第134話 オスマン帝国の参戦
1914年8月
国防省情報局の秋山二郎大尉は、部下2名を伴いオスマン帝国(現・トルコ)の在オスマン帝国の公使付武官としてこの国の軍事調査で滞在していた。ドイツに宣戦布告して戦端を開いた日本であるが、オスマン帝国は、この時はまだ中立国の状態でどちらにつくか、まだ決めていなかった。
秋山大尉と部下は、国防省からの指示でダーダネルス海峡とガリポリ半島の明細な地図の作成と、オスマン帝国の海峡に備えた砲台などの防御陣地などについて極秘調査を命じられたのである。その調査理由を知る事はできなかったが、この海峡の重要性は秋山大尉らも知っていた。
ダーダネルス海峡の距離は約60キロメートルであるが、幅は1.2キロメートルから6キロメートルほどしかなくて、地中海につながるエーゲ海と黒海につながるマルマラ海を結ぶ狭隘な海峡であり。ボスポラス海峡とともにヨーロッパとアジアの境界をなしていた。この海峡は古代より戦略的な要衝であり、例えばトロイア戦争はこの海峡のアジア側の地で戦われ、マケドニアのアレクサンドロス大王は海峡の反対側に遠征するためにこの海峡を渡っていた。
このヨーロッパ側の半島がガリポリ半島で、半島の名前の元になった軍事上の要衝であるゲリボルの町があり、町の東はダーダネルス海峡の入り口であった。秋山大尉と部下はこのゲリボルの町に滞在しながら、地元民に気づかれずにオスマン帝国の半島とダーダネルス海峡の防御状況を調査したのである。
オスマン帝国、首都はコンスタンティノープル(現・イスタンブール)で、最盛期にはヨーロッパ、アジア、アフリカの三大陸にまたがる広大な領土を支配していた。だがこの頃の帝国は「ヨーロッパの病人」と呼ばれるくらいヨーロッパ列強から狙われていた存在で、もう全盛期とは程遠くなっていた。
19世紀〜20世紀初頭にかけて列強に戦争で連敗を重ねてきたオスマン帝国は何度も領土を失い、「このままじゃ、帝国がどんどん削られていくだけじゃないか?」という危機となりオスマン帝国にとって、イギリスやロシアは領土を狙ってくる“天敵”みたいな存在であった。実際、エジプトはイギリスに奪われているし、ロシアは黒海やバルカンに進出してきている中でそんな相手と連携しようという空気にはならなかった。
この時、オスマン帝国の政権を握った青年トルコ党がこの戦争を「最後のチャンス」ととらえて国を主導して、エジプト・カフカス・アラビア半島など、かつての支配地域に対して、再支配を夢見てドイツ・オーストリアの同盟側について、1914年11月11日に参戦して14日には「聖戦」として宣言して連合国側に宣戦布告したのである。
そしてただちにダーダネスル=ボスポラス海峡のドイツ軍艦の通過を認め、ドイツ海軍は黒海のロシア基地を攻撃した。最大の敵国ロシア帝国との戦争に勝利して以前の領土の回復を目指して戦争を始めたのである。
この頃、連合国側に参戦していたロシア帝国は、東部前線ではドイツ軍に痛い目にあっていたが、オスマン帝国なら勝てると思いカフカス方面から同盟国側について参戦した、オスマン帝国に進軍したがオスマン軍の猛烈な反撃に直面し、連合国に支援を求めてきたのである。
ロンドン・ダウニング街10番地の首相官邸執務室にはハーバート・ヘンリー・アスキス首相の他に、英国外相エドワード・グレイ卿と海軍大臣ウィンストン・チャーチル卿それに陸軍大臣ハーバート・キッチナー卿が、そろってオスマン帝国の参戦について対策を打ち合わせしていた。
困った顔をしたアスキス首相は葉巻の煙をはきだしながら、「ロシアがドイツに攻め込み東部戦線を形成してくれたことで、西部戦線のフランス軍は立ち直ることが出来たが、タンネンベルク会戦ではロシア軍は40万以上の兵力で攻めていながら、どうやったら15万のドイツ軍に負けるんだ!」そう言いながら吸っていた葉巻を、いらいらしてもみ消していた。
それを聞いていた陸軍大臣キッチナー卿は「情報部からの報告では、ロシア軍は無線による指令文に暗号を用いなかったため、作戦内容がすべてドイツ軍に筒抜けだったようです。」とあきれ顔で報告するのである。
「そんな知恵のないロシアの熊どもだから、サル知恵の働く日本人に負けるんですよ。」そう言ったのは白人第一主義の外相グレイ卿
「オスマン帝国が参戦したのでロシアの熊どもは、ドイツ軍よりは弱いと思い攻め込んだはいいが、反撃にあってまた痛い目にあっている、ニコライ公から
支援要請がきているのだが、どうしたらいいか意見を聞かせてくれないか」オスマン帝国の参戦への対応について軍事的戦略を聞いてくるアスキス首相
皆がしばらく考えていると、若干40歳の海軍大臣チャーチル卿が意見をのべた。「このまま手を打たなければ、ドイツ海軍が動き出しダーダネスル=ボスポラス海峡を通り黒海から兵を送り込みロシアに攻め込むでしょう。また地中海やエーゲ海も彼らの勢力となってしまい、スエズ運河を通過する、我々の植民地からの商船も狙われてしまいます。」
「ここは、ダーダネルス海峡西側のガリポリ半島を占領し、オスマン帝国の首都コンスタンティノープルに進撃して占領することができれば、連合軍はボスポラス海峡を通じて黒海方面でロシア軍と連絡可能になり、またブルガリア、ギリシャなどバルカン諸国が連合国側になびくことも期待ができるのでは、」
フランス、ベルギー方面の西部戦線では両軍とも膠着状態に陥り、局面の打開が求められていた。そこへ保守的な考えを嫌い革新的な野望をもつ若き海軍大臣チャーチル卿が大胆な作戦案を切り出したのである。
チャーチル卿のこの提案は周囲の理解を超えるものであったが、優勢な海軍力をもってすればそれも可能に思えてきたのである。そこへ陸軍大臣キッチナー卿が「その作戦の兵力はどこから集めるんだ、すでに我が国の軍は欧州派遣での計画で、あまり人はだせないぞ!」と牽制をかけてきたのである。すでに彼の頭の中には”こんな海軍の無謀な作戦に大事な兵をつぎ込められるか!”と思っていたのである。
「あのオスマンの軍隊だったら、連邦国のオーストラリアやニュージーランドの兵士やインド兵で十分じゃないのか、指揮は英国の士官がすればいい!」
オスマン人を白人の下に見ている外相グレイ卿は、白人の連邦国で十分対応できると考えていたのである。
「それなら、私は日本海軍にも協力を求めたいと思います。最強の連合艦隊がきてくれれば、わか海軍は主力艦を本土に残して、旧式艦で十分対応ができます。」青島要塞攻略戦で日本軍の実力を、英国東洋艦隊の司令官ジョン・フィッシャー提督から聞いていた海軍大臣チャーチル卿は、日本軍の派遣要請を考えていた。
「え~、あの黄色いサルに支援を頼むのですか~」
「あいつらは太平洋のドイツ領と、中国沿岸のドイツ艦を相手にしていればいいんですよ。あんなサルを欧州の戦争に呼ばなくても連邦のカナダやインド、オーストラリアやニュージーランドに支援してもらえばいいでしょう。」そう言い返すのは人種差別主義の外相グレイ卿である。
「グレイ卿いいかげんにしなさい!、日本人はロシアに勝った優秀な国だ、すでにフランスやベルギー、ロシアから日本と同盟を結んでいる我が国を通して、欧州へ派兵をお願いして欲しいと、何度も言ってきている。彼らはマキシム機関銃や鉄条網をつかったロシア軍との塹壕戦で近代戦を戦い、それに勝った日本軍しか、今の膠着した状況を打開できるのはいないと思っている。」
そう言ってグレイ卿に、欧州の各国が日本軍を最後の希望だと考えている事を伝えるアスキス首相である。
その事にはオスマン帝国のガリポリ半島を占領を主張したチャーチル卿も賛同して頷いていた、そして「日本は何度も戦争を経験している。彼らの経験が今回のオスマン帝国との戦いでは必要です。首相ぜひ欧州への派遣要請を日本にお願いして下さい。」と自分が考えたガリポリ半島の作戦に、日本軍の参加を希望した。
こうして外相エドワード・グレイ卿はいやいやながら、駐英日本大使を呼びつけて日本軍の欧州派遣についてお願いをするのだった。
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フランス社交界の高貴な方々との開院セレモニーも済んで、彼らの健康診断を未来の検査器械で診断した尚美は、ほとんどの男性陣は、毎日喫煙や旨いものを食べているので、高脂血症や高血圧のデータが出ていた。その中でも尚美は危険な数値が出ている貴族代表のモンモランシー公爵とラ・ファイエット伯爵を翌日、ホテルの貴賓室に来てもらい診断結果を伝えたのである。
「言いにくいんですが、お二人の健康状態はあまり良くありません、血液がドロドロしており、このままでは動脈硬化を引き起こすことで、狭心症や脳梗塞になることがあります。」
「最近、胸が痛くなったり胸が締めつけられるような圧迫感それに呼吸が苦しい、冷や汗や脂汗が出るなどの症状はありませんか」
通訳がそれを伝えると二人は身に覚えがあるのかしきりにうなづいていた。
「この病気は普段の運動や食事が大事です、魚、野菜、果物それに毎日軽い運動をしてください、一応、血圧を下げる薬と血液をサラサラにする薬がありますのでしばらくはこれを毎日飲んでください。」そう言って城島先生が以前に開発した薬を処方したのである。
血液の検査で自分達が、血管の病にかかっている事を知った二人の御貴族様はさっそく、知り合い達に日本のすばらしい医療技術の自慢をするのであった。
病院が稼働を始めると、戦場からは毎日のように負傷兵が運ばれてきた。戦場には予備役についていた衛生兵が30名片言のフランス語研修をうけて、フランス兵の道案内と共に同時に4人運べる救急トラックをつかい、重症患者を選択しながら痛み止めと点滴で命を繋ぎながらアストリア・ホテルの急患室にどんどんと戦場からは毎日のように負傷兵を運んで来た。
10室の手術部屋はフル稼働していたのである。いつのまにか戦場で戦うフランス兵のあいだでは、負傷したら自国の治療ではなく日本の医療隊に連れて行ってもらえば、どんなに重症でも必ず命が助かるといううわさが広まっていた。
ある兵士は腹を撃たれて苦しんでいた、味方の衛生兵がやってきて、”腹を撃たれた兵士はもう助からない”と思いながら後方のフランスの野戦病院へ連れて行こうとしたが、その兵士は泣きながら「Japon」「hôpital」、「Japon」「hôpital」と仲間の衛生兵に必死に頼み込み、ちょうど近くに止まっていた日本の救急トラックに乗せてもらったのである。その後、その兵士はアストリア・ホテルの急患室に運ばれ日本の医師達の手術により無事に命が助かり、負傷した兵士はうわさが本当だったと日本の看護婦に感謝するのだった。
つづく、、、、