第115話 叛乱その2
1908年2月
九段下の料亭 菊月会の幹部が打ち合わせをしていた。
岡田誠道大尉
「くそ~、なにが国防省だ、西園寺内閣のような「君側の奸」の奴らに思いどおりにさせるものか~、ここに集まった同士が立ち上がり結束して、西洋に国を売るような奴らに「天誅」を下す事によって、天皇陛下に我々の意思を伝えるしか方法はない!」
「そうだろう、古賀」
古賀義勇大尉
「しかしだな~「天誅」はわかるが、部隊を動かして、部下の下士官や兵まで巻き添えにするのはどうかな~」
松尾伝蔵大尉
「それは違いますよ」
「彼らにもわかってもらえますよ、全軍の総司令官である大元帥の陛下から、われわれ皇軍を引き離し「君側の奸」の元で、その意向にそって命をかけるなんて、みんな納得しませんよ。」
岡田誠道大尉
「古賀、兵がなければ、武力が無ければ、この計画は不可能なんだ、西園寺首相と高橋是清大蔵大臣、それと裏切り者の陸軍大臣寺内正毅 (てらうち まさたけ)陸軍中将に「天誅」を下して、桜田門のそばの陸軍参謀本部庁舎と警視庁本部を占拠するのには兵がいる、わかってくれ」
高倉永則大尉
「古賀さん、決行あるのみですよ、4月になれば我々はもう皇軍ではなくなります。今ここで西園寺内閣をつぶして軍の意向に従う新内閣でもう一度、統帥権を復活させるんですよ、陛下もきっとそれを望んでいますよ。」
古賀義勇大尉
「ん~、、だが、失敗すれば我々は逆賊になるぞ。」
樋口誠康大尉
「絶対に失敗はせんよ、我々を支援してくれる将校はたくさんいるんだ、どれだけの仲間がこの統帥権を取り上げられて、悔しい思いをしていると思っているんだ。」
「我々が捨て石になってこの国をもう一度取り戻すんですよ。」
こうして菊月会のメンバーは、明細な計画の打ち合わせを始めるのだった。だがそれは、この部屋の天井に仕込んだシラトリエレクトロニクス(株)製の小型の特殊盗聴マイクロフォンによって、隣の部屋にいる公安の隊員によって全部筒抜けだったのである。すでに公安警察では、この料亭が菊月会の会合に使われている事を知っていて、ここの店主に金を払い協力をしてもらっていた、それによって、会合のある日は部屋に盗聴マイクロフォンを天井に仕掛けて隣の部屋で聞いていたのであった。
他にも、菊月会の少尉クラスの士官を数人、女や酒や金で「ゼロ」や「サクラ」に仕立てて内部の情報もわかり、2月26日の午前零時に部隊を率いて叛乱する計画の全容を全て5日前には知り得ていたのである。
すぐに俺は西園寺先生と警視庁の警視総監と関係者それに宮内省の役人と皇宮警察本部の長官をあつめて、この叛乱計画をもちいて陸軍内部の統帥権で不満を持っている連中のあぶり出しの計画を立てたのである。
陸軍には誰が連中とつながっているかわからないので、この件は一切知らせなかった。それに、陸軍大臣も裏では不満を持っている輩なので、内閣の一人でも犠牲になってくれれば、この政府転覆を考えている連中の罪も重くなる。悪いが連中の生け贄として連絡しなかった。
襲われる民間の新聞社やラジオ局は、みんな事前に退避してもらい、誰も残さないで彼らが突入した後にそこを警察の機動隊が包囲することにした。
首相官邸と高橋是清閣下も事前に退避してもらい、同じく突入した叛乱軍を捕まえるのである。桜田門の警視庁を占拠しに来る部隊は、警視庁の建物周囲に鉄条網と土嚢による堅固な防御陣地を敷いて、建物2階や3階から機関銃やら狙撃銃で、奴らを殲滅するつもりだ。そうすれば叛乱軍は近くの自分達が占拠した陸軍参謀本部に逃げ込んだところを包囲して、奴らの味方をする将官連中ともども反逆罪で軍から追放してやる。この計画は陛下からも事前に了解をもらった万が一のために、陛下からあるものを貸していただき、彼らに対して味方する軍の上層部をこれで抑えるつもりだった。
叛乱の決行の2日前に新潟県警と長野県警の機動隊が列車で上野駅に着き、風間交通のバスが夜間、静かに桜田門から皇居外苑に入り、皇宮警察隊と合流し陛下の警護についた。総数800名の隊員である。
他にも神奈川県と千葉県の機動隊員が合流して、帝都東京の第一機動隊から第九機動隊まで一部隊が500名に増員されていた。
それぞれに支給されている装備は、大蔵省の戦費回収特別局から昨年用意した十分な資金で戦闘服に編み上げブーツ、改良された真っ黒な防弾チョッキに、南部式短機関銃と9mmの弾丸が30発のノーマル箱型弾倉、それに予備弾倉が胸の専用ポケットに3本と腰に4本ぶら下げていた。それに狙撃銃を持った機動隊員も数人いるのである。一般の兵士よりも金をかけた重装備な部隊となっていた。
東京の機動隊の、第一から第九機動隊の旗のマークは赤い生地に白字で「誠」と書かれ端に部隊番号が書いてあり彼らが部隊旗を持って街を行進すると、「帝都の新選組」とか「明治の新選組」と言われるほど、広く市民からも親しまれた。子ども達のあこがれの職業だった。
軍人は街で小さな犯罪を犯しても、大きな顔をしている事に市民はうんざりしていたのである。
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1908年2月26日午前零時、雪が降りつける中、陸軍の兵士や青年将校達は軍帽の上から「尊皇討奸 (そんのうとうかん)」と書かれた鉢巻きを締めて、自分達の率いる将兵に 「天皇による政治を実現するためには、私利私欲に走り 悪政をしている政治家どもを討たなければならない」と檄を飛ばして、1500名の叛乱兵士は、それぞれの目標に向かって行進を始めたのである。
それぞれの連隊の営門付近で小さな軽のワゴン車から公安警察の隊員が双眼鏡で、監視していて、彼らは無線でそれぞれが本部に連絡していたのである。
「”月が出た”もう一度言う計画通り、”月が出た”」それが警視庁の本部の無線に入ってきた。すでに警視庁の周りは鉄条網が丸太と一緒に組まれており、その後ろには土嚢が、これまたぐるりと囲んでいて、第八機動隊500名に警察官300名が警視庁という要塞に立てこもり2階。3階からも狙撃銃や短機関銃に日露戦争において陸軍の主力小銃三十年式歩兵小銃を構えて、彼らが来るの待っていたのである。また皇居外苑には、新潟県と長野県の機動隊に、第九機動隊も加わり警視庁を襲いにきた部隊を後方から襲う手はずもできていた、その数は1300名が、待ち構えていたのである。
そして第一機動隊から第七機動隊もすでに配置についたのである。
叛乱軍は下記ような襲撃を計画していた。
首相官邸に叛乱軍 150名
大蔵大臣私邸 150名
陸軍大臣私邸 150名
帝国ラジオ 100名
旭新聞社 100名
東京新聞社 100名
帝都新聞社 100名
警視庁 300名
陸軍参謀本部 350名
確かにこの襲撃情報がなければ、奇襲は成功して西園寺先生が叛乱軍によって討ち取られてしまえば、この時代の歴史もまたもとの路線に戻り、軍事政権のような大正や昭和が来たかも知れなかった。しかし、そうはさせない、犠牲を払ってでも。この明治時代を変えるのだ、ここで明るい未来の道筋を作るつもりだった。
1908年2月26日午前5:30
首相官邸・・・大蔵大臣私邸 ・・・陸軍大臣私邸などに叛乱軍は一斉に突入していった。
つづく、、、、