第84話 尚美、整形の手術をする。
1905年1月
赤坂にある政治家御用達の料亭
結城
立憲政友会の党首である西園寺 公望に未来の歴史に関わる動画を見てもらいすっかり信じてもらった。俺と渋沢先生は女将さんを呼んで食事を準備してもらい宴が始まり、お酒もはいった西園寺先生も緊張を緩めて未来の様子をいろいろと聞いてきた。
戦後の日本では陸軍も海軍も解体されて戦争指導者は東京裁判によって処刑されたこと、成人した裕仁殿下の事を心配してどうなったか聞いてきたので連合国は陛下の戦争責任については追及しないで、敗戦で混乱した日本をまとめる為に伝統と長い歴史のある天皇家と宮内庁組織は存続したと説明したら安心していた。
そして復興した日本は経済で発展して、東京にはデカい高層ビルが立ち並び車が あふれ返るほど走っていると話してスマホの画像を見せたらとんでもなく驚いていた。
調子にのって酔った渋沢先生が前にあげた古いスマホでいつ覚えたのか西園寺先生と顔をならベ自撮りをしてそれを西園寺先生に見せて、その反応を見て子供のようにはしゃいでいた。
俺は先生にこのポーツマス条約の交渉案とこれからの満州で計画している概要についてまとめた資料を手渡し説明した。先生はこの内容が意図することにすぐ理解してくれて、軍の口出しをさせずに経済を優先して日本が抱えているこの膨大な戦費による借金を返済する計画に同意した。
この件ですぐにでも立憲政友会の有力なメンバーを集めるから、政党事務所の会議室で説明を頼まれた。、もちろん俺が未来人だという事は西園寺先生だけの秘密にしてもらった。この政友会の中にも陸軍の考えである強い日本にするのが一番のような考えに共感する議員もいる為、さきに下工作で固めておくのだ。
先生に反発する勢力や派閥がいれば、、フフフフ、とっておきの毒饅頭作戦を使いつぶしてやる。この時代の政界は未来に比べればまだ子供のように単純な世界だ何をしてもまかり通る、金、女、酒、暴力、脅し、その時はワル・ユウキに化けてなんでもしてやる覚悟でいた。
そして最後に樺太の占領を史実よりも早く実行してもらうようお願いをして宴は計画通りに終わったのである。
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1905年1月
日帝大附属病院の手術室にある休憩室
尚美
幸子ちゃんが作ってくれた美味しいお弁当も食べ終わり、いつものようにお茶を飲みながら婦長さんや梅ちゃんに千代さんらと女子トークで盛り上がっていたら、また私の小間使いになった井上清先生が息を切らしながらやってきた。
「ハァ~、ハァ~、サリバン先生、すみません、急患です、先生が新しい治療を試したいと言っていた骨折患者が今、大八車で運ばれてきました。すぐに、急患室にきてください、、」
「わかったわ、、すぐに行くわね、、婦長さんこの間もってきた医療器材を準備して、、手術の用意もお願いね。、、」
そう言って私は柱に掛けてあった白衣を取り袖に腕を通しながら急患室に急いだ。
この時代にはまだ整形外科の名称はまだない医局がないのだ。それは外科の領域であった、、ちなみに脳外科の名称もないし医局もない第三外科がその領域にあたっていたのである。
急患室に行くと診察台にはまだ10代の少年が痛みを我慢した顔でズボンが脱がされ横なっており右足の大腿骨のちょうど中心部が青く腫れあがっていた。そばには大工の親方のような恰好をした爺さんが心配そうに立っていた。
「はいはい、だいじょうぶですよ、どうしたんですか、ケガをした時の状況を教えてくださいね、、」とその少年に聞こうとしたらその爺さんが
「近くで建ててる一軒家の現場で組み立て中の柱から落ちたんだよ~、、先生よ~こいつをなんとか治してくれよ、、足は切っちまうのか、それは勘弁してくれよ、」
「あ~、大丈夫ですよ、親方さん、、申し訳ないけど、外の腰かけに座って待っていてくれる、、」
そのちょっとうるさい爺さんを外にだして、、
「まず名前は言えるかな、、」と聞いて小間使いの井上清先生にカルテを用意させてケガの状況から書かせた。
名前は池内次郎君と言って15歳だった大工見習の2年目であの親方が自分の子供のように親切に教えていたようだ。急な突風が吹いて体が持っていかれ落ちてしまったようだ。状況がわかり骨折の状況がおそらく単純骨折(1本だけ骨がポキッと折れたような感じ)とあたりをつけて、そのまま患者運搬車に乗せかえてレントゲン室に行くと、急患の連絡を聞いていた北大路秀一医師がX線防護衣をきて準備をして待っていた。
私も予備のX線防護衣を着てレントゲンの専用台に彼を寝かせた。北大路先生がなれた手つきでフィルムが入ったケースを骨折部の下に置き、X線の感光管を適切な位置に持ってきて準備ができると私から言われて作ったX線を防護する操作室に移動してスイッチを押した。
「先に手術室に行くから現像ができたら持ってきてよ、、それと北大路先生は第一助手をお願いしますね、清は第二助手よ、、」
二人は声をそろえ「御意!」と返事を返し、、
「次郎君、、これからこの足を手術して治すのでもうちょと痛いの我慢してくれる、すぐに麻酔で痛みを取って骨折を治すからね、、」
少しほっとしたのか笑みを浮かべうなづく次郎君、、看護婦さん達が患者運搬車に彼を乗せ換えて手術室に運んでいったのである。
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手術台には患者専用の緑色した半袖のガウンを裸の上から着こみ横になった池内次郎君がいた。
さっそく私は腰椎麻酔をかける為に彼のそばに座り横になって背中をこちらに向けてもらったら、指で触診して穿刺する所を確認して渡された注射針をもって
「次郎君、ちょっとチクリとするけど我慢して動かないでね~」といって腰椎の脊髄くも膜下腔にむけて慎重に針を進めた、針をすすめる抵抗がちょっと抜ける感じがしたところで止めた。
針の尻から透明な液体がポタ、ポタと落ちてきたのを確認したら麻酔薬が入ったシリンジをそこに繋いでゆ~くり慎重に麻酔薬を流し込んだ。これで下半身だけに麻酔がかかるため、意識は保たれた状態になった。
「次郎君、、どう、痛みを感じるかな、、」と言いながら私は骨折した場所を触ってみた。
「あれ~、先生、、さっきまであんなに痛かったけど、なんにも痛くないよ~先生触っているの、何も感じないよ、」
「そうよ、触っているのよ、これでもう痛くないから手術をはじめるね、眠たかったら寝てていいわよ、、」
そう言うと私は清潔な手術着に着替え帽子とマスクをつけるとでかい洗面器に入った消毒液で手洗いをしてゴム手をつけると手術の準備をした。
その間に梅ちゃんや千代さんが手術部位だけ大きい穴が開いた覆布をかけてそこを消毒液で清潔にしていた。
婦長さんも手術着に着替えて手洗いも済ませ器械出しとして手術器材がのっているワゴンのそばにいた。
北大路先生と清がやってきてその手には先ほどとったレントゲンフィルムがあり明かりに照らして私に見えるようにしてくれた。
やはり、単純骨折だった。整復の必要もなさそうな感じなのですぐに二人にも手術着に着替え助手に入ってもらった。
骨折した右足の太腿の上部を駆血帯でしっかりと血流を止めて出血しないようにした。そして骨折部位を中心に10cmほど切開した。
ダラ~と血が流れ内出血していたところを北大路先生が吸引器で吸ってくれて清がデカいガラスのスポイトから生理食塩水をビシャビシャかけていた。
骨膜も剥離して筋鈎で広げた骨折部位を見てそれにあった長さの金属プレートをワゴンの上の器材から選ぶとそれを骨折部位にあて白鳥電気で作ってもらった医療用の電動モーターでキルシュナー鋼線と呼ばれる(ネジ付の太い鋼線)ネジでプレートをいったん仮止めした。
触ってみて骨のずれがないのを確認したらプレートにあいている穴にそってドリルで下穴を開けて特殊なゲージでその深さを計るとその長さの骨ネジを器材から一本づつとり専用のドライバーでしっかりとねじ込んだ、、数本をねじ込みしっかりと金属プレートが骨折部位を中心にかかると、仮止めのネジをはずしたら清がペニシリンが入った生理食塩水を流し込み切開部位の洗浄をはじめ北大路先生がそれを吸引器で吸い取ってくれた。
あうんの呼吸によって短い時間で手術は終わりドレーンチューブを入れて縫合をしたら駆血帯を弱め血流を再開した、特に異常もないので包帯と副木もあて動かさないように固定をしたら手術を終わらせた。
次郎君は気持ちよく寝ていたのでそのままにして病室に運んでもらった。私は手術場の待合に心配そうにしていた親方の所に言って説明を始めた。
「手術はうまくいきました。傷口が治るまで一週間から二週間は入院して下さい骨折したところに金属のプレートを入れたので1ヶ月は松葉杖で動くのはいいですけど、右足に加重はかけないでくださいね。あとは若いので半年くらいで骨はくっつくでしょうからそれを確認してからプレートを外す為にもう一度手術をします。」
「先生、、ありがとうございます、本当にありがとうございます。、」
その親代わりの大工の爺さんは泣きながら感謝の言葉を繰り返していた。
その日世界で初めての医療用ステンレス製の金属インプラントをつかった手術が日本で行われたのである。
つづく、、、、