第119話 忍び女子服部汐音その2
2年前の明治2.26事件が起きた1908年、春の国会では議員達は緊張感もなく、みな明るい顔をしていた。今までは統帥権をかさにして軍人が偉そうにして議事に何でも口出しをしていたが、完全に政治と軍事を切り離したことにより、軍人が政治に口を出す事はできなくなったのでる。
新しい国防大臣には立憲政友会の原敬が選ばれた、国の平和と国際協調を考えている最適な人物であった。陸軍長官は次官だった柴勝三郎中将がなり、海軍長官は元海軍大臣の斎藤実中将が、そのまま引き継いだ、そして日本版ペンタンゴンである国防省統合本部が、帝都の市ヶ谷駐屯地に新しくできた、これによって日本の少ない資材を陸海軍がいがみ合うように別々の規格で無駄に作っていた資材が同一規格となり、合理的な予算の運用ができるようになったのである。
そして陛下の為の軍隊であった理念がかわり「国民の安全を守るための防衛力を維持しつつ、国際社会における平和の維持にも貢献する」これにより、他国での紛争の際に軍を派遣することが可能となり、日本は国際的にも信頼のおける国となっていくのであった。もう一つが「大規模な自然災害などに際して国民の生命及び財産を守るため、速やかに人命救助、捜索や被災民の生活支援、被災地の復旧」が新しく軍の理念となったのである。
この大規模災害に備えての防災訓練が年に一回、各自治体で開催するように陛下の勅旨がでた、内閣で検討して西園寺首相が9月1日を全国防災の日と決めて陸軍と海軍も加わり、皇族家が持ち回りで、防災の日に限って総裁として全国の活動を首相から奏上でその報告を確認することになった。
これにより陸軍や海軍は本気になり、国の作った災害マニアルに沿って被害の確認や人名救助などから、けが人の搬送や道路や橋の復旧など、海軍は物資を船で運搬や離島での救援活動など、陸軍との共同の災害支援について研究していくことになる。
この防災の日が9月1日で議会を通過した時、西園寺首相と政務官の結城は顔を見合わせにやりと笑みを浮かべるのだった。
この防災の日に皇室が関りを持つことによって、みんな真剣になり、陛下が見ているからと、帝都の企業は活動を停止させ国鉄は列車をとめたり、住民が小学校や広い場所に事前に避難して、炊き出しをしたり、火災が発生したと、想定して町内では消火訓練も始めるのであった。それは、年を重ねるごとに内容は派手になっていき皇族が各地を視察してまわり、1923年9月1日までには帝都中だけでなく、日本中で防災に対して近隣の人達との助け合いの心がけができていたのである。
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世界中の軍で飛行機が実用的であり、その運用に関して偵察などの任務や攻撃の際の補助兵器として考えているころ、すでに日本ではカザマの航空機を軍で採用する事になり、市ヶ谷の国防省統合本部では航空兵の育成の為に、予算をつけて常磐線の茨城県土浦に、霞ケ浦帝国航空隊ができたのである。半年で航空機の操縦を覚えて、そこから選抜された技量の優秀な人物はさらに、広島の呉にある、航空基地に配属となり海軍航空兵として、航空母艦の乗務員として勤務することになった。
母艦はバルチック艦隊から捕獲された戦艦「インペラートル・ニコライ1世」がこの世界で初めての改造空母一番艦「壱岐」となり、戦艦「オリョール」は改造空母二番艦「石見」となったのである。
まだ飛行機が兵器として完成していない時代のときに、この並列座席のセスナは練習機としても最適であったが、300kgほどの重量物も運べるため胴体の下には爆弾を吊り下げる装置をつけて、小型爆弾から250kgの大型爆弾の搭載ができた、そして艦船の攻撃ように新しく開発した300kgの魚雷の搭載も可能だった。並列で一人は操縦に専念して、もう一人は何の目印もない海で機体の航法管制をして目的地まで飛ばせたり、敵地の偵察ではカメラで写真を撮ったりして、十分に使える機体であった。
戦闘機用には高翼機が低翼機となり一人の乗りの座席になり風防がスライド式で機体はシャープとなって、運動性能をあげて機銃が右左翼内に2丁づつ、合計4丁が仕込まれるようになっていたのである。
世界では弩級戦艦をつくる建艦競争がはじまっており、大艦巨砲主義の到来であったが、そんな戦艦をつくる技術や予算もない日本の海軍の重鎮たちは、この改装空母を発着して演習をする航空機と、新しい蒸気タービンエンジンに替えた香取型戦艦の戦艦・香取と戦艦・鹿島の30ノットのスピードに、シライ製の新型モーターを動力とした使った半自動の砲弾装填装置を採用した結果、以前は1分間で1発の発射速度が毎分で2.5発、つまり2分で5発の発射速度で主砲を撃つことができるようになった高速戦艦に満足して、この空母艦載機と高速戦艦による艦隊決戦の戦術を研究するようになった。
海軍の保有する他の軍艦もエンジン改装や、砲もモーターを動力として使った半自動の砲弾装填装置をつけて強力な艦船に変えていくのだった。
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全国の市町村のすべてに電気が通り、街や村の通りを明るく照らし始めた頃、帝国ラジオが出資して各県にも地元のラジオ局ができて、関西ラジオや九州ラジオ、東北ラジオに北海道ラジオが次々立ち上がり、ローカルニュースや電話回線を使って帝国ラジオの人気番組を放送していたのである。
これによって政府の大事な国民への連絡や東京の出来事、世界での出来事や事件が瞬時に日本中の国民がすぐ知る事ができるようになったのである。
特に国中の全国民が驚くような事が新年に行われる事になった。毎年元日に天皇陛下が「国民の幸せと国の発展を祈ります。」などと新年の挨拶を、レコード盤に録音したものを帝国ラジオで流したのである。
国民は正座か直立して陛下の生の声を聞いて一年がスタートできる事に喜び、ほとんどの世帯は、陛下の御声を聴くために無理してでもラジオを購入して、元日は床の間に座布団を敷いて置かれていたのである。
帝都の夜ではカラオケビヤホールが流行りだしていた、シラトリ製の業務用の冷蔵庫などが発売されてからは、冷たいビールを飲む事ができるようになり、焼き鳥やソーセージなどをつまみにして、カラオケを歌うのである。そのための小さいお立ち台のような物と、スタンド式のマイクロフォンが用意してあるのだ。職場の飲み会では歌自慢の社員がお金を払い、自慢の声を聴かせていた。
そんな流行りの店にマサオカのおごりで、尚美と玲子と服部汐音がやってきたのである。
先に来ていたマサオカ
「あれ~、そこのべっぴんさんは誰ですか~」
そばに寄ってきた汐音の顔を、鼻の下を伸ばしながら、じろじろ見て聞いてくるマサオカに尚美が答えた。
「この子は服部汐音ちゃんよ、私のSPだけど、玲子の友達よ」
玲子
「マサオカ、この汐音ちゃんに手を出し触りでもしたら、あんた汐音ちゃんの親父で服部半蔵なんちゃらに、その日のうちに暗殺されて山の中に埋められるわよ~気をつけなさいよ!」
汐音
「エ~、そんな事しませんよ~、爪をはいだり、小指を切って、ちょっと反省してもらうぐらいですよ~」
”ゲゲゲ、ヤッパリ、そな事するんか~い”と冗談で言った玲子は、ドッキリして汐音を二度見する。
マサオカ
「ふんぎゃ~、マジカ~、ところで尚美ちゃんSPってな~に」
「セキュリティポリスじゃわからないか、ん~、何だろう、ボディーガードでもないし、用心棒みたいなもんよ、汐音ちゃん椅子から立ってマサオカの前でジャンプしてごらん」
「え~またやるんですか」と言って洋装の服装に、長い綺麗な足を隠すフレアースカートの汐音が、マサオカの前で一、二回ジャンプするとガチャガチャと手裏剣やまきびしに小刀が足元に落ちてくるのである。
首を傾け下に落ちた沢山の凶器を見て、口を開けたままのマサオカは顔を上げると、汐音を見て
「おね~ちゃん・・・な、に、も、の、」と聞くと。
汐音は舌を出し笑顔で
「エヘ、忍び女子の汐音で~す、長官のお姉さまをお守りしていま~す。」と誰にならったのか未来の女子高生のように答えて・・・やたらお茶目な忍び女子だったのである。
つづく、、、、