第24話 サリバン尚美 附属病院で初めてのOPをする
それでは はじまり、はじまり、、、、
”高橋勝次先生”
油断していた。いきなり後ろから俺の左手を取って高々あげやがって、周りの皆もそうだ巻き込まれないように逃げやがって、今までさんざんおごってやっただろ~なんで俺ばっかり、、、
(泣き言をいう第二外科エースだった)謎のナレーション
”勝次”
「どうしてこんな難しい手術に手をあげてどうするんですか、サリバン先生が当然やるんでしょ、、おれは助手ですよね~」
”サリバン尚美”
「馬鹿いってんじゃないの~あんたがやるんでしょ」
「あんた医局長なんでしょ~あんたがやらなきゃこの患者は誰が助けるの~このまま死なす気なの~」
「いいこれらから症例検討会で私があんたの背中をちょんちょんと突っつくから、かならず手をあげて受けるのよ~」
「最近、血がだら~と垂れるような手術をしてなくてつまらなかったのよ~」
「しみったれた処置ばっかり~」
「やっと生の血を見ながらメスをにぎるのは久しぶり、、興奮する~」
(吸血鬼か~~~)尚美パパ
”勝次”
「そんなこと言っても俺はいやですよ~こんなOPを執刀するなんて自信がありません、、、」
”サリバン尚美”
「大丈夫、大丈夫だから、いい私の言う通りにぜったいしなさいよ。」
「そうすれば失敗しないから、、うん?、わた、、し、、しっぱい、、しないので!」
(ちょと考えながらセリフ言う尚美)
(パクッた~パクッた~)と喜ぶ読者
「あんたにはちゃんとご褒美をあげるから~この症例だけでなく胆のう摘出術をあと10例以上~ひっぱってくんのよ~わかった!!」
「私があんたをこの症例のプロにしてあげるから~ついてきなさいよ~~」
(年下の女医が先輩医師にいう言葉ではなかった。、、、)謎のナレーション
(1900年において外科手術は尚美達の時代からみたらやっと歩き出した子どものような時代である。盲腸でも人が死んで行く時代において無事に胆のうを摘出して患者を退院させる事は相当な経験を積んだ医師でなければできない手術であった。2025年で尚美は腹腔鏡手術で何十例も経験している手術だった。院内でも最速OP記録35分のレコード記録を持っていた、それを開腹手術で直視でやるのだ、、尚美はこの時代でも使える新しい技術を広げようと思っていた。)謎のナレーション
(あんた誰!! ねえ!、ねえ!、あんた誰なのよ~)と謎のナレーションに食って掛かる尚美ママ
”サリバン尚美”
「それじゃ”かつじ”患者さんのところに挨拶がてら診察にいくよ。」そう言って勝次先生の腕を引っ張って病室に向かう二人であった。
それは母ザルにトボトボついて行く子ザルのようだった、、、、、、
4月ある日転移した自宅ガレージ前
”結城”
今、家の前の駐車場で”キャホ~”と騒ぎながら一人の老人が“ラッタッタ”をグルグルと大きな円を書いて乗り回していた。
少し前に俺は暇つぶしに訪ねてきた、渋沢先生といっしょに自宅のガレージをガラガラ~と開けて2025年のとんでもないハイテクな乗り物を見せてあげた。
運転席に乗せてエンジンをかけるともう~興奮のるつぼと化して、ハンドルに手をかけカーナビに興味をもちしきりに聞いてきた。電子的に自動車の走行時に現在位置や目的地への道案内を音声で行う機械といったら、、、急に黙り込み、、「儂を結城たちの世界へ連れていってくれ、頼むから連れていってくれんかの~こんなすばらし~ものが平民が、誰でも持っている世界じゃろ、あのガラス板もそうじゃ、、いってみたい、空を飛ぶひこ~きやらも乗ってみたい 見上げるような”すか~いつり~”とかものぼってみたいの~」としみじみと言ってきた、、、、
しかたなくスマホを入れ替えたばかりなので前につかっていたスマホに充電器をつけて先生にあげた、ぴょんぴょん飛び上がって喜んでいた。俺は動画と写真の撮影方法、時計や電卓 録音、万歩計などを教えた先生は受験生のように必死に手帳に書き込んでいた。
(知らない人にあまり見せないでくださいね、、、渋沢先生)結城ママ
そんなこともあり、また、渋沢先生がやってきてなにか面白いものはないかの~とガレージに一緒にきたのだ。俺は先生に3段式の変速器が付いたママチャリと50ccスー〇〇カブと“ラッタッタ”を引っ張りだしてきた。この時代でもなんとか作れないものかと思い説明をしながら乗っても見せた。自転車は片足を上げてまたがなくても乗れるし3段変速も気にいってた。先生も上手に乗れて「これは何とかなる、なんとかなるぞ!結城」と言って乗り回していた。そしてすぐに関係する職人のところに運ばれて、バラさられて構造を知るとこちらの素材で作れる事になった。それじゃまた国際的に販売をしようとなり変速ギャの仕組みやダイナモなど国際特許を申請した。この時ライトの電球を照らす為の発電装置ちいさなダイナモの特許申請がこの後大ヒットするのである。
スー〇〇カブ50ccは動かなかった、、、それはガレージにしまった。
“ラッタッタ”は動いた、、いわゆる自転車に原動機が付いたオートバイである正式にはホ〇ダ・ロー〇パル形状はママチャリと同じでスカートを穿いていても乗れる片足をあげなくていいのである。始動方式は女性に敬遠されることからキックスターターを廃止。またコスト面からセルモーターも搭載が難しいために以下の方法で始動を行う蓄力式を採用したのである。
1. タップスターターのペダルが固く感じるまで踏み込み始動用のゼンマイが巻かれる
2. 続いて後輪ブレーキ・レバーを引いてゼンマイを解放
3. ゼンマイの復元力でクランクが回りエンジンがかかる。
空冷単気筒2ストロークピストンリードバルブエンジンを搭載しているが自転車に積んでるくらいだ、非常に簡潔なエンジンである。
(なぜ正式名称でなく“ラッタッタ”と呼ばれるのか、、、、、)ほぼシルバーは鉄板、興味のあるひとはスマホで調べてね、YouTubeが分かりやすいかも、
そんなことで今、渋沢先生はそれを乗り回しているのである、、、、そして先生はこれは絶対に作る!!、といって自分の物のように御邸宅にそのまま乗って帰ったのである。
それからしばらくしたある日、なれない列車通勤に疲れて帰ってきた姉さんにその話をしたら、え~あれって動いたの~と言ってピュ~~と渋沢先生のご邸宅に飛んでいき泣き叫ぶ渋沢先生からそれを奪い取り、次の日から“ラッタッタ”と言ってエンジンをかけ周りの目も気にせず通勤に使ったのである。
すでに職人によりバラされ明細な資料はできていた。、、、
”日帝大医学部附属病院第一手術室”
手術台にはエーテル開放点滴による麻酔で陸奥 亮子静かに眠っていた。
”旗本・金田蔀の妾が生んだ長女として江戸に生まれる。明治の初め東京新橋にある柏屋の芸者となり、小鈴(小兼)の名で通る。新橋で一、二を争う美貌の名妓だったという。花柳界に身を置きながら、男嫌いという評判もあり身持ちも堅かったといわれるが、結局は明治5年(1872年)2月、陸奥宗光の先妻蓮子が亡くなり、同年5月に17歳で客である宗光の後妻となった。明治21年(1888年)、駐米公使となった宗光とともに渡米する。その美貌、個人的魅力、話術によって第一等の貴婦人と謳われ「ワシントン社交界の華」「駐米日本公使館の華」と称された。
(ウィキペディア、、コピペ)尚美パパ
この手術室に執刀する”かつじ”先生 第一助手が私 第二助手井上清君(医局で小声で”かつじ”の名前を教えてくれたインターンの青年今は”きよし”と呼び私の小間使い)、手洗い看護婦は手術室婦長さん中島静子(いまは仲良しになり、しずさんと呼んでいる)外回りには加藤梅子さん、(うめちゃん)と五十嵐千代、(ちよさん)が付いてくれた。みんな仲良しである。今日の為の手術室の関係者にはすでに仕込み済み、城島先生からも生理食塩水を作ってもらっている。点滴の道具も五条商会からすでに届いておりスタンバイしている、他もろもろと、、英国式とだましながら、、、2025年ハイテクも念のために、、、、、
私はこの女性がどれ程苦労して生きてきたか知っていた、妾の子が世界の社交界で認められるというのだからそのサクセスストーリーはどれほどかと思った。、、、絶対助けてあげるから長生きして幸せになるのよ、、とその時、誓った私であった。、
、、、その約束は守れなかったのである、、、
つづく、、、、、、、