第43話 尚美 制服を作る
いつも読んでいただいてありがとうございます。
それでは、、はじまり、、、はじまり、、、
臥薪嘗胆
この時代に大流行した言葉、毎日のように新聞にスローガンのように記載されたこの言葉、これは中国の古事にもとづいた仇を討つために薪の上に寝て恥を忘れないために苦い胆を嘗めるということわざ、、、日清戦争で勝利した日本は清国から日本への遼東半島の割譲が決まったが、ロシア・ドイツ・フランスの三国は日本は清国に遼東半島を返還するようにと要求した。この三国干渉によって、列強国ロシアに対する日本の感情には大きな恨みができた、我慢を重ねて復讐を待つという「臥薪嘗胆」が、日本の合言葉となった。それが1902年1月、日英同盟が成立し偉大なる国が日本の後ろ盾となった。日本はこの「臥薪嘗胆」をスローガンに国民みんがロシアへの復讐に燃えていた。この日英同盟によって大国ロシアとの戦争へと突き進むことになる。
1902年4月
”結城”
青森からもどっきてからは、姉さんは医学部と軍医学校の動物の臓器を使った学生実習で引っ張りだこだった、、、、血管の縫合方法や臓器のダメージ処理などとんでもなくうまかったのである。その技術を学生達に教えていたのだ、
それと手術に必要な外科の手術器械もどんどん特注でつくった、、血管をつまんで止血する小さい鉗子(ブルドック鉗子)やモスキート鉗子、、キズや切開したところを縫わずに止める医療用のホチキス、、それらについてもどんどん学生達に教えていた。
それは全て戦場で傷ついた兵士への延命や治療技術であった、、、
そんないそがしい姉さんだったが、以前から五条商会にレディース部門を立ちあげろと言われ昨年立ち上げていた積極的にと言うかほぼ、、姉さんの事業である。愛子ちゃんとその仲間達はすでに俺達の事情は知っている、あんなDVD見ればみんな変だと思うさ、彼女達には秘密にしてもらった、卒業してからはみんな五条商会に入社した英国や仏蘭西などから女性服や下着や靴などを扱う店を銀座に大きく構えた。姉さんがどうせならでかい店がいいと言って建てた、5階建てだ1階と2階がお店だ3階は商品開発や事務室、4階に女性向けの雑誌を作るための部屋を作ったがここはまだ空き家だ。5階は倉庫と空き部屋にしてある、愛ちゃんと仲間達が売り子さんや仕入れを手伝い店はそれなりに繁盛していた。
そこへ中途採用で松原チエさんを採用した、、チエさんは高〇屋の百貨店で外商部で働いていた、、成績は優秀だったがそれを妬んだ男性社員のいやがらせで高〇屋をやめた。その実力は確かだ彼女をレディース部門の中心的な社員にするつもりだ。
春に新しい仲間が増えた、沖縄の女学校を卒業してきた比嘉タマエちゃんと青森の女学校を卒業してきた工藤久江ちゃんだ、、姉さんはこの時代でも快適に使える生理用品をタマエちゃんと考え試作品を作り未来の製品に近い物を作った、それと専用の下着など、、、、着物でこのような物になじみがない御夫人も一度使うとすぐリピーターになった。、、ともかくこの時代は着物、着物、着物ばっかりだ、、スカートを穿いてもらわなければ下着も売れない、、
女性の洋服化をどうするか考えていたら、「若者だ!」と姉さんが突然言い出した、、「ババ~がスカートなんかはくもんか!、、、袴だよ~、、女学生の袴はスカートだよ、、、」
”こいつ何言ってんだとうとう壊れたのかな~と思ったが違う前から壊れていたわ!、、”と、にやけたら また姉さんは俺を睨んだ、、、
「乃木坂、秋葉、さくら坂、、フフフフ、、セーラー服だよ、、、、お~い久江ちゃん出番、、出番だよ~」
姉さんは自分が着ていた古い制服を家からもってきたり、雑誌から切り出したものをもってきたりして、セパレーツのものとワンピースタイプを久江ちゃんにいろいろデザインさせた、それとブレザーとチェックのスカート、、自分は口をだすだけ、未来で着てもおかしくないデザインがいっぱいができた。
フフフこれだよ、、これこれ、、あとはローファーの学生靴にハイソックス、それとかわいい下着、そうそうブラジャーも必要、ぜったい「乳房ホルダー」「乳房バンド」なんて言わせない、、最初が大事よ~ぜ~んぶ、、流行らせるのよ、、、チエちゃ~んどこの女学校から始める~
姉さんはなぜか燃えていた、、、俺にデザイン画の制服の見本を全部つくらせた、それとローファーの学生靴にハイソックス、、サイズは愛ちゃんとその仲間達に全部あわせた。そしてどさくさに紛れてすべて”NAOMI”ブランドのタグを入れさせた。 そうだよ、、姉さんはレディース総合ブランド”NAOMI”を立ち上げてしまった。
営業やり手の松原チエさん
「尚美姉さん、、まずは学習院女学校ですよ、、皇族・華族子女の為の女学校ここなら間違いなく採用しますよ、、皇族は諸外国に負けないよう洋装化をすすめていますからね~、、それに、、ここは高〇屋の時によく外商できたので校長に伝手があります。、、私に任せてください、、」
”尚美”
「そうね~、どうせなら、学校の講堂で用意した制服を着てファッションショーで生徒に選んでもらうか、、こんなもんは大人が決めるもんじゃないよ~」
松原チエさん
「尚美ねえさん、、そのフ、ァッシ、ョン、ショー?とは着て見せるだけじゃないんですか、、」
”尚美”
「ちがうよ、、、可愛く歩きながら、くるりと回ったりして制服をアピールするの、、いい笑顔で可愛くみせるの、、、フフフ」
松原チエさん
「それは面白いじゃないですか~、、ぜひやりましょうよ~」
学習院女学校との交渉はうまくいった。女学生に制服という概念がまだなかったこの時代、着物に袴が普通だ。そこに西洋の最新制服とアピールして交渉はうまくいった。そして生徒に決めてもらおうという事になり講堂に集まってもらったのである。
愛ちゃんとその仲間たちそれと助っ人をよんで姉さんが事前にいろいろ可愛く見せるしぐさを教えた、、
制服を着て舞台でランウェイをして最後は全員が並び自分が気に入った制服の
番号を書いて決めるのだ、、女子生徒は真剣な眼差しで見ていた、、どの時代でもおなじだよ~、、女の子はおしゃれが好きなんだから~
これは、、大成功、、 セパレーツのセーラー服だ、また胸元にはかわいいリボンがついておりこの色分けで学年が決まるというものだ。夏は半袖になった、
なんてたって自分達は選ばれた人種、、皇族や華族子女だよ~ダサい袴よりセーラー服だよ、
学校に社員全員で伺い、休み時間に採寸と靴を選んでもらい、さりげなく生理用品の試供品や下着のカタログをみんなに渡した、、それと姉さんがその採寸に立ち合い、恐ろしい野生の感で自分と同じやんちゃな女学生を見き分けチエさんに指示して「週末に会社へ遊びに来てくださいね、、」と言って招待状を渡していたのである。
各学年から4~5名、、姉さんの恐ろしい嗅覚で選んだこのメンバーにうちの可愛いキャミソールや花柄のブラジャーや下着の中で気にいった物をプレゼントした、、、彼女達からPRしてもらう為だ、、つまりファッション系インフルエンサーだよ、、それに洋服もあげるわけにはいかないが新作を毎月、毎月、、貸出で食事会や行事に大勢の人に会う機会や出かけるような時は着てもらい、いろいろな女性にPRしてもらった。
そうして、、山の手の上級国民の子弟が通う女学校を次々攻略してチェック柄のスカートに白いふちどりのあるブレザーに大きなリボン、ワンピース型のセーラー服それに全員がローファーの学生靴にハイソックス、、下着はもちろん生理用品まで、それとファッション系インフルエンサーもどんどん増やした、これが一番効果がある、、あれよ、あれよと何もしなくても客はどんどんやってきた。またさらにどんどんと女子校に制服を仕掛けていった。この繰り返しである。全くもってこんなやり方をして売る会社がないので面白いように売れた。
もちろん面白くないのは大手百貨店、自分達で制服を作ってみるがダサい、どうやっても古臭いセンスばかり、、乳房バンドの名称で下着を売り出しても誰もこない、、御夫人ズロースで下着を売り出しても買うのは金を持ったババー達だけ何やっても売れない、まず女ごころを知らない、こじゃれた売り文句がない、ズロースと乳バンドの名称でもう終わりだ、男性が威張って売っているようじゃ売れないぜ、、、、
みんなレディース"NAOMI"ブランド用品の取り扱いをお願いにやってきた。高〇屋の百貨店は姉さんが松原チエさんが嫌がらせを受けたことを知っていたので当社への出入り禁止にした。担当者が土下座をしたが、、姉さんは許さなかったのである、、、他の百貨店とは取次店として商品を流し下着をはじめ生理用品、制服や洋服を当社専用ブースを作ってもらった。「乳房ホルダー」「乳房バンド」などという奴がいたらその会社は出入り禁止だぞ!、と脅しこの時代からブラジャーやキャミソール、下着全般もランジェリーと表示させて久江ちゃんやタマエちゃんも入りどんどんデザインしていった。
この女学生の洋装化はうまくいった、、山の手の町中は未来でも見劣りしない制服女子が朝や帰宅時間になるとあふれていた。その母親や姉や妹や親戚の女性達もどんどん洋服を着るようになり下着もランジェリーやブラジャーも当たり前のようになってきたのである。
そして姉さんは各女学校のファッション系インフルエンサー集めスカートの巻き上げを教えて膝上はこの時代はきびしいが2cm、、3cm、、と膝まで何とか上げてくれ~と変な事をお願いしていた、、、、しかしそれは確実に広まっていったのである、、、、それに合わせて洋服のスカートも少しずつ丈が短くなっていくのであった。
1902年4月のある日
独逸ベルリン、フンボルト大学医学部講堂
国際婦人科学会
世界の婦人科の著名な先生方を前にして、日帝大医学部の婦人科原平蔵教授が月経周期における排卵期と受胎期について、当時解明されていなかった排卵時期の研究を発表したことで不妊や多産に苦しむ世界の女性を救うという事で絶賛された。原式避妊法もしくは原式受胎法として国際的に広く認められる事になったのである。
世界中の医師はなんで日本のさるが次々こんなすごい発表ができるのか不思議に思っていた。、、、
さらに2ヶ月後、、また日本から世界中の医学界に激震が走るほどの発表がされるのであった。、、それは世紀の発見、感染治療薬ペニシリン抗生物質、、時代を変える治療薬だったのである。
つづく、、、、