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第132話 「マルヌの奇跡」


2年前から海軍の技術研究所では、日帝大学の物理学や電気工学の優秀な先生方の知恵を借りながら、国からの極秘資料によるソナーの開発をしていた。


すでに試作品は完成して、一隻の駆逐艦に取り付けられて、洋上試験を繰り返していたのである。それは1100Hzの可聴音による音響ビームを一方向に放って、水中を伝播する音波を用い、水中の物体からの反響波を受信する装置であった。


シラトリエレクトロニクス(株)の技術陣も協力して学者が発案した、水晶の圧電効果による高性能のトランスデューサーを開発し、真空管式アンプによる実用的なアクティブ・ソナーを作り、初期のブラウン管オシロスコープでは1000m程の近距離の探索しかできなかったが、改良を重ねて海水の温度次第では、最大12kmから最低でも10kmまでの水中の物体の位置情報を知る事ができたのである、これは敵潜水艦の探知や機雷を探知する事を目的として、英国から要請を受けている日本艦隊の欧州派遣の護衛駆逐艦に装備する事になったのである。この開発は、これから英国を悩ます大西洋のドイツ海軍のUボートや機雷対策でもあった。またこのUボート潜水艦に対する爆雷やヘッジホッグなどの対潜兵器も開発していたのである。


また同じように、日帝大学の物理学や電気工学それに冶金やきん研究室には大蔵省の戦費回収特別局を牛耳っている結城が、国の事業で稼いだ口座から豊富な資金提供して軍に協力するための、マイクロ波レーダー開発やニッケル合金やコバルト合金、チタン合金などの耐熱合金の研究を進めていたのである。すべては次の大戦に向けての準備であった。


日本の潜水艦の歴史は、日露戦争までさかのぼる日本海海戦には間に合わず、実戦配備はされていなかったが、世界の海軍と同じように興味はあり、1905年日本はアメリカからホランド級潜水艦5隻を購入してその後、このホランド級を参考に2隻国産化をするが、その潜水艦は艦形も小さく、大洋の航海には適さなく沿岸型の潜水艦であった。日本にとって艦隊決戦が最終戦術だと思っていた中で、潜水艦はその補助戦闘艦でしかなかった、この頃の日本の潜水艦技術はまだまだ未熟であった。


ドイツ海軍は強力な水上艦戦力をもたないため、制海権は絶えず英国側にあった。そのため、通商破壊を戦術として考えた場合、水上艦では行えず、敵の強力な水上艦隊の勢力下でも作戦行動が可能な潜水艦が、この任に最適だと考えたのである。


当時の潜水艦は、「敵に発見されにくく、大型船を撃沈できる魚雷をもち、建造費が大型艦に比べれば安価である」などのメリットがあった。これは列強の大国に対して、小国が取るゲリラ戦術のための兵器といえる。


その反面で、「速度が低く、会敵の機会が少なく、接敵できても強力な護衛のつく水上艦との戦闘では不利」と評価されていた。潜水艦の隠密性を最大限活用するため、Uボート戦では、商船に対しても無警告攻撃という戦法がとられた。当然、標的となったのは、敵国のイギリスなどと植民地とを往来する商船であった。


だがこの無警告攻撃で、アメリカ人が128名犠牲になった英国客船「ルシタニア」を沈めた事で、アメリカが参戦しそれによってドイツが勝利する事はなくなったのである。                              


この無警告攻撃に対応する為に、結城はアクティブ・ソナーの開発を急がせたのであった。




日本の海兵隊が青島要塞でドイツ軍と戦っている時、欧州では8月1日に総動員を開始、3日にはフランスに宣戦布告したドイツは、シュリーフェン・プランに基づきベルギーとルクセンブルクに侵攻を開始した。


このシュリーフェン・プランとはドイツ参謀総長シュリーフェンが、二正面作戦の手段として、フランスを全力で攻撃して対仏戦争を早期に終結させ、その後反転してロシアを全力で叩こうと考えた。東部戦線と西部戦線左翼を犠牲にして、強力な西部戦線右翼で中立国ベルギーとオランダに侵攻しイギリス海峡に近いアミアンを通過。その後は反時計回りにフランス北部を制圧していき、独仏国境の仏軍主力を背後から包囲し殲滅するというものであった。


ドイツ陸軍の西部国境への集結がまだ続いている最中の1914年8月5日ドイツ第10軍団は、ベルギーのリエージュ要塞への攻撃を開始しリエージュの町は7日に陥落したが、その周りを囲むように建造されたリエージュの12の要塞はすぐには陥落しなかった。


ドイツ軍はディッケ・ベルタという攻城砲を投入して要塞を落とし、16日にはリエージュを完全に征服したのである。この攻城砲は日露戦争の旅順要塞攻略戦を見た観戦武官のレポートから要塞攻略の為に準備されたクルップ社が設計・製造した口径42cmの巨大榴弾砲だった。


難攻不落とされたリエージュ要塞群を、あっさりと陥落させて快進撃するドイツ軍、ベルギー侵攻に伴ってフランスの各軍も進撃を開始したが、ドイツ軍の勢いを止める事ができず、ドイツ防衛線に銃剣突撃を何度も敢行したが、機関銃に薙ぎ倒される結果となった。


こうしてベルギーを突破してフランスへ侵攻したドイツ軍は、パリから30kmほどのセーヌ川支流のマルヌ河畔に至った。フランス政府は、あわててパリを離れ500km離れたボルドーヘ退避しようとしていた。だがパリの防衛にあたっていた防衛軍(フランス第6軍)がこれに素早く対応したのである。


9月5日、マルヌ川の渡河を考えていたドイツ軍のクルック将軍に、参謀総長モルトケから現在の線で停止し、防御を固めるように命令が入る。マルヌ川方面を守備する部隊からフランス軍出現との報を聞くに至り、渡河を諦めて防御を固める方針に切り替えたのだ。


9月6日、反攻作戦に出たフランス軍とドイツ軍の間で、激戦が展開され始めたクルック将軍はパリから防衛軍(フランス第6軍)が出てくるとは思わなかったため心理的奇襲を受けた。しかし、クルック将軍はすぐに西方へ部隊を集中してフランス第6軍に対して反撃を開始し、一時的に押し戻すことに成功した。だが、パリの防衛に必死なフランス軍はパリ市内のタクシー630台を兵員輸送のために徴発し、何度も往復させフランス第6軍に予備部隊を送り込み続けた結果、フランス第6軍はドイツ軍の攻撃に耐え抜くことができた。


その間にイギリス海外派遣軍がドイツ軍を包囲しようとした為に、計画崩壊、部隊の危機的状況を見たドイツ参謀総長モルトケは、9月9日に全軍に撤退を命じたのである。


ドイツ軍は損害を出しながらも9月11日にエーヌ川の線まで後退することに成功し、そこで塹壕陣地の構築を開始した。シュリーフェン計画は失敗に終わり両陣営は、次の策がないまま泥沼の塹壕戦に突き進んでいくことになる。


こうしてドイツ軍のシュリーフェン・プランは挫折し、短期決戦から長期戦へと戦局は変わり首都のパリ陥落を防いだこの戦いは、マルヌの奇跡と呼ばれるのであった。



  ~~~~~~~~



そんな激戦が続いているフランス、1914年10月の初め、ついに尚美達の欧州派遣救護隊がマルセイユに到着すると、駐フランス特命全権大使の石井菊次郎と次官が迎えにきており、町の市長や市民から大歓迎を受けてその晩は市長主催の歓迎セレモニーで夕飯をごちそうになった。


救護隊は翌日には船から降ろされトラックに器材を積込みバスに隊員を乗せてフランス陸軍の先導車でパリへと向かうのであった。日本国旗と赤十字旗が屋上に翻るバリ凱旋門近くのアストリア・ホテルには、夕方遅く到着して4日ほどかかって持ってきた医薬品や医療器材、それに電気にくわしいフランス支店のシラトリエレクトロニクス(株)社員もやってきて、庭に大型発電機を設置し部屋に配線をして電気を使えるようにしたのである。


こうして手術室や処置室へ器材を運び込み立派な病院へと作り変えていくのだった。アストリア・ホテルは開設して聞もない近代病院へと変貌すると、これに尽力してくれたフランス政府の役人に陸軍のお偉い方々、それに高貴なセレブの御夫婦達が開院前に見学にきたのだった。


日本から持っ てきた大量の医療用物品や器械が、まるで「日本に関する展覧会場」のように並んでいて、薬局、 手術室、検査室、病室等日本の最新の科学技術(尚美が作らせた医療器材)を投入して製造した精巧な器械は、後進国であると思っていたフランス人の注目を集めるのだった。


お揃いの日の丸を付けた青いブレザーの制服で、見学にきた来賓を通訳と共に案内するのは団長の高橋勝次と尚美だった。


「サリバン先生、緊張しませんか、偉い人や貴族ですよ、それも公爵やら伯爵やらいろいろと見に来るんですよ、なにしゃべればいんですか~」そう言う勝次は緊張で声が震えていた。


貴族やヒグマが来ても、なんとも思わない尚美はリラックスした声で「だいじょぶよ、どうせ連中なんか私たちを人とは思ってないから、アフリカの植民地の住人より、少しましなぐらいの目で見ているから、日本の進んだ医療器械を見せてビックリさせてやるだけよ、フフフ」


未来からきた尚美にとって、この時代の人間こそ古い考えをもった未開人だと思っていた。


こうしてフランス政府の役人に続いて、この国の貴族代表のモンモランシー公爵夫妻、ラ・ファイエット伯爵夫妻、ホルシュタイン男爵夫妻、財閥家ナルボンヌ夫妻など、大勢の一癖も二癖もある、貴族や資産家が戦争で夜会や舞踏会もなくなり、暇つぶしにと思いこの国にやってきた、日本ザルの芸を見に来る気持ちでやってきたのである。






つづく、、、、





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