第153話 日本の護衛艦
ロンドン・ダウニング街10番地の首相官邸執務室では、ハーバート・ヘンリー・アスキス首相と海軍大将のヘンリー・ジャクソン卿が、深刻な顔で打ち合わせをしていた。
「先月は、何隻の商船が沈められましたか、、」と静かに聞く首相
「今分かっているのは、70隻以上の船が沈められました、うち軍艦が5隻です。」と沈みがちに答える海軍大将
「そんなに沈んだのですか、、、」と言葉を失う首相
1915年2月から、イギリスへの海上封鎖と周辺海域での無警告攻撃を宣言したドイツ海軍のUボートは、連合国の旗を上げた艦船を見つけると見境なく魚雷を放っていた。
史実ではドイツ潜水艦隊の華々しい活躍により、Uボートの名はドイツ潜水艦の代名詞として広く普及し、この第一次世界大戦では約300隻が建造され、連合国の商船約5,300隻、戦艦10隻ほかを撃沈する戦果を上げていた。
「日本海軍に輸送船の護衛をお願いしてくれないか、」と首相が話しをはじめると
「彼らは、インド洋で確か4隻のUボートを沈めて、英国連邦のオーストラリア・ニュージーランドの兵士を無事に護衛したそうじゃないか」
「東郷閣下の艦隊から護衛艦を出してもらい、我々の戦争に必要な軍需物資を運ぶ船団の護衛を頼んだらどうなんだ、」と考えていた事を海軍大将に話した。
「確かに、それはいいのですが、彼らの駆逐艦もそれほど多くないので一部の護衛しかできません」
「そこで首相にお願いがあります・・彼ら日本海軍の使っている対潜技術をどうか我が国で導入できないか、その技術の開示を日本政府にお願いができませんでしょうか、」
「なんだって~、我が国でその対潜技術は開発できないのか、、」と首相が聞き返すと
「科学者に相談しましたら、『きっと、日本の海軍はソナーという音波探知機を実用化して数キロ先の水中の敵を見つけることが出来るのだろう』と言っておりました。」
「科学者が言うには理論は分かるが、実用化になるものを作るには1~2年はかかると言っております。」
「それまでには、どれだけの商船が沈められるかわかりません。ぜひ我が国から日本政府にお願いして、ソナーと言う音波探知機の兵器を提供をしてもらい我が国の護衛艦に取り付けさせて下さい。」と言って頭を下げるジャクソン卿だった。
こうして、英国政府は東郷元帥に輸送船団の護衛をお願いして、日本政府には対潜技術の提供を丁寧に頼んできたのである。
政府は西園寺閣下や政務官の結城とも相談して”中東のオスマン帝国が支配していた地域のアラブ人の独立”について英国政府の全面協力をするという約束の書面をもらい日本からは対潜兵器のソナー装置と発射器より一度に24個の弾体を投射する、多弾散布型の前投式対潜兵器であるヘッジホッグを図面と技術と共に英国が必要とする数の、この対潜兵器の輸出を始めたのである。
結城は内心、、”これは英国の技術なんですけど・・・・”と口には出せなかったが、、中東のアラブ人との約束を守るために日本政府は決定的な書面を手に入れたのである。
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カリフォルニア州のロサンゼルスでは、ティーンエイジャーのあいだでは、とあるファッションが大流行していた。
女子の間では、小動物のかわいいキャラクターのポロシャツとベストやカーディガン、膝丈のタータンチェックの巻きスカート、ハイソックスにローヒールパンプスが基本的な組み合わせであり
男子は紺のブレザー、ボタンダウンシャツ、チノパン、ローファーを基本に、上品なトラッドスタイルに、スポーティーな軽快さを加えたのが特徴で髪型も短くしてその「清潔感」「程よい余裕」「学生らしいフレッシュさ」があるファッションはLAファションと呼ばれた。
この当時、スカートの丈は足首までが当たり前の時代に膝丈のスカートは周りから注目されたが、その洗練されたフレアースカートやタータンチェックの巻きスカートはキュートでかわいいと大人の女性にも評判になったのである。
この斬新な足元から上着までの全身トータルなファッションと、安価な価格に若者は飛びついた。
大衆(大量)消費社会が誕生しはじめた米国に、日本の東北や農村の女性達を集めてデカい縫製工場を作り、パターンの作成から生地、デザインの作成で数百台のミシンを稼働させて米国人の体格に合わせた各サイズの既製品、ブランド”USA・NAOMI”は実用衣料品の製造から、小売を一括して展開する会社へと成長していた。
洋服と言えば個人営業の店か、品質の悪い中古服販売や生地を買って自分で作る時代に「高品質・低価格」を前面にだして、倉庫のような棚にサイズ別の大量の既製品の洋服が詰め込まれていて、アンダーウェアーから靴下に子ども服、男性用、女性用の下着から世代別の身に着ける製品が一店舗に揃っているのはこの時代で米国では初めての店だった。
そこでの最初の”USA・NAOMI”が仕掛けた洋服がこの「清潔感」「程よい余裕」「学生らしいフレッシュさ」があるファッションで、どんどん口コミやキャンパスでそれを見た学生や若者が押しかけてきたのである。
ロサンゼルスのデカい街に3店舗の同時オープンは大成功だった。
『USA・NAOMI』の本社のデカい会議室は米国人女性の正社員が大勢集まってパーティー会場となっていた。この会社の責任者になった松原チエさんと通販会社の『Gonzalez』(ゴンザレス)の責任者で英語の達者な日野明子が祝杯をあげていた。
「結城会長は絶対成功すると言っていたけど、その通りになったわね」と微笑んで話すのは大人の女性になった日野明子
「ほんと、会長の考えはすごいよ、時代の先を読んでるみたい、『ファストファッションは、最新のトレンドをすぐに取り入れ、安い価格で販売するその為に生産ラインの効率性を高めることにより、消費者に短期間で新しいファッションを提供し続ける。価格が手ごろであるため、多くの人々が簡単に購入できるという点が魅力だ。消費者は気軽におしゃれを楽しみ、多様なスタイルに挑戦できる。』なんて日本では夢のような考えよ!」と売り上げにビックリする松原チエさん
「ああ、尚美姉さんもここにいたらどれだけ喜ぶかしら、、」と尚美を懐かしむチエさんだった。
”USA・NAOMI”はその後も店舗を広げていき全米の大きいな都市に直営店を広げ、不便な地域では通販会社の『Gonzalez』のファッション系のカタログを見て買う事ができる全米のファッションを大きく牽引する『USA・NAOMI』の誕生だった。
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常磐線の茨城県土浦の霞ケ浦帝国航空隊では、飛行学校の黒板の前で航空隊の制服に”中尉の階級章”をつけた白鳥玲子が20名の航空兵に空中戦闘機動について指導していた。
「やっと、操縦を覚えて空を飛べるようになった皆さん、この戦闘機科の12期生全員が初等の飛行資格を無事とれました。おめでとうございます。」
「次に覚えるのは空中戦闘機動です、いいですか、これを覚えないと敵の飛行機は満足に落とせません、それと自分の命がかかっています。しっかりと覚えて下さい。」
そう言いながら黒板に『サッチ・ウィーブ』と書きS字の飛行航路を書き始めた。
1909年から正式に運用が始まった霞ケ浦帝国航空隊飛行学校、カザマ飛行機から操縦指導できていた、スピード狂の白鳥玲子はドップリとこの飛行機にはまっていた。
(結城の趣味のTVゲームで、フライトシュミレーション、レシプロ戦闘機の戦い方を覚えた玲子は実機でもその動きや戦術を身につけていた。)
航空学校が開校した時の一期生「おなごの教官に習うの絶対いやだ!」と玲子に文句を言ってくる、何人ものツワモノがいたが、玲子の操縦する二人乗りの練習機に紙袋を持たせて、乗せられ30分も戦技飛行につきあわせられたら、手に持った紙袋に胃の中身をぶちまけ、ズボンを濡らしてフラフラになって降りてくると、何も言わずに玲子にしたがう大人しい飼い犬のような子分になっていた。
半年ごとに入隊する航空兵、毎回同じパタ~ンで「おなごの教官に習うの絶対いやだ!」という性格の強いツワモノ達・・・・みんな何でも言うことを聞くしつけのいい子分になっていた。
彼らは卒業すると、中にはその性格から少しは上層部に意見が言える人物がいた。彼は航空隊の卒業生全員から同意書をもらうと、白鳥玲子教官が航空隊特別階級を与えてもらうよう意見具申した。
『教官としてすばらしく、飛行機の操縦については世界でも誇れる技量がり、女性でもその技術レベルにあった階級を付けないと、知らないで入ってくる飛行生がおなごだと馬鹿にして無用な摩擦を生みます。』と話すと
史実とは違うこの世界の国防軍、生まれ変わった市ヶ谷の国防省統合本部では政府の指示もあり女性の補助事務員もおり、女性の軍への登用をする理解はこの世界には育っていた。
卒業生の全員が彼女の技量を認め士官待遇を求めた意見書・・・こうして、白鳥玲子は世界で初めての軍の女性パイロットとして士官待遇になったのである。
この意見具申した一期生の子分の名前は草鹿龍之介史実では連合艦隊の「航空戦略の第一人者」として活躍する人物であったが、まだこの時は24歳の少尉でしかなかった。
つづく、、、、




