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第126話 「タイタニック」


1911年(明治44年)春

日本は富国強兵から、舵を切りかえ軍事予算を減らして、公共事業に力を入れていた。秋田県の油田から作られる、国産アスファルによる道路整備により地方の国道はりっぱな道路となって、橋やトンネル工事、それに電力関係と治水の関係でダム工事も地方の失業対策にもなって金がまわっていった。


そんな中で明治44年、4月1日に国民の保健・福祉に関する行政の拡充刷新を計るため、厚生省が設置された。これにり、「国民皆保険」国民全員が生まれた時から誰もが「保険証」を持ち、必要な時に医療サービスを受けることができる「国民健康保険」の制度がついに施行されたのである。


これにも反対する議員はいたが、またしても陛下の独り言である御内意ごないいが密かに宮内省の役人が伝えにいくと、すぐに賛成へと変わるのだった。


全国の妊婦や赤ん坊を連れた母親たちが笑顔でそれぞれ片手には母子手帳をもって、各地の保健所や街の集会所に集まって妊産婦と乳幼児を対象とした健康診査と保健指導が行われていた。この母子手帳の交付などを通じて、妊産婦のケアや乳幼児の健康を守るための支援や乳幼児期の予防接種すべて無料で行われていたのである。


これによって日本の乳児死亡率は大幅に減って、妊産婦もお金の心配もなく健康診断受けられる事になり、国民は政府に感謝したのである。こうして日本の社会保障制度「国民皆保険」は世界で初めての制度となり、来日した外国人はこれを見て驚くのだった。


  ~~~~~~~~~ 


1910年代初頭、全世界の4/5の地域が、ヨーロッパ列強諸国の植民地か占領下に置かれていた。このような国際情勢下で、列強諸国は自国の覇権争いに躍起となっており、見た目の平和と裏腹にきわどい均衡の国際情勢となっていた。


特にドイツでは1862年にプロイセン国王ヴィルヘルム1世から、プロイセン首相に任命されドイツ統一戦争に乗り出し統一ドイツ国家「ドイツ帝国」を樹立したドイツ帝国宰相ビスマルク、卓越した外交力で国際政治においても主導的人物となりビスマルクの巧みな外交のおかげで「ビスマルク体制」と呼ばれる国際関係を構築した。それによって19世紀後半の欧州ではヨーロッパ諸国間の戦争は発生していなかった。


国王ヴィルヘルム1世が崩御してヴィルヘルム2世が新ドイツ皇帝・プロイセン王に即位すると1890年ビスマルク宰相を罷免し、「老いた水先案内人に変わって、これからは私がドイツを導くのだ」と国家政策の直接管理権を握り皇帝みずから政治を行う親政制度に変えたのだった。


若くしてドイツ皇帝となったヴィルヘルム2世は非常にやる気に溢れていたが、しかし全てが空回りしてしまい、欧州各国には思いついた事をなんでもしゃべり、今で言う「炎上発言」を何度も繰り返していた。史実では海軍の大幅な増強について記者に質問された皇帝は、本来は英国海軍に対抗するためだったが

「ドイツの戦艦建造はイギリスを敵国とするものではなく、極東の国に対するものである」と英国には誤解されないような発言をした。


この皇帝の言葉が新聞にのると日本政府は自分達がその対象となっている事に驚き、一気に日本との関係が冷えきってしまった。この発言でその後の第一次世界大戦では日本はドイツに味方することはなく英国側に日本がついたのである。この外国からの目を鑑みない行動や発言は、次第にロシアやイギリスとの関係を悪化させていき、それにより欧州は一触即発の国際情勢となっていた。


そんな時代、1912年4月10日にイギリスの南部の港町であるサウザンプトン港からニューヨークに向かって一隻の大型客船が出航した。船名は「タイタニック」乗員乗客2223名を乗せての処女航海であった。数日無事に航海をしていた4月14日23時40分、タイタニックが北大西洋のニューファンドランド沖にさしかかったとき、見張りが450メートル前方に高さ20メートル弱の氷山を肉眼で捕捉した。発見したときにはすでに手遅れだった。


当直見張員だったフレデリック・フリートはただちに鐘を3回鳴らし、ブリッジへの電話をつかんだ。応答したのはジェームズ・ポール・ムーディ六等航海士ムーディはただちに指揮をとる次席一等航海士のウィリアム・マクマスター・マードックに報告した。


マードックは即座に「取舵一杯!!」と操舵員のロバート・ヒッチェンスに叫び、それから「機関伝令器」に走ると「後進一杯」の指令を送り、喫水線下の防水扉を閉めるボタンを押した。 


しかし、この時点で回避するにはあまりにも時間と距離が足りなかった。氷山まではおよそ400 ~450メートルであったが、22ノットで航行している船が停止するには1,200メートルもの距離を必要とした。結果、船首部分は衝突を避けられたものの、右舷は氷山に接触し、同船は停止した。


受けた衝撃は船橋ブリッジでは小さく、回避できたかあるいは被害が少ないと思われた。しかし、右舷船首のおよそ90メートルにわたって断続的に生じた損傷が船首の5区画にもたらした浸水は防水隔壁の上限を超えており、隔壁を乗り越えた海水が次々と防水区画から溢れたことで船首から船尾へと浸水が拡大していった。エドワード・ジョン・スミス船長は海水の排水を試みようとしたが、ごくわずかな時間稼ぎに留まった。


1912年4月14日深夜北大西洋上を一隻の日本の貨物船が進んでいた。その船はカザマ(株)専用の車両運搬船で輸出用のカザマバイクと軽のワゴン車と軽トラックを英国のポーツマス港で半分降ろすと、今度は米国東海岸のニューヨークに向けて出向していた。 船長は長年の間、海軍に御奉公していたベテランの船長であった。


貨物運搬船の上村船長

私は、海軍に御奉公して、十分に暮らしていけるだけの蓄えはあったが、体が動く間は船にのっていたくて、この船の雇われ船長となっていた。カザマ製のバイクや車を積んで横浜を出港する時、突然、船に緊急荷物が積まれた。毛布が3千枚に船と船を繋ぐ渡板が何枚かとそれと船体の側面に吊り下げる縄ばしごが多数積み込まれた。


まるで、沈没する船から大勢の人を救うような、装備であった。そして、船主である、カザマ(株)の会長から一通の手紙を受け取った、そこには「4月14日深夜に北大西洋上で一隻の英国客船が事故により沈没する可能性があるとその現場に必ず向かい乗客の救助をお願いします。」と書かれていた。私は手が震える程、驚いた、このような手紙を受け取るのは二度目だったからである


一度目は忘れもしない、日露戦争において海軍軍令部の佐治徳一中佐から直接もらった差出人不明の手紙、そこには玄界灘を大連にむけて航行中の陸軍徴用運搬船3隻がロシア・ウラジオ艦隊所属の3隻の装甲巡洋艦によって攻撃を受けて、陸軍近衛歩兵第一連隊が海の藻屑となる内容だった。それを信じた私は

玄界灘に向かいウラジオ艦隊所属の3隻の装甲巡洋艦を撃沈して陸軍近衛歩兵第一連隊を救うことができた。その時の手紙の筆跡と同じじゃないか~!


私はそれを信じて、英国のポーツマス港で積んでいたバイクや車を降ろすと、数日、出港の日をずらして4月14日に指定された時刻に北大西洋上の座標につくように計算してポーツマス港を出港した。停泊中に船員には渡し板を甲板に固定する器具を作らせたり、縄はしごを船べりの手すりに縛り付けたりする練習をしていた。


エドワード・ジョン・スミス船長は日付が変わった4月15日0時15分当時の遭難信号『CQD』を何度も発信して、他にもロケット信号弾の打ち上げをして周辺の船舶に救助を求めた。


すでに沈没が避けられない事を悟った船長は、乗客に救命ボートによる脱出をうながした。悲鳴を上げながら救命胴衣をきた乗客が甲板に集まってきた時だった。月明かりの中、汽笛を大きく鳴らしながら近づく一隻の貨物船を乗客たちは見た、藁にもすがるような気持ちでいた乗客は両手を振って、その日の丸を掲げた貨物船にみな大声で「助けてくれ~」と叫んでいたのである。 


その貨物船は巧みに船の操作をすると「タイタニック」に並ぶように停止をした。船員達は用意していた船と船を繋ぐ渡板を何枚かを器用に甲板に固定して両方の船を繋ぐとタイタニックの次席一等航海士のウィリアム・マードックが移乗を指揮し「女性と子供を優先するんだ!」と船員に命令した、お互いの船の船員が誘導して、渡板を使い大勢の乗客が貨物船へと手際よく乗船することができた。


渡ってきた紳士や赤ん坊を抱いた御夫人は泣きながら、日本の船員に抱きついて「Thank you so, so much.」「You’re the best!」と連発して感謝の言葉をのべたり、抱きつき感謝のキスをしたりするのだった。


最後と思われる乗客が乗り込むとエドワード・ジョン・スミス船長が他に乗客が残されていないか船員に確認させると、最後に貨物船へと乗船して上村船長とガッチリと握手して潤んだ目で感謝の言葉を言うのだった。


浸水でタイタニックの船首は海没していき、反対に船尾が海面から高く持ち上がっていった。その結果、設計時の想定をはるかに超える負荷が船体にかかり

衝突から2時間40分後の2時20分、轟音とともに船体は2つに折れてしまった。それを近くの海域で、毛布を肩から掛けた2200名程の乗客や乗員が甲板から見ていた。


それから何事もなかったように貨物船は米国東海岸のニューヨークに向けて出発したのであった。






つづく、、、












 

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