲が大型化し射程が伸びるにつれて、着弾が判りにくいこと、すなわち上がっている複数の水飛沫のうちどれが自砲から発した砲弾によるものか判別できなくなる発射の衝撃で船体が揺れ照準が狂うこと、弾着までの目標の移動による射撃諸元の算出困難などの問題が生じていた。
それぞれの戦闘艦で射撃指揮所からの射撃諸元(目標方位、距離、仰角)と発砲命令を射撃通信用の電気式通信装置および時計の文字盤を真似た指示盤、およびラッパ、伝声管で伝えて砲撃を行った。これにより連合艦隊では、事前の訓練の成果もあって高い命中率を記録した。対するバルチック艦隊では、訓練不足の上に指揮を執るべき砲術士官が次々に戦死、負傷したため従来通りの砲戦指揮(独立撃ち方)で戦うしかなかったのである。
やがて戦場は日没を迎えた。この時点でロシア艦隊は戦艦三隻を含む五隻の艦が撃沈されている。連合艦隊は主力による発砲を停止して、駆逐艦や水雷艇による夜戦に切り替えた。すでに甚大な被害をこうむったロシア艦艇にとどめを刺すべく、駆逐艦と水雷艇が暗闇をついて魚雷を発射するのである。このとき偶然にもそれまで吹き荒れていた強風が弱まった。昼間の砲撃戦で連合艦隊に有利に働いた強風が収まり、今度は暗夜での水雷攻撃が容易になったのである
まさに天が日本側に味方したというべきである。連合艦隊は夜を徹して追撃を続け翌二十八日に竹島付近においてロシア艦隊の敗残艦隊を包囲、捕獲した。
かくして日本軍はロシア艦隊を撃滅して制海権を守り地上戦を支える海上補給路の安全を確保したのである。
バルチック艦隊の艦船の損害は沈没21隻(戦艦6隻、他15隻、捕獲を避けるため自沈したものを含む)、被拿捕6隻、中立国に抑留されたもの6隻で、兵員の損害は戦死4,830名、捕虜6,100名であり、捕虜にはロジェストヴェンスキー艦隊司令官が含まれていた。連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没のみ、戦死117名、戦傷583名と軽微であり、大艦隊同士の艦隊決戦としては現在においてまで史上稀に見る一方的勝利となった。
6,000名以上の捕虜は、多くが乗艦の沈没により海に投げ出されたが、日本軍の救助活動によって救命された。
負傷し捕虜となったロジェストヴェンスキー艦隊司令官は長崎県佐世保市の海軍病院に収容され、東郷の見舞いを受けた。東郷は軍服ではなく白いシャツという平服姿であった。
病室に入るとロジェストヴェンスキー司令官を見下ろす形にならないよう、枕元の椅子にこしかけ、顔を近づけて様子を気遣いながらゆっくり話し始めた。
この時、極端な寡黙で知られる東郷が、付き添い将校が驚くほどに言葉を尽くし、苦難の大航海を成功させたにもかかわらず惨敗を喫した敗軍の提督を労った。
ロジェストヴェンスキー司令官は「敗れた相手が閣下であったことが、私の最大の慰めです」と述べ、涙を流したのであった。
つづく、、、、