第128話 「開戦」
立憲政友会の事務所で西園寺先生と打ち合わせをする結城
「結城君の言う通り、本当に起きたんだな」
がっかりした様子で。結城に6月28日欧州のサラエヴォで起きた暗殺事件が新聞に少し小さな記事となってのっていた、それを見せる西園寺先生
「はい、このサラエヴォで起きたオーストリア大公フランツ・フェルディナントと妻のゾフィー・ホテク暗殺事件は独立を求める、セルビア人、民族主義者の犯行でこの事件で、同盟国ドイツから軍事支援が受けられるオーストリア=ハンガリー政府は強硬な要求をセルビア政府にしますが、その回答を気にいらず、セルビアに7月28日宣戦布告します。」
「そしてロシアが、セルビアを支援すべくオーストリア=ハンガリー帝国に対して、7月30日には軍の総動員令を出します」
「この総動員令に反応したドイツは8月1日、ロシアに宣戦布告して動員令を発し、後は同盟条件によって、連鎖的に英国やフランスなど欧州の国が参戦して第一次世界大戦の勃発につながっていくわけです。」
「そうか、あと一ヵ月で欧州での悲惨な戦争が始まるのか」
西園寺先生は結城から戦争が避ける事ができないことを聞いており、大きくため息をつくのである。
「8月4日には英国がドイツに宣戦布告して、フランスの各地で激戦がはじまりますアメリカも、1917年4月6日にドイツ帝国に宣戦布告して、1918年11月11日までの4年間、戦争が続いて連合国軍が勝利します。」
「すでに、わが国も数年前から準備をはじめて、すでに銃器弾薬や兵器は一新され最新兵器となっております。この戦争には前にも話しましたが、欧州へ軍を派遣して、新しい兵器や戦術で軍が活躍し貢献する事で、戦後の世界では極東の日本の発言力を強くしなければなりません。」
「まずは、英国がドイツに宣戦布告したら、すぐに日本も宣戦布告して、ドイツ帝国の東アジアの拠点、中国の山東半島の青島と南洋諸島の占領を早急にとりかかりましょう。」
「あとは、フランスへ我が国の医療隊を送り、我が国の存在感と好感度をあげないといけないでしょ」
こうして、サラエヴォで起きた暗殺事件から、欧州で英国とドイツの間で戦争が起きる可能性があると国防省の大臣から陸軍と海軍の長官に連絡がいって英国との同盟義務として日本の参戦となったら、中国、山東半島のドイツ帝国の東アジアの拠点青島要塞の攻略とドイツの植民地、南洋諸島の占領(サイパン、テニアン、グアム、パラオ諸島、トラック諸島、マーシャル諸島など)の為の計画を極秘に作らせた、そして、ドイツとの戦争が避けられない、時期は8月として、日露戦争という悲惨な近代戦を経験をした日本は、平時体制から戦時体制へと変わり戦争への入念な準備を始めたのである。
史実通り7月28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告すると、ロシアは7月30日に総動員を命じた。ドイツはロシアに最後通牒を突き付けて、動員を解除するよう要求、それらが断られると8月1日にロシアに宣戦布告した。
東部戦線において数的不利だったロシアは三国協商を通じて、同盟関係にあるフランスに西部での第二戦線を開くよう要請した。1870年の普仏戦争での敗戦の復讐に燃えていたフランスは、ロシアの要請を受け入れて、8月1日に総動員を開始、3日にはドイツがフランスに宣戦布告した。ドイツ・フランス国境は両側とも要塞化されていたため、ドイツはベルギーとルクセンブルクに侵攻、続いて南下してフランスに進軍した。しかしその結果、ドイツがベルギーの中立を侵害したため、8月4日にはイギリスがドイツに宣戦布告したのだった。
近代戦を経験した日本とは違い、欧州主要国の国民にとって戦争は遠い出来事として、ロマンあふれる物語や英雄伝となって若い人達は聞かされていたり、書物を読んでいた。
欧州の最後の戦いはプロイセン帝国とフランスとの戦争である普仏戦争からすでに40年が経過していたし、日露戦争が近代戦の様相を見せていても、規模が小さく極東の出来事、詳しく国民までは知られなかった。つまり、プロの軍人も含めて全ての人が、この戦争がどんな悲惨な戦いになるか誰も予想できなかったのである。
結局、ナポレオンの時代からあまり代わり映えのしない、決戦主義による会戦を思い描いていた。それでドイツやイギリスが宣戦布告すると各国では、戦場のロマンを求めて、多くの若者が軍の徴兵募集に集まり、募集年齢に達しない未成年の少年も、年齢を偽ったり偽名を名乗ったりして志願した。
地方の街の募集では「仲間大隊」が編成され、同じ学校の同級生や同じ工場、サッカー チーム、銀行などの出身者が集まり、一緒に戦うというものである。
仲間大隊の 1 つの結果は、激しい戦闘が 1 日続くだけで、出身の町全体が軍隊年齢の男性数に深刻な打撃を与える可能性があることだった。
こうして退屈な日常から解放され、志願して入隊した若者達は、数週間の訓練を終えると大勢の市民が見送る中、行進して駅に向かい、戦場に送られる列車が発車するとき駅で見送る母親に笑いながら、「クリスマスまでには帰ってくるよ!」と皆が叫び、若い兵士達は誰もがそう信じて、意気揚々と戦地へ向かっていくのである。
だがそれは4年にも及ぶ地獄の戦いの始まりだった。
日本政府は英国から参戦を要請されると待ってましたとばかりに、8月5日ドイツに宣戦布告した、国防省もすでに青島要塞の攻略と南洋諸島の占領の作戦計画ができていた。
中国、山東半島の南側にある、黄海に面したでかい膠州湾その湾の入り口に少し飛び出した小さな半島の先にある青島市の街、ここがドイツ帝国の東アジアの拠点である。
この要所を守るため青島市の背後には二つの山がありそれは、モルトケ山要塞とビスマルク山要塞よばれ、頂上には口径30 cmの要塞砲が備えられていた。
そのふもとには膠州湾から黄海の海浜まで、この小さな半島を横切る総延長6キロにおよぶ間を5か所の堡塁陣地、どれも中心に2メートルの厚さのコンクリート製巨大トーチカ、周囲には三角形断面の外壕があり壕底には6~10メートル幅の鉄条網、合計40挺の機関銃が各堡塁に配備、その堡塁の間にも簡易堡塁があり、塹壕で結ばれて軽火器が備えられ周辺には約450個の地雷、付近は完全に切り開かれて見通しがよくなっているところに、総延長6キロにおよぶ鉄条網ラインが引かれ、ドイツ軍の機関銃掃射の標的になりやすくなっていた。まるで小さな旅順要塞である。そこを、青島要塞総督アルフレート・マイヤー・ヴァルデック海軍大佐が率いる要塞守備隊約4,300名が守っていたのである。
史実では、日本陸軍第18師団(約29,000名)が要塞周辺を取り囲み青島要塞攻略にあたり、日本軍は、充分な砲がないため白兵戦による出血を強いられた日露戦争の旅順攻囲戦と異なり、砲撃戦による敵の圧倒を作戦の要として強力な攻城砲を多数追加用意して、重火器による砲撃によりドイツ軍要塞は無力化された。山東半島上陸から青島砲撃までに2か月もの時間を要したものの、砲撃後1週間で決着がついた戦いだった。
8月15日に青島要塞の沖には海軍の第二艦隊と第一海兵隊を積んだ大型揚陸艦と200mの全通飛行甲板を持った強襲揚陸艦がそれに、シンガポールから第一海軍卿サー・ジョン・フィッシャー提督率いる、英国東洋艦隊と1500名の陸軍兵士がのった輸送船が増援で停泊していたのである。
そんな状況の中、ドイツ軍はダイムラー製6気筒エンジン、最大速度120 km/h乗員が2名のオーストリアでつくられた初期の航空機ルンプラー・タウベが上空500mを飛行して、のんきに偵察任務でやってきた。
すでに、強襲揚陸艦から飛びたって、上空警戒中の一人乗りの低翼型セスナ戦闘機が飛んでくるドイツ軍の航空機ルンプラー・タウベに気が付くと、上空から獲物を狙う猛禽類のように急降下で迫り、両翼から4丁のラインメタル/マウザー・ヴェルケMG34機関銃のコピー品で、国産初の機関銃である一式機関銃が短く火を吹くと、あっけなく乗員2名は銃弾で撃ち抜れ操縦席を真っ赤に染めてそのまま青島沖に墜落したのである。
世界で初めての航空機による戦闘での撃墜を目撃した、英国のジョン・フィッシャー提督をはじめ、輸送船の甲板から見ていた1500名の英国陸軍兵士は口を開けたまま、日本軍が味方で本当によかったと強く思っていたのである。
つづく、、、、