第20話 フリーランス・サリバン尚美医師の誕生
いつも読んでいただいてありがとうございます。これから医療関係の専門用語や歴史、聞きなれないような単語がでるかもしれません。注釈で説明もしますが気になる単語はスマホで御確認お願いします。尚、前回ご報告したように金額は( )で現在価値で表記、大学は日帝大医学部で表記します。
それでは はじまり はじまり、、、
”尚美”
正岡先生が入院してきた、点滴室のベットが先生の居場所だ。毎日4時間かけてストレプトマイシンを1日1回静脈に点滴で流している。それに毎食後に錠剤を呑んでもらうという生活だ。治療とはいえ3~4ヶ月この生活を続けるわけだ 律さんが定期的に洗濯ものや着替えをもって訪ねてくるが、あまりに暇そうなので結城が集めていたマンガを貸した。ドツボにはまった、、、これはこの時代でもはまるものだと思った。俳句のことなどす~~かり忘れて一生懸命に読んでいた。
”まずいこの人はもう教科書にはのらないのじゃないか”と思ったサリバン尚美
”結城”
今日の昼クリストファ・マーク少佐32歳から電話がきた。俺は彼にこの治療薬はまだ世にでていない大変、高価な薬だ。マークにはいくらだせると直球で聞いた。
マークは英国の公爵家の長男で日本に着任する直前に結婚式をあげた新婚ホヤホヤ、こちらに単身できて寂しさに負けてその筋のお店に1回だけいったら感染したようだ。新婚の妻もいるし本当に悩んでいたそうだ。彼は(3000万円)ならすぐ用意できるといった。
おれは前金で(1000万円)残りは完治してからでいいといった。さっそく姉さんと一緒に彼が滞在している私邸にいった。姉さんが診察してまちがいなく梅毒ということでペニシリン系抗菌薬を毎食後1錠1日3錠それを10日分30錠を(1000万円)と引き換えに渡した。
10日後、彼にあったら別人になったかと思うような明るい青年にかわり、俺の両手をガッシリとつかみこれでもか~と上下に振り感謝をしてくれた。そして残りの(2000万円)に追加で(1000万円)を足して感謝の気持ちをあらわしてくれた。俺は彼の耳元で「上級市民でこの病に苦しんでいる人がいたら紹介してくれ。」と囁いた。彼はにっこりうなづきわかったと返してくれた。
それから俺達は仲良くなり”紳士倶楽部”ではいつもつるんでバカな話しで盛り上がった。いつのまにか彼とは、こっちにきて初めての親友とよべる存在となっていた。
なおそれからも、この薬は日本在住の上級市民のうわさとなり、俺と姉さんの活動資金の裏金としてやくにたった。
ある日この薬の価格が気になり姉さんに聞いた。
「姉さん、あの抗菌剤いくらするの~」
「そうね~たしか正規品で24錠で12000円だったかしら、ジェネリックだと2400円だったと思うわ」
「マークにはどっちだしたの~」
「バカネ~そんなこと聞くもんじゃないの」
”ゼ~ティじぇねりっくだと思った。”マークの親友、結城
”ある日の午後、医院の待合で”
俺と姉さんと、上杉先生が来てくれて3人でこれからの事について打ち合わせをした。俺の五条商会は商工会の協力もありすでに小規模な生産協力会社もあつまり動きはじめようとしてた。
そして俺は個人としてバイトのピアノ教師や歌えるピアニストとして忙しい毎日だ。それに比べて姉さんは毎日、さっちゃんと病気をうつさないようにマスクをした。正岡先生と3人でトランプの大貧民ばかりしている。
そしていつも大富豪はさっちゃんだった。そんなことで姉さんは渋沢先生に頼んでいた水銀血圧計が100台できてきたので、これから日本中の医師に今の時代に合う革新的医療体制の為、日本の医療の頂点、日帝大医学部の中で子弟の上杉先生を出世させて権限をとりこみそこから革新的な医療の普及を考えていた
それに医院の薬もいつまでも続かない、大学の薬物学や他の関係する学部などで協力してペニシリンやストレプトマイシンなどをカビや地中の中にある常在菌から製薬して使えるようにしなければならない。点滴療法もだ。そして1904年2月6日に起こる日露戦争までに準備をして大勢の兵士を助けたいと姉さんは考えていた。
この当時の医学について解説すると
明治時代の日本の医療の頂点は日帝大学医学部の部長、この人がてっぺんだ。そして下記の表のもと専門科目の医局があるそして
その医局から他国立大医学部の教授としてひとが送りこまれそこで教育を受けた医師はこの教授たちの弟子となっていく、、つまり日帝大医局教授でもその下には全国の同門医師がつらなっているということだ。
日帝大医学部 部長(日帝大医学部すべての医局を総括する立場)
医学部内訳 (16名の教授)
第一内科教授 助教授 講師
第二内科教授 助教授 講師
第三内科~ ~~ ~~~
第一外科~ ~~ ~~~
第二外科教授 助教授 上杉医師
第三外科 ~~~~~~
産婦人科 ~~~~~~
小児科 ~~~~~~
眼科 ~~~~~~
皮膚科 ~~~~~~
精神科 ~~~~~~
生理学 ~~~~~~
医科学 ~~~~~~
薬物学 ~~~~~~
衛生学 ~~~~~~
法医学 教授 助教授 講師
第二外科の教授は来年1901年11月で退官する。代わりの教授候補には同期の森林太郎(森 鴎外)の名前がすでにあがっていた。
俺と姉さんは第二外科の教授には森林太郎を蹴落とし上杉医師に座らせようと考えていた。その為には12月の教授選挙には絶対勝たなければならなかった。俺と姉さんはその手のドラマは大好きだから、あの手この手のどくまんじゅを考えると楽しくてしょうがなかった。
なんでもありの明治時代、コンプライアンスなんかないし、セクハラ、パワハラ、不倫、お妾さん、、、本当に女性の権限なんてものはない完全、男尊女卑な時代、勝てば官軍がまかり通っている。そんな〇い巨塔に、上杉先生をてっぺんに上げて行く為にサポートするため好きな事ができるフリーランスの医師としてサリバン尚美が第二外科医局に上杉医師の助手として乗り込むということを決めた。
え、助教授はどうするか? なにもしないよ~ ワールドクラスの論文を教授を筆頭に発表させて彼を抱き込み、秋の移動で今の助教をどこかの分院に飛ばすのさ、そして上杉先生を後釜の助教授になってもらうわけさ
すでに裏金でたっぷり資金はある、教授の懐にもぐりこむ策もできた。医療の知識は、、、、言うまでもない。この男尊女卑が当たり前、この医療の世界は大変きびしい、明治時代に医学部を受験する資格も女にはない、女が医局の廊下を歩くのも難しい時代どうやって、、、、、サリバン尚美の身分詐称を考えていた。そのとき、俺はひらめいた。ここまでくればど~んと派手にやった方がいい下手な小細工でばれるより、でかい花火のほうがみんな上を見て足元はみえないと思い決行した。
姉さんをまず英国公爵クリストファ家の養女としての偽身分証書を作成してマークに英国大使館のそこらにある印鑑をこれでもか~~~と押してもらった。
(この時代の日本人は印鑑崇拝民族だ)ワル、、結城
俺のオッ〇スフ〇ード大学の卒業証書をPCに取り込んで卒業日付と名前を変え医学部の卒業にしてカラーで印刷して姉さんの完璧な卒業証書作った。
さらにとどめとして渋沢先生の人物紹介状も偽造して先生に印をもらってきた。
こうしてチームくれないは最高の医療技術もつ英国公爵家養女”クリストファ・サリバン尚美”、オッ〇フォー〇大学医学部卒業という人物をつくった。な~にだれも姉さんを調べるようなやつはいね~よ、もしいるとしたら教授選挙でぶつかる森林太郎ぐらいだろう、その前につぶしてやる!
そして別名”ど~くた~~なおみ”というフリーランスの医師、いや~怪物を~じゃない怪獣を~やっぱり妖怪ババ~を日帝大医学部、第二外科医局に送り込む準備ができた。
”じゃ~~かし~だれが妖怪ババ~じゃ~~”激おこ、サリバン尚美
”ある日の尚美”
私は結城に頼まれて、休みの日に定期的に仏蘭西の裏組織”ベルナルド・アンドレ”がやっている高級売春宿や高級クラブ,踊り子さんなどの女性達の健康相談にのっている、ここにはイタリア、シチリア島の貧しい人たちが出稼ぎできている子もいた。
当然定期的な性病の検査をして感染している子は必ず2週間休ませ抗菌剤を渡していた。そんなある日、12~3歳の少年が売春婦をしている姉を診てほしいと泣きそうな顔で腕を引っ張り古い木造の家に連れて行った。そこはどうにか雨、風をしのげる程度のあばら家だった。
私は中に入るとベッドでゼィ、ゼィ、ゼィと息をしている。少女に近づいて診た瞬間、ヤバイ、梅毒が相当進行していると分かった。組織の人達も手遅れだと思い誰も彼女の事を教えてくれなかったのだ。発熱・倦怠感・頭痛・リンパ腺の腫れ脱毛(梅毒性脱毛)湿疹(梅毒性バラ疹)さっそく私は念のために持って来てたエ〇シ〇ア・Hのカロリーが375kcal/250mLバニラ味をゆっくり~~ゆ~くり飲ませた。
彼女は”オ、イシ、イ、オイシ、、イ”と言って全部飲んでくれた。すきっ腹にくすりはよくない。そして持っていたペットボトルの水でペニシリン抗菌剤の中で一番薬効が強いミ〇サイ〇リン100mgを飲ませた。そして鎮痛解熱剤2錠をとりだしそれも飲ませた。
簡易処置キットを持って来ていたので、それを広げて上半身を裸にさせて、膿んでいる梅毒性バラ疹を丁寧に消毒液がついた綿球で消毒をしてから小さく切ったガーゼに抗菌剤チューブからプチョとつけて次々貼っていった。正面も背中もたくさんできていたが見逃しがないかよく確認してバンソウコを上から張って下腹部や下肢にも見逃しがないようにくまなく処置して、持っていた、たけの〇里を1ヶ取り出し彼女の口にいれてあげた。
彼女びっくりした顔でおいしそうに咀嚼した。そして弟さんにこの強い薬は1日朝晩の食後に1錠、そして熱がさがらなければ朝、昼、晩の食後2錠の鎮痛解熱剤をそれぞれ1週間分渡した。それと財布から(30万円)ほど抜き出して弟に渡してこれで栄養のあるものをお姉さんに食べさせてあげて、それと清潔な下着と服に着替えさせ寝具も新しくしなさといいつけた。3日後に様子を見に来るからといってそこを後にした。
弟さんは泣きながら何度も頭を下げて私を見送った。、、、、、 弟の名前は”ヴィトー・コルレオーネ”といった。彼は血の掟で姉の命を助けた尚美にいっしょうの忠誠を心の中で決めたのである。
(将来、イタリア系マフィアを牛耳るゴットファザーであった。)
”あちゃ~~帰りの列車代たりるかな~”とそんな大物の姉さんを少年時代に救ったとはこれっぽちも思ってない尚美は小銭を1枚2枚と数えながら歩いていた。、、、、結局足りなくて1駅分歩いて帰っていったのである。
それから4週間後その18歳の少女は髪も少し伸びお店のNo1として元気に働いていた。、、、、”そして尚美にはいつか必ず恩返すると心に誓っていた。”
さらに別の日の事である、女性達の健康相談に久しぶりに来たら、私が米国大使を叩いたことが知れ渡っていた。どうも売春宿やクラブの女の子達に相当酷いことをしていたようだ。
それであの時のことにおひれがつきまくって、私がぐうの拳をつくり大使の顎をしたから直角で振り切ったという伝説の話しとなっていた。踊り子さんやホステスさんや売春婦のお姉さんはキラキラした目で英雄のジャンヌ・ダルクをみているようだった。それから私はここに来ると「ジャンヌの尚美がきたわよ~みんな~ジャンヌの尚美よ~~ジャンヌ~~」と言われ皆が集まるようになった。
”ジャンヌの尚美~~ウ~ン、、いちばん気にいった!” by 尚美
それもありこの辺の裏通りを夜一人で歩いていても、女達に金もとらず病気の面倒をみてもらっていた組織のその筋と思われるような人が私を見ると立ち止まり、これでもか~~と笑顔つくり”ジャンヌのあねご!~~ジャンヌのあねごだ!!~”と言って慕って握手を求めてくる。いつのまにかそんな10数人の外人ヤクザ(その中にはあの少年も)を引き連れた女親分のようになっていた、、、、、、、まじか、結城
”上杉先生”
私はいま第二外科、中村正忠教授の部屋の扉の前に立っている。右手にはワールドクラスの論文の原稿を握っている。尚美師匠の夢の第一歩が始まる事を考えたらワク、ワクしてきた。そしてその始まりのゴングをならした。
”トン、トン、、、トン、トン”と扉をノックした。
つづく、、、、、、、