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第86話 奉天大会戦


1905年2月


満州、沙河しゃか


沙河しゃかとは奉天の南およそ10kmを蛇行する河である。その河を挟み日露両軍は長大な塹壕を堀り、柱をたてその上に屋根をかぶせて掩体にして風雪や砲弾に耐えるようにしていた。奉天は清王朝の発祥地、清国が北京とならんで重視した都市だった。また、満州に進出してきたロシア軍も、奉天に満州軍総司令部を設置してこの街を満州支配の要としていた。



日露戦争における日本軍の作戦計画は、この奉天を最終攻略目標に定めた。



奉天を奪取すればロシアは停戦交渉のテーブルにつくのではないか、というのが日本側の考える戦争の終わらせ方だった。


だがそれ以上に日本はロシア軍を追って満洲の奥深くへ進撃を続けたため、兵站の維持や兵力の補充はさらに困難になり戦争継続の為の戦費が底をついて戦争の継続自体が危うい状況になっていたのである。


投入された兵力、戦域の広さ、死傷者の数 いずれをとってもこの奉天会戦は近代戦史上最大の会戦であった。


1905年2月21日から3月10日にかけて行われたこの戦い、、日本軍は総兵力約24万人、、ロシア軍は約36万人であった。


2月21日に対峙していた日露両軍はついに決戦が始まった。奉天の周囲には防御線が何重にも構築されており、1300門ほどの火砲も準備されてロシア軍の迎撃態勢は万全に整っていた。それを見たロシア側にいる各国の観戦武官は”これは難攻不落の要塞だ”と評価されていた。


対する日本軍は奉天を包囲するように東から西へ五つの軍を全長160kmの三日月型に配備していた。満州軍司令部が決定した作戦はその三日月型の両端の軍がそれぞれ敵の両翼の外側を迂回しながら、前進して西端の軍が敵の背後にまわり包囲するいわゆる迂回包囲作戦である。


そしてこの西端の前線を突破して敵の背後にまわる重要な任務を旅順の激戦を戦いぬいた精強な部隊である第三軍乃木希典大将が担当したのである。


満洲軍首脳は、奉天で増援を待つロシア軍に対して、日本軍有利の今の内に講和を結ぶため、賭けとも言える総力戦をついに挑んだ。


総司令官大山巌は「本作戦は、この日露決戦の関ヶ原とならん」と訓示し、その決意を将兵たちに示しそれは全軍に伝わりすべての兵士がこの戦いに日本の運命がかかっていると強い覚悟で戦いに挑んだのである。


それに対してロシア軍はロマノフ王朝に虐げられ、文字も読めない農夫出身の兵たちにとって誰の為に戦うのではなく無理やりに連れてこられたような兵士ばかりだった。


会戦の火蓋をきったのは東端を攻撃する川村景明かわむら かげあき大将率いる鴨緑江軍おうりょくこうぐん朝鮮半島で徴集された兵士による軍である。


氷点下二十度の極寒とたえまない吹雪の中、、最初の戦でロシア軍の小部隊を撃退して幸先の良いスタートを切ったのであるがその後の進撃は難航をきわめた。それはロシア満洲軍総司令官クロパトキン大将は旅順を陥落させた乃木大将の戦闘指揮能力とその揮下の第三軍を高く評価しており当初ロシア軍左翼を攻撃した鴨緑江軍を第三軍と勘違いしてこれに対して大量の予備軍を派遣したのである。


乃木大将率いる第三軍は旅順の激戦を戦いぬいた精強である。防弾装備もあり彼らは包囲作戦の遂行に向けてひたすら前進を続けていた。クロパトキン大将は本当の第三軍がロシア軍右翼を包囲するように動き出したと知って、ロシア軍左翼(鴨緑江軍正面)の応援に送ったこの予備軍をまたさらに右翼(乃木第三軍正面)へ転進させるという命令の変更を行った。


クロパトキン大将は約5万人ほどの第三軍を約10万人と過大に見積もっていたその誤断が生じたのは増援を重ねた10万のロシア軍に対して、乃木大将の第三軍が対等以上に戦ったからである。


このように両翼で第三軍・鴨緑江軍が戦況を進展させている状況でロシア軍の両翼を圧迫しその両翼に援軍を出して手薄になるはずの正面に対して、大規模な攻勢を展開する意図を持っていた日本満洲軍参謀は奉天正面で激しい攻撃をおこなったにもかかわらず、進展が見られないばかりかロシア軍に撃退されてしまう状況が続いていた。


これは各種大砲による準備砲撃が満洲の厳寒によって地面が凍っていたため砲弾が弾かれ、威力が半減していたことや、当時使われていた黒色火薬の威力の不足により、ロシア軍陣地を十分に叩くことができなかったことが原因であった。


両軍とも予備軍を前線に投入済みの中、日本軍の首脳部はあくまで全戦線での総力戦を指令し続け、奉天前面を攻める日本軍の第一軍、第二軍、第四軍は敵の機関銃座に無謀にも肉弾突撃を繰り返し、ロシア軍の強固な防衛線を前に日本兵は文字通り死体の山を築いた。


ロシア軍は奉天前面を攻撃する日本軍の第一軍 第二軍、第四軍、に対して反撃を続けていたが、3月5日になって奉天前面から徐々に計画的に後退を始めたこれはロシア軍正面より精強な第三軍のほうへ移す処置であった。


奉天の正面攻撃に苦戦している日本の主力軍に対してヘルメットと防弾ベストを装備した乃木大将が率いる第三軍は包囲作戦の遂行に向けてひたすら前進していた  


3月2日には奉天の北西約54kmにある新民屯(しんみんとんに達してそこで敵の背後を突こうと右旋回を行う、、そこで奉天の南西で苦戦する第二軍を掩護しながら幅24kmに渡って前線を展開して奉天に向かい包囲しながら進んでいたのである。


ロシア兵は第三軍を”悪魔の兵団”と言って恐れた。、銃弾が何発も命中しても死なないで起き上がり鬼のような形相で銃剣をこちらに向けて突撃してくるのである。


それをみた兵士は怯えて”悪魔だ!~、、悪魔がくるぞ~”と言って武器を捨てて後方へと逃げていくのである。突撃してくる第三軍を迎え撃つたびにそのような光景があちらこちらで起きて、その風評は後方へ逃げていく兵士達からロシア軍全体に広まっていくのである。


このようにして第三軍は後方から奉天に迫っていくと、それを知ったロシア軍総司令官クロパトキン大将は3月5日に奉天前面から引き抜いた部隊で新民屯(しんみんとんの第三軍司令部に対する攻撃を命じたが、、その攻撃を偵察によリ察した第三軍は奪取した敵の塹壕に旅順の戦利品であるマキシム機関銃をあるだけ並べてこれまた戦利品の敵の榴弾砲も使い撃退したのである。ほとんどの敵の捕獲した砲弾や機関銃弾を使いはたし、その戦場にはロシア兵の屍が累々と横たわっていたのである。


この戦いでクロパトキン司令官も第三軍をやはり、”悪魔の兵団”と恐れてしまい”このまま続ければ自軍の右翼が壊滅するのではないか”と危惧しはじめた。


そして第三軍に再度攻撃を主張する副官の意見や「奉天の前面にある強固な堡塁陣地を固守したい」と言う奉天の前面防御戦で優勢な将軍達の懇願も退け、

3月7日一時退却を指示したのである。



日本軍はこの好機を逃さず、約160kmにわたる戦線の全域で追撃態勢にはいり奉天に向かって直撃の攻撃を開始した。難攻不落の要塞と称されたロシア軍の巨大防御陣地がたちどころに崩壊していく、、そして3月9日ロシア軍は奉天の北方70kmにあるロシア軍の軍事基地になだれ込むように退却しはじめたのである。


進撃を続けた日本軍は3月10日退却するロシア軍を砲撃して同日ついに奉天を占領したのである。


この会戦でロシア軍が戦場に残した遺棄死体は三万余り、捕虜は五万人、負傷者は十万人以上にのぼる、日本軍の戦死者は約一万六千人、負傷者六万人であった。




つづく、、、




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