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第71話 ドッガーバンク事件

久しぶりの投稿です。  これからは不定期の投稿をさせていただきます。





1904年10月


日本中の各地で盛大な提灯行列が行なわれていた。いたるところで”第三軍バンザイ!、乃木大将バンザイ!、、バンザイ!”と老若男女が歓喜の声を上げて第三軍が旅順要塞の203高地を激戦の中で陥落させ、そこに砲撃観測所を設けて旅順艦隊を壊滅したことに大いに沸いていた。


これにより旅順艦隊の為に張り付いていた、連合艦隊はロシア・バルチック艦隊を迎え討つための艦船整備と休養ができることになったのである。


この提灯行列を苦々しく見つめる一行がいた。 反長州・反薩摩派の過激な思想を持った団体、菊月会のメンバー達である。


この団体は長州や薩摩出身の軍人が能力がなくても出世やエコひいきされる。いわゆる長州人事・薩摩人事に過激に反発する陸軍大学出のエリート官僚軍人たちが作った組織である。



九段下の料亭 菊月会の定例会

近くの大通りの提灯行列を二階の御座敷の窓からながめる菊月会の幹部


岡田誠道大尉

”くそ~、、あの予備役で白髪の髭の乃木のジジ~やろうが、長州の出身ということだけで第三軍の司令官になり、参謀長は薩摩出身の伊地知 幸介だぜ、やつなんかいつも大和魂とか言って、銃剣突撃しか命令しない無策な馬鹿なくせに何が第三軍の参謀長だよ。


旅順攻略を失敗させて、この二人にすべての責任を取らせ失脚させようと海外情報部の明石 元二郎大佐からきた英国諜報部員シドニー・ライリーが調べた旅順要塞の正確な明細地図をせっかく握りつぶして、日清戦争時の頃に少し手直ししただけと当時の地図を第三軍と参謀本部に渡して、大損害での失態を世に知らしめて薩摩と長州人事の無能な人事弊害を世に訴えようと準備してきたのに、、、


どうして無駄な突撃で被害を受けないで犠牲も少なくこんな簡単に旅順艦隊を壊滅させる事ができるんだ。あのおとなしくて、世間知らずの覇気のない乃木が考えた事なのか、、信じられない、、


「それで偽の旅順要塞の資料を準備した、情報部の渡辺岩之助中尉はどうなったんだ。、、」



高倉永則少尉

「はい、現地の第三軍から参謀本部あてで情報部からの旅順要塞の規模が全くでたらめだ!、この責任の所在をはっきりさせろ!と抗議の連絡があり、"すべての責任は自分にあります"と、遺書を残して拳銃で自決いたしました。」


「そうか、我々との関わりを探られないために一人で責任を取ってくれたか、すまない事をしたな、、」


「参謀本部ではこの事を世間に知られないように隠ぺいをはじめました。まあこれだけの大勝利では誰もそんな事があったとは思いませんが、、」


「渡辺岩之助中尉は心臓の急な病気により死亡と家族に伝えて軍の意向に従う軍医が病気死亡証明を出して幕引きをしましたが、、参謀本部の阿部中佐だけはどうも我々の菊月会を疑っておるようで密かに調査しております。」


「まあ、我々の仲間は大勢いるからな特に東北や会津、越後の出身者に幕臣関係の子弟はみんな味方だと思えばいい、聞かれても何も言わないさ、」


「いつかは能力主義で出世ができる陸軍にしたいものだ、、」


この菊月会が日本を軍国主義へと導く団体へと変わっていくのであった。




       ~~~~~~~~~~~~~~~~~


1904年10月15日


帝政ロシアのリバウ軍港に、皇帝ニコライ2世がバルチック艦隊出航の見送りの為に来ていた。盛大な音楽隊の演奏の中、司令官ロジェストヴェンスキー少将

率いる戦艦8隻 巡洋艦12隻 駆逐艦9隻 他9隻 合計38隻は、目指す極東のウラジオストックまでの約1万6400カイリ、3万㎞余の大航海が始まったのである。



ロシアは日英同盟をとても意識していた。出港前から日本艦隊が英国の協力でどこかの海域で奇襲攻撃をかけてくることを想定した。


その為に世界各地でエージェントを雇い、日本艦隊の動向を監視させた。だがエージェントは報奨金目当てに、日本の水雷艇を発見したと世界各地から嘘の情報を送ってきたのである。


英国の制海権下である北海へ出たバルチック艦隊は神経過敏に陥っていた。ロシアの雇ったエージェントはこの海域でも日本の水雷艇が待ち伏せしていると嘘の報告をしていた。10月21日夕刻、バルチック艦隊は濃霧の中ドッガーバンク付近を進んでいた。



この季節、朝晩の北海は濃霧に覆われることが多かった。工作船「カムチャツカ」が単艦で100キロあまり先行していたが、機関が故障したため遅れを生じ所在不明となっていた。


その「カムチャツカ」から旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」に「われ、水雷艇に追跡されつつあり」との無線通信が送られてきた。


司令官ロジェストヴェンスキー少将が「何隻どの方向からか」と聞くと「四方から」「水雷艇約8隻」と連絡がきたあとは通信を断ち、艦隊は緊張に包まれた


22日午前0時過ぎ、突然「戦闘配置につけ」のラッパが鳴り、次いで「水雷艇だ魚雷攻撃だ」「いや駆逐艦だ、」という声が聞こえてきた。


砲手は恐怖に襲われ暗い海面に向けてやみくもに発砲した。


艦橋からは敵らしき多数の灯火が確認され、互いに発光信号を送っているように見えた。


数隻の小型汽船が探照灯に照らし出され、うち1隻が戦艦「インペラートル・アレクサンドル3世」へ向けて突進してきたようだった。


「インペラートル・アレクサンドル3世」と「クニャージ・スヴォーロフ」は小型汽船に対して砲弾を浴びせかけ、これを撃沈した。


司令官ロジェストヴェンスキー少将はようやく何が起こったかを認識し、狂ったように怒鳴り続けた。





「よくもこんな馬鹿なことがやれたものだ、よく見ろ、あれは漁船だ!!」





北海のドッガーバンクは豊富な漁場で、イギリスの漁港から40から50隻のトロール船が毎日のように出漁していた。


漁船は100トン程度で、それぞれ8、9人が乗り込んでいた。これらは言うまでもなく非武装の民間船であった。


この日いつものようにドッガーバンクで操業していると、遠くに軍艦が見え、次いでいきなり発砲してきた。漁民たちは驚き、、漁船は魚網を切断して逃れようとしたが運悪くロシア艦隊に接近しすぎた一隻が激しい攻撃を受けて沈没し、乗員2人が死亡した。他の漁船でも6人が負傷し半年後にその内の1名が死亡した。


さらにまずいことに、バルチック艦隊は犠牲者を救助しようともせず立ち去ってしまった。トラファルガー海戦記念日に発生したこの事件に対してイギリス世論は激高した。


群衆はトラファルガー広場に集まり、ロシア海軍に対して断固たる措置を取るよう要求しデモを行った。新聞はバルチック艦隊を「海賊」「狂犬艦隊」などと非難し、国王エドワード7世も「最も卑怯な暴行事件である」と報告書の余白に書き加えた。



一方でイギリスにとっての日本の株は上がった。死亡した漁師の葬儀が行われた日、時機を失せずに東京市の尾崎行雄市長から弔電が送られてきた。


駐英日本公使の林董は、ドッガーバンクでの事件に日本人はまったく関与していないと公式に声明を発表した。


この事件により、イギリスでは市民レベルで反露・親日の機運が盛んとなり、イギリス本土も植民地も「バルチック艦隊」の入港を拒否。また当時の船の主力燃料で、イギリスが供給の大部分を支配していた「無煙炭」の補給も拒否した。この無煙炭の補給途絶により、日本海海戦時には数ノット船足が落ちたとされ、これが追撃戦で日本が一方的な戦果を挙げた一因とされた。




つづく、、、、







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