第49話 日露開戦
いつも読んでいただいてありがとうございます。
それでは、、はじまり、、、はじまり、、、
1904年
日本政府はロシアが満州からの撤退意思がないことが明らかになると極東の安定確保を目的として、清国と朝鮮の領土保全および商業活動の保全を求めて交渉した。これに対してロシアの外交筋は回答を引き延ばし前線への兵力増強と軍馬の調達を始めたのである。1月13日日本の最終案がロシアに通達された、、ロシアがこれを受けいれることが戦争回避の道であったがロシアはなんの回答も返さずシベリア鉄道でさらに2個師団を前線におくり戦争を意識した準備を始めたのである。
2月2日、ロシアは満州予備軍の動員を発令した、翌日にはウラジオ艦隊が戦闘準備を整えたのである。
そして2月4日、日本は御前会議でロシアとの開戦を決定したのである。
1904年2月6日
ロシア のサンクト・ペテルブルク
ロシア日本公使館、駐在武官明石 元二郎大佐
私は今、栗野慎一朗公使と共にロシア外務省を訪れている。日本が開戦を決断した。国交断絶の公式文章を渡しにきたのだ。そして栗野公使がラムズドルフ外相に国交断絶の公文書を手渡したとき彼は驚愕の事を言い出した。
外相は口を滑らして「ニコライ皇帝は日本が国交断絶をすることをすでに承知している」とはっきりと言ったのだ。
なんだって~、これは、、これはロシアは既に日本の外務省の暗号解読に成功してんじゃないか!、、、もしかしたらこの国交断絶の通告以前から全て知っている事になる。日本が計画していることの大部分はロシアに筒抜けじゃないのか!
私はすぐにこの事を本国外務省に連絡して暗号書の変更をお願いした、、、
この機密情報漏洩事件はすぐに原因がわかった。、暗号書を盗み出させたロシアの諜報主任が開戦直後、こともあろうに、パリの日本公使のところへ、それを五千フランで売りに来たことから内容が発覚した。
暗号書がロシアの手に渡ったとされる。その事件現場はオランダの日本公使館であった。
在オランダの日本公使は独身であったので、ロシアの情報機関はロシア人美女をオランダ人と偽って女中として住み込ませた。
この女中が公使の熟睡中に、公使の机から合鍵を使って暗号書を盗み出し、それを諜報員に手渡し、諜報員が夜明けまでに写真を撮って、女性が暗号書を金庫に戻しておくという方法であった。
この方法により暗号書の全ページを複写されてしまったのであるが、公使は盗まれたことを全く気づかなかったという。
外務省は慌てて暗号書を更新し、それ以降、在外公館では特殊な金庫に保管させるようにした。
このようにわが国の外務省の情報管理はこの時代からスカスカだったのである
(スパイ映画みたいな話であるがすべて事実である、、)
1904年2月8日、連合艦隊は旅順港外のロシア艦隊に奇襲攻撃を仕掛け、同日、陸軍先遣隊が朝鮮の仁川に上陸を開始した。
そうだ日本も2月6日国交断絶の公文書を出す前に朝鮮半島の各拠点に上陸させる陸軍部隊を輸送船40隻に収容しておりこの国交断絶の公文書提出の電信が届くと同時に連合艦隊主力とともに出撃したのである。
そして翌9日に仁川沖において日露両海軍が激突し2月10日に宣戦布告が行われた、、、ここに明治日本にとって国の命運をかけた日露戦争、、近代日本の最大の試練が始まったのである、、、
多くの国民が三国干渉による遼東半島の返還でロシアに対して恨みをもちこの戦争を覚悟していたのだ。日本各地は日露開戦を聞いて沸き立つことになる。仁川沖の勝利により各地で人々は夜になると提灯行列で万歳!、万歳!を繰り返し騒いだのであった。
結城
俺は今、英国に来ている、、オックス〇ォード大学の構内を懐かしむように歩いていた。スーザンがその校舎から今でも飛び出してくるんじゃないかと思って、、いつも座っていたベンチを見つけて驚いて腰かけた。こんな時代からあったのかと懐かしく思った。、、、
日銀副総裁高橋是清閣下と同行して英国金融界との戦費調達のために戦時外債のお願いは大成功だった、、ロイズ銀行、ロスチャイルド家、ロンドン銀行などなど訪問した名だたるところが資金提供を承諾してくれた。閣下は喜んで日本に帰国したさ、、
俺はこの国の医療のトップに立っている 英国医師アダムズ.ブランドンと以前から血圧の薬の関係で交流を続けていた。高橋閣下より先に英国にきた俺はこのブランドン医師とあって、欧州に供給するペニシリンや他の医薬品の製造を英国に作りたいと相談をしたら、彼はものすごく喜んで協力すると言ってくれた。そして俺はこの医薬品の製造のことをだしにして戦費調達の件をお願いしたら”ユウキは商売上手だな~、、資産家にいろいろ知り合いがいるからこのペニシリンへの投資だ~ぐらいの事をいって協力するよう話しておくよ。”と彼は笑いながら言ってくれた。
それとエドワード卿やマークにも戦費調達の事を話して協力してもらい裏でだいぶ日本軍がとても強いと倍ぐらい大げさな話をして勝ち馬だとアピールしてくれたらしいそんなことで前の時間軸と違って、とんでもない額の戦費調達ができたのだ。
こうしてひと仕事を終えてこの場所に来ている、、なにもかもが懐かしい、、スーザンと初めてあったパブに行くとそこに、、それは営業していた。、、すげ~これもこの時代からあったのかよ~と驚いた、、これから120年位したらここで出会うのか~と懐かしく思い店に入った、、椅子やカウンターはまだピカピカだよ~、、俺はビールとつまみを頼み奥を見ると、、、あ~、、あの時の~ピアノだ、ボロボロの箱型だったあのピアノは新品じゃないかよ~これもそんな昔からあったんだ~、、
めちゃくちゃ懐かしかった、、、もう夕方だったので近くの労働者達が仕事上がりの一杯でみんな飲みに来ていた、、、その中でガラの悪い連中が黄ばんだ汚い歯を出して笑いながら「お前、チャイナじゃないな~、日本人だろ~。黄色いサルが、、なんでこんなところで酒なんか飲んでだよ~」
そう言うと、他の連中も「お前らサルは、馬のしっこでも飲んでいろ~」とゲラゲラ笑いながらつまみのカスを投げつけてきた、、、
俺は相手をせずビールを一口飲み、、前と同じだよ~、、ここでスーザンが出てきて一喝とはならないか~、、
しょうがないな~と、、彼らを黙らせるため新品のピアノの前に立ちこれ~と指をさしマスターの顔を見ると、、弾いて構わないとうなづいてくれた。
店にいた連中はみんな俺がなにをするのか黙って見ていた、、、、、
全くあの時と同じだ、、この国が生んだ偉大なグループの名曲を俺はスーザンとこの場所で出会った事を思い出しながら静かに奏でた、、♫~^^~♪~♪~^^~♫~~~♪
店を出る時には客のみんなから”ユウキ~、最高だったぜ!、またこいよ~”と肩を叩かれ、、みんなからいっぱいごちそうになったよ、、、
その後俺はセントジョーンズにあるエドワード卿に挨拶をしにいった。長女サラはエディンバラ公の御子息との婚約も決まりエディンバラ公のお城のような御殿に結婚式はまだだが花嫁修業の形でもう生活していて御子息とはラブラブだそうだ、、、、こんなもんだよ女子の切り替えは早いんだよ!、、
いつまでも、、元カノを引きずるのは男子だけ、、、長男ジョーンズも陸軍士官学校での寮生活で広いこの家には御夫婦だけ少しさびしそうにしていたが俺もここにいるとまたスーザンの事を思いだすので、泊まっていけと言われたが戦費調達のお礼を言って日本に帰った。
この時の結城の働きで日露戦争の資金借り入れが大きく歴史を変えてしまった
日銀副総裁高橋是清が帰国すると”英国人が日本の窮地を救う資金として大金をだしてくれた。英国人だけが日本人をまともに扱ってくれる”英国を絶賛した記事が大きく新聞に報道したことで日本中の国民が英国に感謝したのである。このことは尋常小学校の教科書にもなりいつまでも国民の心に残った。
恨みを忘れない日本人であるが逆に恩を受ければそれも忘れない国民だった。
このあとの世界大戦で日本は参戦するのであるが、、史実と変わってしまったのだ。国民や新聞がこの日露戦争の英国からの恩を返す時だ~と騒ぎ日本はついに陸軍と海軍が協力した欧州派遣軍が国会で決議されることになる、、、、
カンガルーと羊の国からきた戦争を経験した事がない、アンザック軍団とともに欧州派遣軍の兵士がオスマン帝国、ダーダネルス海峡西側のガリポリ半島という場所で壮絶な戦いをして流れた血で恩を返すのであった。
つづく、、、、、