第136話 護衛艦隊
日本に中国沿岸と太平洋地域の制限区域での、ドイツ領植民地への限定された戦闘支援要請をしてきた、英国外務省であったが、それは日本嫌いの外相エドワード・グレイ卿の考えがあっての要請だった。すぐに終わるはずだと思った欧州の戦争が膠着状態となり長引き、塹壕戦へと変わると、状況は変わってきて、世界中の大国に支配された国々が、独立や連邦加盟、条約協定などの理由から続々と参戦していき、世界大戦の波が広がっていったのである。
1914年11月にオスマン帝国の参戦により、危機を感じた英国政府はついに日本へ欧州への軍隊の派遣を要請した。この世界での日本の世論は欧州への軍の派遣を容認しており、日露戦争時の英国からの支援を忘れていなかったのである。シビリアンコントロールされた軍は政府の要請で、すでに欧州派遣の準備と情報部から上がってきたガリポリ半島での対オスマン帝国との戦争に備えた作戦要綱ができあがっていた。
史実を知っている結城は英国海軍が立てた作戦では、甚大な損害を出すだけで、失敗に終わるこの戦いを、日本軍の介入でオスマン帝国を早期に降伏させるつもりでいたのである。
そのために情報部にオスマン軍が海峡に仕掛けた機雷や、要塞砲に陣地などの調査をさせてその防御内容を軍は明細に知っていたのだ、そこで結城は軍に大胆な戦術を提案して軍はその可能性を実際に演習でなんども試していた。
大国であるアメリカの国民世論は欧州の戦争参加を嫌い、それにより米国大統領のウッドロウ・ウィルソンは中立国政策を宣言していた。日本政府(結城は)アメリカに、この戦争に参戦させないで中立のうちに近未来の兵器を使い早期に、日本の力でこの世界大戦を終わらせ、戦後のイニシアチブを握り国際的にも強力な発言力や影響力のある日本を作ろうとしていた。
その為のいくつかの近未来の兵器が、静岡県にある陸軍富士演習場では、もうもうと白煙をだしてエンジンを始動させていた。
カザマの社長は結城からの資料からクリスティー式サスペンションを教えてもらい、これはそれぞれを独立して懸架する大きな接地転輪を持ち優れた路外機動性をもっている戦車の重要なサスペンションだった。これに履帯をつけて「不整地走破能力」が優れまた、接地面積の広さから地面との摩擦が大きいため「登坂能力」にも優れるし、履帯は地形に追従して転輪を支え穴や溝に差し掛かってもフタのような役を果たして、転輪を落としこまないこの働きによって、越えられない幅の壕を越えられる「越壕能力」に優れ、段や堤も高いものを越えられる「越堤能力」に優れていて、鉄条網が引かれた阻止線もそのまま轢き倒して走行できる無限軌道車両の開発に成功したのである。
重量8t、140馬力の直列6気筒液冷ガソリンエンジンを積み、厚さ20mmの鋼鉄の鎧をまとい、操縦手、車長兼砲手、無線手兼機関銃手の3人乗りで武装は30mm機関砲を積んだ砲塔に、MG34機関銃を国産化した一式機関銃を車体正面に装備して、その形状は明らかに近未来のダイムラー・ベンツ社ドイツ軍Ⅱ号戦車だった。(ミリオタ結城の意向による)
その試作車両3台が、穴だらけの演習場を爽快に走り抜け、用意された鉄条網をなぎ倒し、セメントでできた機関銃砲座を30mm機関砲の「ドドドドドッド~」と重たい射撃音で吹き飛ばしながら塹壕を乗り越え、ダミーの敵兵を一式機関銃がなぎ倒していた。
他にもカザマ自動車のデカい敷地にある、ダンロップジャパンでは、未来の資料からパンクレスタイヤ、内部に樹脂などを詰め込み、戦闘中のパンクやタイヤ交換を不要にした戦闘用タイヤ (コンバットタイヤ)も開発され、トラックの前部にその戦闘タイヤを装着し、後部に履帯を備えた不整地用の車両で、装甲板で防御された「半無限軌道式自動車」この後部の履帯の構造により、泥や雪などの不整地でも優れた走行性能を発揮する装甲兵員輸送トラック、これも形状は、近未来の米軍のM3ハーフトラックであった。
4ストローク直列6気筒液冷ガソリンエンジンに、運転席やエンジンも小銃弾を弾くだけの申しわけ程度の装甲を施しただけの車両ではあるが、比較的強力なエンジンを持ち前輪も駆動することから各種用途の装甲車両が製作された。
通常は助手席の上部のハッチを開けると、360°のリングに沿って四方の銃撃ができる、新開発の12mm口径の二式重機関銃が、鋼鉄防弾板の間からその銃身を出しており、さらに後部の乗員席の両サイドには一式機関銃が横に箱型弾倉を付けて銃架に取り付けてあった。のちに兵士達からハーフトラックと呼ばれる車両も、この富士演習場の穴だらけの敷地や鉄条網でも自在に走りまわっていたのである。この兵器は、戦車は西暦の下二桁から14式戦車と名付けられ「半無限軌道式自動車」はそのまま装甲車と呼ばれて、のちに迫撃砲を積んだ車両や対空砲を積んだ車両も開発される予定だった。
この兵器の本格的な生産は翌年の1915年から始まり、1916年の欧州の西部戦線に投入されるのだった。
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広島の呉港を、連合艦隊の主力である第一艦隊(戦艦4隻 巡洋戦艦4隻 巡洋艦5隻 駆逐艦15隻 改造空母2隻)は東郷元帥と共に補給艦を伴なってイギリス海軍の根拠地であるスカパ・フローを目指した。
そして横浜からは、陸軍最強の第七師団と第九師団が、乃木元帥と共に20隻以上の輸送船に乗り込み横須賀から出航する第一海兵師団と専用艦隊、それに第二艦隊(戦艦2隻 巡洋艦3隻 駆逐艦8隻)と合流してエジプトのカイロを目指した。
日本が初めて経験する国際派遣部隊である、二人の司令官には英国の士官の階級に負けないよう、軍人の最高の階級である元帥の立場で、日本の顔になってもらっていた。この出発の期日は国中に知らされ、大勢の国民が日の丸の旗をもって見送りにきていた。在日の外国人記者も大勢きて写真を撮ったりして本国へ、この盛大な日本の軍事協力を記事として打電して、世界中に日本の本気度をアピールすることができた。それは敵国のドイツも知ることができたのである。
さらにイギリス海軍の要請によりANZAC軍団の欧州派遣を護衛することになった日本海軍は、加藤寛治艦長の巡洋戦艦「伊吹」を旗艦として、装甲巡洋艦の「生駒」、「浅間」そして最新対潜装備を持った、睦月型駆逐艦、「夕月」、「望月」、「長月」、「文月」、「皐月」の日本の護衛艦隊はブリスベンを経てウェリントンに寄港し、ニュージーランドの兵員輸送船10隻を連れ出発しオーストラリアのメルボルンで、さらに28隻の兵員輸送船と合流して、英巡洋艦「ミノトーア」、オーストラリア巡洋艦「シドニー」「メルボルン」「ブリスベン」と共にエジプトのアレクサンドリア港を目指し、戦闘部隊を中東戦域の英軍拠点司令部がある、カイロに送り届ける任務につく予定だった。
オーストラリア=ニュージーランドは最強の白豪主義政策をとっていた、これは白人至上主義的な思想とその政策を指していた。アジア系や先住民などの非白人は、さまざまな理由で排除していく人種差別主義、白豪主義は支配的な思想であり政策だった。日本人や中国人の入国には「絶対排斥」の態度を持ち、やもすれば黄色人種が白色人種に災いをもたらすと考えていたのである。
こうして日本の護衛艦隊がメルボルンの港に入港する、と陸上砲台から沿岸砲一発が発射され、「伊吹」の煙突をかすめて右舷100mの海上に落下する事件が発生した。オーストラリア軍部隊の責任者は「伊吹」に乗り込んだオーストラリア人の水先案内人が、適切な信号を発しなかった為「注意喚起のため」実弾を発射したと白々しい弁明をしたが、結果的に事件は、オーストラリアのロナルド・マンロー=ファーガスン総督とウィリアム・ルーク・クレスウェル海軍司令官の謝罪と加藤寛治艦長の大人の対応で一応は決着したが、ANZAC軍団の士官より下の兵達はそれでも日本人を見下していたのである。
ドイツ領東アフリカ(現・タザニア)はドイツの植民地として、インド洋に面した東海岸にはタンガ港があり、ここに逃げ込んだ一部の東洋艦隊であるドイツ海軍軽巡洋艦「ケーニヒスベルク」「エムデン」はここで、補給を受けて2隻の艦船は、このインド洋の海域で、単独で航海する英国商船を襲い沈めていた。そこへ本国からUボート潜水艦が5隻、日本海軍の欧州派遣軍を狙い増援されてきたのである。
U-9号潜水艦を指揮し、イギリス海軍のクレッシー級装甲巡洋艦を沈めたオットー・ヴェディゲン大尉にゲーニック・ヘルジンク大尉が指揮するU-21はイギリス海軍の戦艦「トライアンフ」を撃沈したり、ほかにも多数の商船を撃沈しているU-14号のフェリクス・ルックナー大尉、U-15号のラインハルト・シェア大尉、それにU-18号フランツ・ヒッパー大尉などの、ベテランUボート艦長がエジプトへ向かう、日本の海兵隊や陸軍を運ぶ輸送艦隊と別航路で移動しているANZAC軍団を運ぶ輸送艦隊を、このインド洋で攻撃しようと計画し補給を受けていたのである。
つづく、、、、




