第73話 旅順の最終決戦その2
坑道爆破による攻勢前日、日本軍の二十八糎榴弾砲や野砲、重砲の砲撃にさらされるロシア陣地
東鶏冠山北堡塁
コンドラチェンコ少将
"くそ~、どうなってんだ、日本軍は勇敢で銃剣突撃で前線突破する精神じゃないのか、、南山では何度も勇敢に突撃で決着つけようとしたのに、今回はやたら慎重に攻撃してきやがる。それに旅順艦隊を壊滅させたあの攻城砲だ、、野砲や重砲でもこのべトンと地下に作った永久堡塁は耐えるが、あのデカい奴はダメだ直撃で相当数の兵士が死傷している。”
”やはり203高地が弱点になったか、予算が足りなくてべトンを使った永久堡塁や地下施設が作れなかったが、日本軍も最初から203高地を集中して攻めてきやがって、、こっちの手の内も読まれて逆襲も失敗してしまった。このままでは負ける。”
”私は司令官アナトーリイ・ステッセリ中将に 203高地が陥落してからの日本軍が何かを待ってるようにしばらく動きがなかった。その時に予備軍2万名による一大攻勢によって日本軍を撃破するように意見具申をしたがだめだった、アレクサンドル・フォーク少将が反対しやがって自分の指揮する軍は旅順市街防衛の為の予備軍で、そんな攻勢にはださないなんていいやがった、、ステッセリ司令官も弱腰でそれに同意して結局、、最大の勝機を逃した。”
”日本軍は旅順艦隊を壊滅したこの攻城砲を待っていたんだ。”
私はこの砲撃でおびえる兵士達を激励する為に堡塁の地下通路を副官を連れて兵士達が待つ待避所に向かっていた。
”その時1発の二十八糎榴弾砲の徹甲弾がべトンで固めた防壁を突き破った”
地下通路を急ぐ我々の前で轟音と共に天井がくずれ鉄の塊が飛び込んできてピカッと光ったところで私の意識は永遠に飛んでしまった。
戦場では自ら陣頭指揮を取る勇猛さと将兵一人ひとりに気を配るコンドラチェンコ少将は、ロシア軍将兵達からの評価や信頼が高かった。彼がいれば負けない兵士達は守護神として尊敬していた。
彼の戦死はその日の夕方にはすべてのロシア兵が知る事になった。彼の戦死は将兵たちに衝撃を与え士官や兵士の士気が大きく低下したのである。
攻勢当日の朝
結城
昨日は真田中佐とこの時代でも作れる近未来の兵器の話しで盛り上がった。この戦争が終わったら連絡をもらうことにした。姉さんは真田中佐が帰ったら、なごり惜しそうにしていたけど、医学生の白井一郎君をつかまえていろいろ聞いていたよ。、、まあ、どうなる事やら、、
そして俺はまた観戦武官達といっしょに戦場全体がよく見える高台に天幕が張られた場所にきていた。まだ暗い早朝でもあったがここに来ている観戦武官は興奮しながら集まってきて英語の得意な日本軍の士官から作戦の全貌について説明をうけていた。
彼らは昨日の砲撃もここで説明を受けて盛んに敵堡塁で派手な爆発音と物凄い爆炎やべトンの塊が吹っ飛ぶところを、写真を撮ったりしてアトラクションをみているような目で見ていた。
そして今日はやっと時間をかけて掘り続けた坑道で、敵の東鶏冠山北堡塁や二龍山堡塁と盤龍山堡塁の主力堡塁に突入するための、突破口を合計6tもの盛大な爆薬をつかって派手に作るのだ、そこに精鋭の三個師団が一斉に突入して一気にこの主力堡塁を陥落させてこの戦いの決着をつけるつもりだ。
すでに各師団の兵士が攻撃開始位置に取り付いているのが見えた、昨日から一晩中砲撃が続いていた。これが最後と言うぐらい残っている砲弾を使い切るような勢いだった。
そんな作戦はいままでの戦争では聞いたこともないだろう、、世界でも初めての近代要塞攻略の軍事行動になる、どの国でも軍事教本の模範となる戦いになるだろうと俺はそう思って見ていた。
午前6:00、、敵堡塁の三か所から火山が噴火爆発するような轟音と爆風で大量の土塊が数十mも上空に向かって吹きあがった。しばらくするとこの場所にも爆風の衝撃波がきた。火薬の臭いが感じるくらいの盛大な爆発だった。あちらこちらで写真やフィルム映像を撮ってこの戦いの記録を残していた。またすごい爆発を見て衝撃を受けて胸の前で十字を切っている武官もいた。
その破壊された三か所の突破口を中心に三個師団の兵士の各第一陣が一斉に銃剣を光らせて、大声を上げて突入していった、、”ワァ~ワァ~ワワァ~突撃、ワァ~、、、”敵も砲撃を始めたが、その着弾する砲弾は少なかった。マキシム機関銃の音も聞こえていたが突撃する日本軍の声がうわまわっていた、さらに第二陣が立ち上がると大声をあげて突撃を始めた。
ロシア軍は早朝に起きた火山の爆発のような衝撃に各堡塁の内壕や待機壕に反撃準備していた数百人のロシア兵士が吹き飛ばされるか生き埋めとなり、、盛大な爆発音と衝撃で堡塁の地下にある兵士の宿営場所でも天井が崩れたりしてまともに動ける兵士がいなかった。またそれに対応するまともな将官もいなかった。
一部の士官や兵士が適切な指示をしてもすでに日本軍は内壕や塹壕に入り込み白兵戦をはじめていた。コンドラチェンコ少将の戦死ですでにやる気と気力が全く違うわけで武器を捨て、戦わないで両手を高々と上げる兵士が随所に出てきた。、、それを見た他のロシア兵もまた武器を捨てて次々と投降してきた。
すでに三か所の突破口には最後の第三陣の兵士達が続々と突入していき、周りの防御陣地や塹壕にも飛び込んでいく日本兵であふれていた。突入から一時間もしないうちに盤龍山堡塁の一番高い場所に旭日旗を持った日本兵の一隊が見えた、、大きく誇りをもって旭日旗を左右にふって”バンザ~イ、バンザ~イ、、、”と叫んでいるようだった。
それから10分もしないで次は二龍山堡塁の一番高い場所でも日本兵の一隊が旭日旗を左右に振り始めそして、ついに敵の本城である東鶏冠山北堡塁のべトンの上でも旭日旗を左右に振り始める一隊がでてきた。
最後はこの旅順で標高が一番高い「望台」の占拠をめざして競うように日本兵が三方から攻めあがっていた。そこに設置された砲台では抵抗して銃を撃つ兵士や抵抗を諦め銃を捨て両手をもう上げている兵士もいたが、ついに駆け上ってきた兵士の一隊により抵抗する兵士は銃剣で殺傷されついに、大勢の兵士が持ってきた旭日旗を銃に縛り付け、大きく左右にふってみんなで”バンザ~イ、バンザ~イ、、、、”と両手を何度も振り上げて敵の要塞を陥落させた歓喜で興奮しているようすが双眼鏡で見てとれた。
午前6:00の坑道爆破から2時間もかからないで目標の「望台」の占拠を見た観戦武官や記者は口々に”オ~、、Amazing!” ”オーマイガー、、”とあまりにも手際のすばらしい作戦に驚き、同行する日本軍の士官に握手したり拍手で称えていた。
昼までには連絡通路や交通壕でつながれた他の防御陣地や堡塁全体の最後の掃討も終わり、数千名のロシア兵の捕虜が列をなして山から降りてきた。
英国のマスメディア”タイムズ”から取材で来ていたジェームスはこの様子を写真で撮影して第三軍と乃木将軍を絶賛した記事を書いて本国に送った。
この堅固な要塞を攻める側の日本軍の損害が数百名の死傷者で済んだワンサイドゲームに各国の観戦武官は驚き、また捕虜や負傷した敵兵の扱いも尊厳を守りながら適切に対応する様子にこれが日本の武士道かと感嘆の声をあげていたのである。
コンドラチェンコ少将が戦死して東北方面の主要保塁(望台)が落ちたことでロシア軍司令官ステッセリは抗戦を断念し10月25日に日本軍へ降伏を申し入れた。
市内にはアレクサンドル・フォーク少将率いる2万名以上のロシア兵が旅順市街防衛の為の予備軍として控えていたが、彼らは一度も戦うことはなかった。
コンドラチェンコ少将により適切に運用されていたならばまた違う展開もあっただろうが、指揮官が無能の為に死兵となり全く役に立たなかったのである。
翌日にロシア司令官ステッセリと乃木は旅順近郊の水師営で会見し、互いの武勇や防備を称え合った。
そこには各国のメディア関係者も詰めかけ、ある米国人は乃木将軍に「ぜひ会見の様子を撮影させてもらえませんか。あなた達の勝利は素晴らしく、あとで映画を作りたいのです。」と言ってきた。
しかし、乃木将軍は却下して言いました。「いかに敵将とはいえ、後世まで恥を残すことは、日本の武士道が許さない。」
「戦いが終わった今、もう彼らとの間に敵も味方もない」と発言をした。
通常、会見とはいっても勝者と敗者は明確ですから、その場での言動や振る舞いには、歴然たる差があって当然だと思う西洋人だがしかし乃木将軍は、ステッセル将軍をまったく同等の立場として接して、またロシア軍人には腰に刀を下げる帯剣も許可したうえで、全員で肩を並べて記念撮影をしました。外国人記者たちは衝撃を受けてしまった仇敵であるはずの相手を目のまえに、あまりの礼節ぶり。西洋の騎士道精神にも重なる乃木将軍の行動は、その後、日本をはじめ世界中で賞賛されることになった。
これにより史実では年末までかかった旅順攻略戦、日本軍の投入兵力は延べ13万名、死傷者は約6万名に達したこの史実が、一人の女性医師が酔っ払って余計な事を喋った事と、伊地知参謀長を眠らせた事で全く変わってしまった。
堅実な攻城戦術により死傷者は5000名もいかずロシア軍は死傷者2万名以上、そして捕虜が3万名以上をだして乃木司令官が立てた計画通り10月末に旅順攻略を終了したのである。
つづく、、、