第46話 衛生兵の誕生
いつも読んでいただいてありがとうございます。
それでは、、はじまり、、、はじまり、、、
1903年6月
”結城”
政府からロシアとの戦争に備えペニシリン、モルヒネ、点滴関連品などが大量に注文が入ってきた。未来から来た俺と姉さんは知っている。来年の2月10日、日本政府はロシアに宣戦布告をする、あと八ヵ月後だ。日本中が戦争にむけて国家と国民が一体感となって突き進んでいる、、、
姉さんはこの時代に来た時にはっきりとやりたい事を言っていた”私は自分のできる範囲でこの時代の多くの人の命を助ける仕組みや薬を作ってみたい”とそれは確実に前の時間軸と変わり、正岡子規や愛子ちゃん、それとペニシリンで命が助かった人は大勢いる、、、前の時間軸では死んでいた人達がどれだけ今は元気になっているのか、、最近よく思うことがある、、この世界はまったく新しい次元の世界としてすすんでいる。、つまり前に姉が言っていた通り俺達がいた2025年の世界とこの世界、こちらに俺達が来た事で始まった世界だ、そうだ原因は俺達がタイムスリップしたということだ、、これは、、誰か分からないが、、なにか意図的なものを感じる、、う~ん、、よくわからない、、、ともかくこれからはこの命を助けた大勢の人たちのバタフライ効果で大きく歴史は変わるだろう、、もし、この日露戦争で死んでいく兵士や士官が助かりこの後の、、第一次世界大戦にどう影響していくのか、、まあ、、姉さんにそんな事いったところで「な~にも関係ね~さ」と言いそうだ。
その姉さんはまた日露戦争で傷つく兵士を助けるために新しい仕組みを考えたようだ。
これまでなかった救護の為の兵種”衛生兵”、、最前線で身を挺し兵士の応急処置をして救命する兵士だ。
このような救護の為の兵士がでてくるのは第一次世界大戦からだ、、、、日露戦争では戦闘が終了してから担架兵が負傷した兵士を後方に運んでいた。
この時代すでにジュネーブ協約はすでにあり日本は1886年に加盟している姉さんはこれに基づいて赤十字を表示した戦場の衛生兵の安全を担保してもらうよう軍医学校から陸軍にあげロシアにも通達することにしていた。
衛生兵に公式な資格はない、戦闘兵と同じ兵種だ。姉さんは勝次校長を利用して去年から各師団から後方支援をする兵士から100名ほど選抜してもらい、順番に衛生兵として短期教育をすすめていたこれは医師達が治療を行う包帯所の看護師とは違う、危険な戦闘中など最前線で活動する衛生兵は、負傷した兵士に対して応急処置を施し、後方の野戦病院へ搬送することを任務としている
銃創や大きな裂傷のような外傷を負った兵士に対して最前線で行える応急処置は包帯とガーゼ、止血帯での止血、傷口の洗浄と、気道確保、動脈などからの出血が酷い場合は鉗子を使用した止血や生理食塩水の点滴を行う場合もある。
しかし 基本的に出血を抑制しモルヒネなどで苦痛を緩和する処置がほとんどであり、そして苦しんであと死を待つだけの兵士には安楽死の為にモルヒネは使われた。姉さんはそれも教えたのである、、前線でそれ以上の処置が行われることはあまり無いだろう。
軍医の待つ安全で設備の整った後方の医療施設へ担架兵が後送するまで、負傷した兵士の命を繋ぐ事である。
そのために負傷兵の救護や治療である、医薬品・医療器具や包帯などを大量に携帯しなければならず、専用のバックパックやポーチなども必要となる。
それを姉さんは開発して、肩から斜めにぶら下げる大型バックと腰ベルトに取り付けるポーチ、モルヒネのアンプルと注射器がセットで入る携帯用の金属ケース 簡易止血帯、傷口の洗浄水が入った金属瓶、傷口の縫合用の医療ホチキスと血管止血用の小型の鉗子類、簡易包帯に止血ガーゼなどを作った。
各師団から送られてきた兵士は姉さんのスパルタ教育に耐えて初期治療を一生懸命覚えた、普段は後方任務で命をかける戦闘兵から陰口で”役立たずのクソ野郎”とバカにされていたのだ、これでやっと自分も役に立つと思っている兵士達だった
そして最後はトリアージだ。多くの負傷者が発生している状況において、傷病の緊急度や重症度に応じた優先度を決めることだ、「黒・赤・黄・緑」のトリアージタグを負傷の様子をみて手首や首に掛けていくのだ。それを見た担架兵が後方へ搬送していくのだ。そうして短期教育を各師団の衛生兵ごとに進めた
また姉さんは衛生兵の安全を担保する為に、敵側にも身分を示すよう“白地の赤十字”章入りの腕章と更に強調するために非常に目立つ、頭から被る“白地の赤十字”章が胸と背中に描かれたゼッケンを戦闘中は着用するよう渡したのである、、そして防弾の為に計画をすすめている。ヘルメットに赤十字のマークが(前後左右に)表示された物を作り彼らに渡し「あとは、お前らの活躍で兵士の生存率が大きく変わる、がんばれよ、、」と姉さんはエールをして彼らを送りだしたのである。
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硝煙がただよい、機関銃の音や砲弾の炸裂音が遠くで響いていた、世界中からきている、観戦武官は安全な場所から双眼鏡で壮絶な戦闘でバタバタ倒れる日本軍をみていた。
その時、とんでもなく目立つ赤十字のゼッケンとヘルメットを付けた兵士が、あちらこちら飛び出してきて銃弾が飛び交う中、負傷した兵士に近づきに止血処理や、モルヒネの注射を打っていたり、中には点滴を始める兵士もいたのである。
そして誰一人とロシア軍からの銃撃を受けていないことに驚愕した、そしてそばにいた日本の同行士官に聞いた、、「あの赤十字の兵士はなんなんだ、、」
同行の日本軍士官は誇りを込めて答えた。
、、「COMBAT MEDIC」、、、
こうして日本帝国陸軍は世界で初めての戦闘に参加する衛生兵という技能兵ができたのである。
普段から戦闘兵から”役立たずのクソ野郎”とバカにされていた衛生兵だったが最初の戦闘で彼らは知る事になる、、、
”命の、恩人になったのだ、、”
それからは、戦闘兵は彼らのことを尊敬を込め、、”衛生兵殿”、、と敬称をつけ呼ぶようになる、、
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”結城”
それと昨年のことであるが、ペニシリンや血圧を下げる薬など医薬品事業で十分な資金ができた俺は今までチェーンの強度の問題で棚上げをしていた、ママちゃり自転車と原動機付自転車について計画を進めようと思い、、、渋沢先生が依頼していた自動車やバイクの再生に関わっていた風間発動機の風間社長に面会した。
そのとき俺はもし、、風間社長が好感が持てる人物であれば未来からきた事を話そうと思い渋沢先生にも話した、先生は彼はとても発動機に情熱をもっているからきっと結城にとって力になる人物だと背中を押してくれた。、、俺は後5~6年したら米国ではじまるモータリゼーション(自動車 が社会と 大衆 に広く普及し、生活必需品化)を考えこの時代の日本に世界中で売れる自動車を開発しようと思っていた。、、エンジンの知識ははっきりいってないが、、資料と金はある。この風間社長が情熱があり、協力してくれればと思い会いに行ったのである。
風間社長
「あなたが、、あの自転車と発動機付自転車を持ってた結城さんですか~、、なんでも外国製だとか渋沢先生からいろいろ聞いておりましたが、、あの発動機の始動は素晴らしいアイデアですよ、、、チェーンはうまく作れませんでしたが、でもこれからは必ず発動機が付いた乗り物が世界中を走り回りますよ。絶対にそんな時代がすぐに来ます、、きっと空も飛んでくれるような仕掛けも生まれますよすでに欧米では自動車が走っているし東京や横浜でも走っているじゃないですか、、、作ってみたいな~、、そんな自動車や、、空を飛ぶものを、、、」
俺は風間社長と話してとても気にいってしまった。、、子どものように、こういう夢を語る人は大好きだ、、俺は渋沢先生の顔を見ると俺が何をしたいのか気が付き笑みを浮かべうなづいてくれた、、、俺は風間社長にスマホを見せた未来の自動車や、、空港に並ぶをジェット飛行機を見せこれが未来の乗り物だと説明した。
そしてこの時代にタイムスリップした時の話しをした。
風間社長は、、ぶったまげた、、、口を開けて、、じ~とスマホを見ると、、「こ、こ、こんなものがどうやって、、ほんとうに、、こんなでかい物が空を飛ぶ時代が、、」となりでは渋沢先生は笑いながらお茶を飲んでいた。
「はい、、来年の終わりごろには米国のライト兄弟が発動機にプロペラという物を付けた動力付きの飛行機を飛ばします、それが最初の飛行機になります。あと12~13年立つと戦争で飛行機はどんどん進化しますよ、、、戦闘機といって戦場を飛びかいますよ、、車も同じです、あと5~6年したら米国のフォードと言う会社が大量生産で米国の庶民が誰でも乗れる物になります。」
「風間社長、、いっしょにエンジン開発しませんか、、俺はあまり詳しくないけど、、金はだします。エンジンの資料もあります、、それと、、未来の最新の車とバイクもあります。、、、一度乗ってみますか、、フフフフ、、」
こうして風間社長は俺と姉の事情を知る一緒の仲間になったのである。
それから昨年さっそくチェーンの強度を高める為、日帝大学の機械工学科の佐野慎太郎教授を上杉先生から紹介してもらい丈夫なチェーンの生産方法をステンレス素材とチェーンの見本を渡して研究をお願いしたのだ。もちろん研究費に役立てくださいと謝礼は渡したさ、、それはすぐに解決した。さすが日本の最高頭脳集団であるすぐにその製法を風間社長に伝えてついにりっぱな自転車と姉さんが使っている原動機付き自転車ができあがったのである。
俺はこれを見てぜったい売れると思った。、、風間社長も同じである、、こんなすごい物を日本で作れるのはここだけだ。
それで俺は医薬品販売で稼いだ資金を投入して王子の自宅近くの荒川の河川敷を含めた広大な敷地を購入しようと思った、そこで世界有数の自動車会社を作ろうと考えていたのだ、、まず、、このママチャリ自転車を大量生産して庶民でも買える価格にするんだ。 技術の習得と売り上げの資金を貯めて次は原動付自転車だ、、これは3輪にしたタイプも業務用として売ろうと思っていた。
風間社長はすぐ了解した。、、二人の共同会社として資金は俺が出し現場は風間社長が今のまま好きにやってもらう事にした。、、
そして壮大な計画ははじまった。
それがもう少しで完成して生産が始める、、今は現在の風間社長の工場で自転車だけ先に製作している。原動機付はまだコストがかかる、自転車を先行販売しその技術修練と資金を貯めて原動付で勝負をする。それから車を作るんだ。
家で夕飯を食べていたら、、姉さんが、、「あんたさ~、、自転車作ってるんだって~、、それって、あのママチャリのこと~、、そうか、それって女性用
でしょ、、、ちょっとそれ、銀座の店で売らせてよ、、」
そうだ、この計画はすっかり姉さんにばれてしまった。特に自転車はママチャリと同じ作りだ、つまりスカートを穿いたまま乗れるのだ、跨ぐ必要がない、
姉さんはこれに前カゴを付けてさらにフレームの色については、、
「いい、桜色のピンクと、、空色のブルー、、それにくれない色の赤よ、
わかった、、それを、、そうね~、、とりあえずまぁ~ 3台ずつでいいわ」
「名前は、、そうね、この自転車はレディース”SAKURA”にしてあげる。フフフ、いい名前これは売れるわ~」と言ってまるで自分が作ったみたいに、、、俺と風間社長に指示したのである、この人には誰も逆らえない、、
この時代にも自転車はあるが女性用ではない、ましてこんなこじゃれたネーミングなんかあるもんか、、さっそくフレームには”SAKURA”のネームと指定されたカラーが用意された。
その3色の自転車が銀座に届けられたのである、、もともとがママチャリなので女性専用でもいいが、、取りあえず姉さんの野獣のカンを信じて様子を見る事にした、まだ予約という形だが価格は大量生産を前提で庶民でも買える価格にしたのである。
さっそく、、姉さんは子飼いのインフルエンサーに乗り方を練習させて、通学で利用させたのである、自転車はめずらしくもないが、ただここまでオシャレな乗り物はなかった、、みんなが注目した、、なんだってスカートでひょいと乗れるのである、、危ないときも足がすぐつくし色がとてもオシャレだった、、、、銀座の店には予約注文がどんどん入ってきた、、色は桜色のピンクください、、空色のブルーください、、と二つのカラーを連呼だ、、、姉さんがくれない色を客にすすめると、、「えっ、くれない色の赤、、これは絶対いりません!」とハッキリ
それを聞いた姉さんはガク、、と膝をつく、、くれない色の赤3台は一応見本として銀座に残し、、、かわりに白のフレームが作られ人気があった。
さらに白に変わった見本の3色の自転車レディース”SAKURA”は姉さんのブランド”NAOMI”が出店している百貨店でも展示して予約が始まったのでる。
新工場ができると早速フル生産となって生産をはじめたのであった、、、
さすがは姉さんの野生のカンであった、めちゃくちゃ売れた、、ただ、くれないの赤だけは、、、、、注文はこなかった、、、
「コンチクショ~」と叫ぶ尚美だった、、、
つづく、、、、、、