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第127話 「崩御」


最新の科学技術の粋を集めた新鋭船で、不沈艦と呼ばれた豪華客船が処女航海で氷山と接触してあっけなく沈没した事は、欧米社会に大きな衝撃を与えて大ニュースとなり新聞の一面を飾った。日本の貨物船が偶然にも近くにいて、沈みいく客船から乗員と乗客を無事に救出した英雄として上村船長のニュースが大きくのっていた。


冷たい北大西洋の海に大勢の欧米人の命がなくなり、世界最大の海難事故が起きるところを、それを救ってくれた日本のサムライとして上村船長には大英帝国の国民がみな感謝して、この豪華客船に乗っていた、知人や家族を救われた貴族や政財界の人達が政府に働きかけ白人以外では初めての、大英帝国勲章が有色人種である黄色い日本人が授与したのである、これに反対する人種差別主義で日本人をまだ黄色いサルと思っていた、王室関係の年老いた高貴な貴族もいたが、孫娘と夫が、この船にのっていた事を知らされるとしぶしぶと了解したのである。そして授与でやってきた上村船長に会うと、その両手をしっかりと握り感謝するのだった、口の堅い上村船長はあの手紙の事は伏せて、ちゃっかりと人生二度目のヒーローとなって、英国の国王であるジョージ五世から大英帝国勲章をもらい、ドヤ笑顔で帰国してきたのであった。


  ~~~~~~~~~


横須賀から海を挟んだ向かいにある、千葉県の富津岬に陸軍技術本部の試射場(富津射場)があった。ここは大砲や機関銃の弾丸速度や空気抵抗の測定、命中・貫通・耐久性などの試験などを行う陸軍の実射撃試験場で、ここで陸軍で使用する大砲や弾薬は、射場(試験場)で試験検査を受けて実戦配備されていた。


交通路として内房線青堀駅から射場まで、軍用引込線が設けられ射場内には軽便軌条が張り巡らされて本部事務所のほか、試験に必要な砲座、観測施設、火工作業所、火薬庫、起重機、実験室、砲廠、各種倉庫類が整備され各種火砲の海上射撃(射程35km)や陸上の短距離砲射撃、初速試験、彈体抗力試験、その他小試験を行うとされていた。


そこでは英国陸軍との銃や砲の弾の共通仕様計画の為、現在では野砲の研究が進んでいて、この当時の英国陸軍の主力野砲は18ポンド野砲と呼ばれる砲と 25ポンド砲があり、その割合は3:1であった。


従来の日本の野砲は発射の反動により砲そのものが後退してしまい、着弾地点がずれてしまう。そこで元の位置に砲を戻す必要と照準調整のやり直しが必要だった、このころすでに各国では「駐退復座機」を搭載した野砲にかわっていた、この「駐退復座機」とは大砲の砲身だけを後退させることで発射時の反動を軽減、さらに液体と空気圧により再び砲身を前進させることができるシステムである。この駐退機を利用すれば砲身のみが後退し、また元に戻るので、照準調整のやり直しは不要となり、その性能は、前世代の野砲の連射速度が1分間に2発だったのに対し、1分間に15発にまで引き上げることができた。


すでに日本式の「液体空圧式」の「駐退復座機」が完成しており、スマートな

砲が「駐退復座機」の上部に付いていた。


その富津試射場に陸軍兵器開発部を統括する、有坂成章少将と副官の真田大佐が視察に来ていた、彼らは他の職員と一緒にコンクリートでできた試射観測所から最新の砲の試射の立ち合いできていたのである、日本版の18ポンド砲、口径が84mmから84式野砲と名づけられ、25ポンド砲は口径が87mmから87式野砲と命名された。


カザマ製の前方に飛び出したボンネットが特徴の六輪トラックの荷台に、後ろに砲を向けた84式野砲を搭載して、バックをしながら砂地のコの字型に土嚢を積んだ砲座に車を止めると、荷台の下部の前後と左右についた、アームを引出しハンドルを回すとそこに付いていた、ジャッキが伸びて地面にしっかりと固定して、車体を浮かせて四方のジャッキを調整して砲の水平を確保すると、荷台の側面にある開閉式のパネルを開きそれにも太い角型のアームが2本ついており、それを地面に固定すると荷台のデッキが広がって、数名の砲兵が手際よく乗り込み砲の操作をはじめた。


運転席の背面に各種砲弾を30発収納する弾薬庫があり、榴弾を取り出すと砲の閉鎖機を開き薬室にそれを突っ込み閉じた、有効射程は6kmあり1kmごと丘の上にデカい標的がいくつも置かれて、指揮官が合図すると次々と砲弾を撃ちだした、数発撃つとほとんどの砲弾は標的を破壊して、周辺へと着弾して1kmごと射程を伸ばしていき、最後の5kmとか6kmは現場の観測班から無線で指示を受けての遠距離砲撃だった。


結果は満足なものであり、命中率は地上射撃時と変わりなかった。トラックの荷台には鉄骨と角材で台座を作り、砲の移動用の車輪と固定脚も取って軽くして下部砲架台をトラックの台座にボルトて固定をした、トラック砲とも呼ばれる自走砲兵器だった。


有坂成章少将と副官の真田大佐が車に近づきをいろいろと調べて懸念されていた発射衝撃による車体への影響もないことを確かめたのである。


84式野砲は脚部を入れると1.250kgだが脚部をはずし下部砲架台だけにすると約1tだった、2tまで運べるカザマのトラックに弾薬や砲兵を乗せても十分余裕がありこれにより、日本軍の砲兵隊は機動力が増して大活躍するのだった。


25ポンド砲にあたる87式野砲は重量が1.800kgあるため、トラックには乗せられなかったが、サスペンションとデカいゴムタイヤを装備させ開脚式砲脚を閉じて固定具で止めると、トラックの後部に専用連結器がついており、持ち上げて簡単に砲とトラックとの連結ができた。砲の有効射程は12kmもあり、その精度も問題はなかったのである。


こうして戦場の主役である銃と砲の開発は済んで砲弾や砲はアジア最大規模の軍事工場となった大阪砲兵工廠で小銃や機関銃などは東京砲兵工廠での量産体制になったのである。


軍需産業となったカザマ(株)も軍に収める、兵員輸送のボンネット型トラックと砲を取り付ける特殊トラックの量産をはじめたのであった。



   ~~~~~~~~~



明治45年(1912年)7月30日、明治天皇の崩御を宮内省が発表した。


倒幕および明治維新の象徴として近代日本の指導者と仰がれた。維新後、国力を伸長させた英明な天皇として「大帝」と称えられ、東京に皇居を置いた最初の天皇、明治維新を経て日本国の君主となり、日清日露の両戦争を戦い、日本の近代化と共に歩まれたその生涯は歴代天皇の中でも波乱に満ちたもので59歳だった。


明治天皇は単なる君主ではなく、近代日本の父のような存在でその崩御は国民にとっては家族を失うような深い悲しみだった。国民は天皇を国の象徴、そして精神的な支柱として深く敬愛していたのであった。


特に結城や尚美がタイムスリップしたこの世界で起きた「災害対策基本法」「統帥権の廃止」「農地改革」「国民皆保険」には陛下が大きく関り、この世界の後世に明治四大改革と呼ばれる画期的な出来事として評価されるのだった。


幕府がなくなり明治維新によって、はじめて「国家」というものをもち、「国民」となった日本人。近代国家をつくりあげようと明るい希望を抱きながら国民が突き進んだのが「明治」という時代であった。国民の収入は政府の政策でとんでもなく上がり、社会保障では病気になっても、病院で見てもらう事ができるようになり、災害が起きても国や自治体から厚い援助が差し伸べられ、威張って、大きな顔をして歩いていた軍の兵士が、今では、敬語を使い市民と話している、この時代を作り上げた偉大な天皇であった。






それから2年後の1914年6月28日 欧州のサラエヴォ(当時オーストリア領、現・ボスニア・ヘルツェゴビナの首都)で2発の拳銃の発射音が街角で鳴り響いた。これが戦闘員900万人以上、非戦闘員700万人以上が死亡、負傷者2,000万人を出した。悲惨な第一次世界大戦の始まりのゴングとなったのである。





つづく、、、、








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