第118話 忍び女子服部汐音
1910年4月
日帝大医学部の部長山口佐久衛門が3月末で65歳で退官した。後任は感染治療薬のペニシリンや結核治療薬のストレプトマイシンの発見で、ノーベル医学賞を二度も受賞した臨床医の上杉医師が満場一致で後継者に選ばれたのである。
そして薬学部の城島洋介先生も薬学部の教授となり、医学部の副部長も兼任して二人は日本の医療界のトップとナンバー2として君臨することになったのである。そしてその二人を育てた尚美は・・・・医療界のラスボスとして悪だくみを・・・
(誰が~悪だくみじゃ~!、違うだろう~)尚美
悪だくみではなく、「国民皆保険」そうだ国民全員が生まれた時から誰もが「保険証」を持ち、必要な時に医療サービスを受けることができる「国民健康保険」の制度、健康保険法を施行させるために二人を使っていたのである。
ただこの当時は日本の人口の6割近くは農業、林業、漁業の第一次産業での就労であり収入は安定しておらず、さらに農業人口の三人に一人は小作農で小作地料を、この当時は米の出来高の約45.5%を地主に払わなければいけなかった。小作料は依然物納であって、従って米価が値上りすれば地主の利益は増大し、米価が下れば小作料を引きあげ、小作人にしわ寄せがきていた。
こんな状態では保険料は国や自治体の負担となるため、「国民皆保険」の道はまだまだ遠かったのである。
そして第二外科の教授には、軍医医学校の高橋勝次先生が医学部に復帰して教授となっていた。その教授様を第一助手にして、尚美は今日も新しく作った医療器材を使って肺がんの手術をしていたのである。
高橋勝次教授
「サリバン先生、レントゲンで肺癌が分かるようになったのはいいんですが、切除と縫合はどうするんですか~、難しいですよ。」
すでに手術ははじまり、一人の男性の胸が開胸され肺を露出し手術が進んでいた。
尚美
「フフフフ、見ていなさいよ、」そう言って事前に用意していた器具を取り出し、肺の端にできた癌の縫合・切断する部分をアンビルフォークとカートリッジフォークで挟み、器具を組み合わせてセットが終わると、そのグリップを力強く握り、切断部を中心に両サイド2列に交互に並んだの止血用ステープルが肺組織にしっかりと打ち込まれ、その中心を今度は切れ味のよい内蔵されたナイフをスライドさせて患部を切断するのである。
すると肺の末端にできた癌組織がポロリと出血もなくきれいに切断されて胸腔内に落ちた。
その切断時間は慎重に患部に器具をセットする時間をいれても2~3分ほどで、ほとんど出血もなく肺にできた癌を切り取ったのである。
筋鈎で手術部位を広げていた、第二助手の井上清先生は「ふぎゃ~、どうして、出血しないでこんな簡単にできるんですか~」
ポロリと落ちた肺の一部だった癌の部位をピンセットでつかみ、目の前に持ちあげてじ~と見て、残った正常な肺の断端面も確認した高橋勝次教授、「ステープルが二重になってしっかり止血している、これでめんどうな縫合をしなくてもいいじゃないですか、これで一時間以上も手術時間が短縮して患者の負担が少なくなります、凄い発明ですよ~」
井上清先生
「それだけじゃないですよ~、縫合が苦手で手術件数の少ない僕でも、こんな簡単なら、誰でもサリバン先生と同じようなレベルで手術ができますよ~次の手術には私にも使わせて下さ~い」
それを聞いて「次は俺だろ~、」と叫ぶ高橋教授だった。
それはリニアカッターと未来では呼ばれる医療器材である、普通ならメスで癌組織を切ってから、その断面を糸でつなぐ手間が、リニアカッターを使えば一度にできて時間短縮ができる。肺や消化器系の手術において難しい技術がいらない、革命的な器材となったのである。
すでに日本の外科手術は世界最高水準になっていた、また結核治療薬は輸出できるほどの大量生産ができていて、ペニシリンや血圧の薬などが、いろいろな国へと輸出されていた。王子の製薬会社は社名をジャパン・ファーマ(株)にしてから売上を伸ばし、すでに医薬品では世界のトップの売り上げであった。
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カザマのレーシングコースでは2台のバイクが競いあっていた、一台は白鳥玲子が腰をかがめ赤いフルフェイスを被り豪快に運転していたがもう一台が影のように彼女の後ろをついてくるレーサーがいた。
顎の部分が開いている「オープンフェイス」のジェット型と言われる、この時代にカザマが発売しているヘルメットにゴーグルを掛け器用にバイクを操作して、玲子の後ろにつけることでスリップストリーム(気圧低下による吸引効果や空気抵抗の低減によって、通常と同じ速度をより低い出力で発揮することが可能となり、これにより生まれた動力装置の余剰出力を使っての加速が可能となる。)で余力を残しゴール手前のカーブを抜けると、残りの直線400mで、あの欧州の伝説だった”最速の赤い魔女”を抜き去ったのである。
ゴールしてからバイクを、整備場の手前で止めヘルメットとゴーグルをはずすとそこには、髪の長い切れ目の美しい女性、服部汐音 (しおね)が玲子を待っていたのである。
ゴール手前で抜かれても悔しい顔をしていない玲子も、フルフェイスのヘルメットを脱いで可愛い八重歯を出して笑いながら「汐音 (しおね)ちゃん、凄すぎるわよ~ なんでそんなに覚えるの早いの~ 車の運転もあっと言う間に覚えて今じゃ、あなたみたいにうまく運転する人なんか、このカザマにもいないわよ~、バスの運転もすぐ覚えちゃうし、バイクもまだ半年でしょ前はバランスをすぐ崩して、まともに走らせられなかったのに、何で私よりうまいのよ」
「え~、わかりませ~ん、ただ小さい頃から普通と違う生活でした、あまり人に言えませんが家が忍びの家系で、俊敏な動きや早く動くものを瞬間にとらえる視力とか、ちょっと人に言えない、いろいろな習い事をさせられていたので、体が勝手に動いてしまうんです。」
「それでも、私の後ろにピタ~とくっついてきて、スリップストリームなんてどうして知っているのよ~」
「それは、忍びの訓練で毎朝、長距離を走るときに、人の後ろで走るとあまり疲れないのを知っていたので、車やバイクでも同じでした~」
「汐音 (しおね)ちゃん長距離ってどのくらい走るのよ」
「そうですね~毎朝、5里(約20km)位を往復して2時間くらいですかね~」
”ガ~ン、、そりゃあんたオリンピックのマラソンに出れるよ~”
この時代の忍び女子の能力に驚く玲子だった。
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麻布にある寺の墓に大勢の部下を待たせて、一人の男が立っていた。その墓石には二十一士之墓と書かれていて明治2・26事件を起こした21人の若手将校が眠っていたのである。
そこで長い時間、部下を待たせて、お参りをする男は政治結社・誠天会の会長である鬼山誠天であった。
「古賀、樋口、松尾、それにみんな悪かったな~、やはりあの計画は公安警察にばれていたんだ、陛下をうまく言い含めて統制派の連中は、俺達、皇道派をつぶしやがった。
俺は自殺して死んだと思ったら、神に生かされこの体をもらったぜ、俺は西園寺とその取り巻きで公安のトップである五条政務官と家族である、その姉を始末してお前らのこの墓石の前に首を並べてやる、待っていてくれ、」
この誠天会の会長である鬼山誠天は、あの2月26日にラジオで岡田誠道大尉率いる菊月会が機動隊に包囲されているのを聞いているときに、突然の心臓発作で倒れ、病院に運ばれて最期を迎えようとしたときに、岡田誠道大尉が無念の思いで自殺をはかり、なぜか岡田大尉のその強い思いが鬼山誠天が亡くなるとその体に転生をしたのであった。
驚いたのは、鬼山誠天の家族である突然息を吹き返して鏡を見て驚く誠天に、みんな涙を流して喜んだのであった。
つづく、、、、