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第124話 強襲揚陸艦


帝都の羽田に陸軍との共同で東京飛行場ができた。カザマ飛行機が、民間人の長距離移動用の9人の乗客が乗れるセスナ型9を開発して、大阪の飛行場との往復ができるようになったのである。これは基本的な外見はセスナ練習機など単発機を踏襲しているが、風間社長は結城からの資料で今までセスナ型飛行機の水平対向6気筒空冷エンジン150馬力からさらに性能をあげた、水冷V型12気筒レシプロエンジンの開発に成功したのだった。


馬力は従来の空冷エンジンの倍以上の性能があった。これを左右の翼につけての大型機への夢ができたが、まだ二つのエンジンをコントロールする技術はなかった。


その為セスナ型飛行機で成功した実績から、その安定した飛び方と操縦のしやすさから高翼機の単発エンジンでの大型機として短距離離着陸性能の向上を狙った長い主翼が特徴で最も大型のセスナ型単発機となっている。


馬力が上がり、約1tの貨物を運べる仕様になったので、大容量のキャビンが設計され横に座席を3席並べることができる、幅広でそれが3列にすることによって9人の乗客と郵便物や貨物も若干つめるスペースができた、胴体両側に追加したスライドドアにより、乗客の乗り降りができるようしてあった。


東京と大阪の距離は鉄道では約550kmで、特急の蒸気機関車でもこの当時は約11時間はかかったのであるが、このセスナ9は大空を東京から大阪まで直線に飛ぶことが出来る為、その距離は400kmそして時速200kmの速力で約2時間程である、窓から見える景色に見とれて、乗客の感覚はあっというまに大阪に着いたと喜ぶのであった。これで東京と大阪の日帰りが可能となり、この便利な新しい乗り物が口コミでどんどん広がると、各地の財閥系企業がスポンサーとなり民間と国も一部支援して軍も使える飛行場が各地にでき羽田を拠点にした空路が広島、高松、福岡、鹿児島、金沢、仙台、青森、札幌と広がっていってこれにより、民間航空会社の下地が広がっていったのである


帝都の市ヶ谷の国防省統合本部が、このセスナ9の搭載量に目をつけた。約1tの搭載量とその短距離離着陸性能を考え、多用途の戦術でこの機体の魅力を感じたのである。単発エンジンの大型爆撃機としては当然であるが、座席をはずし1tの軍事物資を運んだり、短距離離着陸性能を生かして、簡易座席に10名の兵士を敵の後方に運んだりして、後方の攪乱とかに使えると考えたのである。


これによりカザマ飛行機は、軍に収める新型の低翼単座式セスナ型戦闘機と二人乗りのセスナ型汎用攻撃機の生産と、このセスナ9の機体の受注で航空機の軍需企業として日本最大企業となっていくのである。


その頃、横須賀海軍工廠よこすかかいぐんこうしょうでは新造艦の製造で第一船渠ドックから第七船渠ドックまで久しぶりに活気に沸いていたのである、今までは国の予算の関係で既存の軍艦の砲の改造や動力を蒸気タービンへの変更などでまともな船を作っていなかったからだ。


国が新設の海兵師団用の、海から陸への強襲上陸作戦で使う上陸用舟艇を30隻搭載して、兵員2500名を輸送できる特殊揚陸母艦を5隻とほかに、強襲上陸支援用として200mの全通飛行甲板を使用した、航空機運用能力を有して兵員1000名と上陸用舟艇12隻も積んだ世界的にも極めて先進的な揚陸艦であった。


その運用思想と船型から未来では強襲揚陸艦と呼ばれる2隻であった。ミリオタの結城は上陸用舟艇の母艦とこの強襲揚陸艦の資料を作り、築地にある海軍技術研究所の平賀譲技術将校と部下が、設計をしてこの当時の技術で作っていたのである。


海兵隊員を運ぶ大型揚陸艦(上陸用舟艇母船)5隻、そのでかい船体内に広い上陸舟艇格納庫を設けて30隻の新開発した「上陸収容艇」を搭載して船尾に主要な発進口が設けられている。トラックや野砲などの装備に長期作戦用の軍事物資を積んだ、特殊輸送船である。


船内の広い舟艇格納庫内にはローラーを利用した軌道が敷かれ、天井に設置されたトロリーワイヤーを利用して舟艇を軌道上で移動させる。この軌道は船尾まで伸びており、船尾の排出する滑走台に続いていた、そして船尾の大型ハッチ(門扉。船尾泛水扉)を有する並列2箇所の泛水口 (みずぐち)へ通じていた。


船尾の並列2箇所の泛水口 (みずぐち)には船尾船体の曲線を描く計4枚の跳ね上げ式大型ハッチがあり、揚陸作業時にはバラストタンクに注水し船尾を沈下させるとともにこのハッチが開き、スロープの後端が海面に接するようになっている。


これらの設備によって、滑走台の軌道の上を上陸用舟艇に60名の兵士かトラックや装備品が積み込まれた状態で、順次移動し連続して泛水、大部隊を揚陸させる事が可能となった。


この船内の全通格納庫・軌道・滑走台の組み合わせは、この時代では非常に独創的であり実用的であった、通常は上甲板に舟艇を搭載しデリックなどのクレーンで舟艇を海面に降ろして基本的に舟艇は空船で、将兵は母船の舷側に垂らされた縄ばしごを伝って舟艇に乗り込み、火砲や車輛、馬匹等はデリックで舟艇内に吊り降ろしていた。


この方式は舟艇が多数の場合に時間がかかるほか、波浪の状態によっては乗船・積載が難しく、また将兵等が移乗時に落下する危険性もあるため迅速な上陸戦を行うのに不向きであった。


だがこの大型揚陸艦(上陸用舟艇母船)は上陸用舟艇を大量に積載可能で人員や装備を乗せたまま連続的に泛水できる新鋭の舟艇母船(揚陸艦)であった。


200mの全通飛行甲板を持った強襲揚陸艦、これらは上陸用舟艇と飛行機の両方を搭載する上陸戦用の空母型揚陸艦であり、上陸部隊を乗せた舟艇を発進させると同時に搭載機も船上から発進させ、泊地の防空や敵陣地の偵察のほか、攻撃に使用するという構想であった。


全通飛行甲板を有する空母型となり、島型船橋・マスト・煙突は右舷に寄せられ飛行甲板の下には航空機格納庫を備えている。飛行甲板後端に設置された航空機用エレベーターで、格納庫から飛行甲板へ航空機を移動した。搭載機の目的は偵察、防空、上陸支援攻撃という事で用途に合わせて20機前後のセスナ型攻撃機が搭載できた。船内には上陸用舟艇はもちろんだが小型装甲砲艦、高速偵察艇などの特殊作戦に必要な舟艇がつまれ、兵士も選抜された海兵隊特殊部隊がこの運用に関わっていた。編成された、海兵師団は、沖縄の那覇に師団司令部を置いて離島での上陸演習や飛行訓練に精密爆撃演習など厳しい訓練で精強な兵士を育成するのであった。


これらの海兵隊員を運ぶ大型揚陸艦(上陸用舟艇母船)5隻には飛騨、出羽、明石、木曽、日高と名付けられ、強襲揚陸艦には白神、越後とそれぞれ山脈や山地の名称がつけられた。


  

  ~~~~~~~~~~



帝都とある場所にある政治結社・誠天会事務所



誠天会幹部の横山

「会長、申し訳ありません、また、大臣を襲撃した皇道派のメンバーが例の公安の連中につかまってしまいました。」


鬼山誠天会長

「くそ~、やはり、皇道派の連中ではダメか~、最近は大臣の連中には警察の警護だけでなく、公安のやり手の連中がついてから一回もうまくいってないじゃないか、公安を仕切っているあの五条結城はどうなっているんだ~」


横山

「姉の尚美を襲いましたが、やはり公安の服部の娘に返り討ちにあいました。」


会長

「服部と言ったら、御庭番の忍び連中じゃないか、もう、皇道派の連中では相手にならないじゃないか、」


誠天会幹部の赤井

「会長、そいえば、殺しを請け負う忍びの技を持った裏の組織がありますが一度会ってみますか?」


会長

「忍びの技を持っているのか、なんだその組織とは」


赤井

「なんでも、あの維新のゴタゴタの時に幕府の御庭番から抜け忍となった子弟達が技を受け継いで、裏の仕事の依頼で何でもやる組織ですよ。確か、奴らの頭は桐山右京とかいうやり手の忍びだと聞いています。」


会長

「そうか、抜け忍となった子弟と政府の犬となった忍びとの対決か、おもしれいじゃねいか、会ってみようか」


こうして、万世一系の天皇をいただく日本の国家体制を夢見る国粋主義の鬼山誠天(岡田誠道大尉)は、明治2.26事件の仲間の仇を討つためにプロの殺し屋集団と手を結ぶのだった。







つづく、、、、






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