第112話 災害対策マニアル
尚美
台風が過ぎ去った朝、関東一円での災害がわかりはじめる頃、私は日帝大医学部へ急いで向かった。すでに医学部では、政府から渡されていた災害対応マニアルにそって対策室ができあがり、あらかじめ決めてあった、派遣する看護婦と先生方が続々と集まってきたのである。私もその一人でメンバーに入っていた。
すでにラジオでは、陸軍や海軍は統帥権を持ち出し、政府の要請に応じていないので政府の各省庁が全力をあげて、支援に動いていると放送で何度も言っていた。
管轄の文部省の役人から連絡があり、カザマ交通が用意する大型エンジンをのせたボンネットを、鼻づらのように突き出している大型バスが、こちらに来るのでそれで、群馬の一番大きい避難所に医療拠点をつくる為に向かうことになったのである。
大学の附属病院の玄関前には、看護婦20名に医師が6名それに、有志医学生の10名が整列した。学長の激励の挨拶と職員が拍手する中、カザマが用意したバスに医療器材が積まれ、政府災害医療派遣隊の垂れ幕をバスのボディーに貼り付けて群馬の災害拠点施設へと向かったのである。
途中から東京警視庁の災害援助部隊と書かれた垂れ幕のバスや、東京消防隊のバスも合流して群馬へと向かったのである。
前橋の災害拠点の公民館につくとすでにケガをした大勢の住人が建物の中にいたので、さっそく隣の小学校も使い診療所の開設をして患者の治療を始めたのである。
東京警視庁や消防隊のみんなは、山沿いの集落での山くずれや土石流、地すべりなどで家ごと埋まってしまった住人の救助応援に向かったのである。
政府が作った災害マニアルには、人命救助のタイムリミット「72時間の壁」がマニアルに書いてありそれにそって、すでに近隣からも応援がはいり救助活動が始まっているのである。
午後を過ぎてから、鉄道も復旧してさらに他県からも、マニアルにそってぞくぞくと応援の消防隊や警官隊が災害現場へと向かうのであった。
軍医医学校からは高橋勝次校長が、軍の意向を無視して医学生を連れて応援に来てくれた。他にも軍の衛生兵が沢山、部隊を抜けだし群馬へと向かっているとの事だった。各部隊長達が相談して、うまく衛生兵に5日間の休暇をそれぞれ出してくれたのだ。自分たちが動けないが衛生兵なら役に立つと思ったのだろう。彼らは山沿いの各集落にむけて医療支援に向かったのである。
すぐに土砂で崩れた家から助け出され親子や、年寄りが次々に運び込まれて来るのである、憔悴しているが大きなケガもなく簡単な治療をして炊き出しをもらってほっとしていたのである。
私は夕方やっと一段落していると、一緒にきている私の小間使いの井上清先生が、「尚美先生すごいですよね~これが政府の作った災害マニアルのおかげで、みんなが何をすればいいか決まっているから、混乱もしないで次々に救助されてここに運ばれてきますよ、ラジオもず~と流れていて災害情報がよくわかり、どこに避難所ができたとか教えてくれて便利になりました。」
「僕が子供の頃は何日も誰も助けにこなくて、集落の住人だけで助けあって生きていかなければならなかったけど、こんなに早く救助隊が動けば多くの人が助かりますよ。いったい誰がこんな災害マニアルなんて思いついたのかな~」
”フフフフ、未来人よ”とは言えないが結城の関東大震災に向けての災害マニアルが全国の市町村に配られて偶然、役にたったのよ。
「ああ~疲れた、お昼も食べないでいたからお腹がすいちゃった~井上先生、あそこの炊き出しのオニギリと味噌汁持って来てよ~」
「了解しました~」と元気よく、炊き出しのオニギリと味噌汁をもらいにいくパシリの井上先生だった。
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災害からしばらくたった、ある日の宮内省
二日間も自分の裁可がないと、災害で苦しむ国民の為の救助に向かわなかった陸軍と海軍の各大臣を宮内省に呼んで、謁見の間でその理由を陛下は腹の中の怒りを押さえながら、問いただしたのである。
二人の態度は反省した様子はなくかえってきた答えはまったく同じで「我々、軍人がその使命を受けるのは陛下ただ一人です。陛下に忠誠を誓い、陛下の裁可でのみ動くのが軍人です。」そう言いきった二人、、私は”違うだろう、お前たちの軍事予算が通らないから政府に対して協力しなかったんだろ~。すなわち、軍を自分の私情で操っている事だろう~”と言葉で言いたかったが、立場を考え我慢した。
この返答で陛下は心を決めたのである、”自分達の都合が悪い時は、この統帥権を言い訳にして、これからも、こいつらはこの私の錦の御旗を言い訳にして、何をしでかすか分かったもんじゃない”、私は国民の平穏な生活を望んでいる、このような自分達の武力の保持と権力にしか頭にない連中では、国は滅びてしまうかもしれない、やはり西園寺君や五条君が言うように政府による文民統制(ぶんみんとうせい、シビリアン・コントロール)を早く進めないといけないと思っていた。
だが、慎重に動かなければ彼らの中には、私を神輿に担ぎ上げ軍事政権を立ち上げる不届きな連中もいると言っていた。うまく政府と連携してこの秋の国会で災害対策基本法と共に大日本帝国憲法第11条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」の変更を承認するつもりでいたのであった。
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福助亭エロ吉
幸子ちゃんの素晴らしい歌声にしびれてしまったおいらは、明治時代の世の中にうっかりラジオでめちゃくちゃ未来の演歌を流行らせてしまい、誰が歌っているんだという事でこの幸子ちゃんの曲という事にしてもらった。
さっそく未来のレコードの曲をこの時代の音楽家に聞かせて楽譜をつくり、尚美ちゃんや玲子ちゃんが言っている、片面に幸子ちゃんの歌と伴奏をいれて裏面に”カラオケ”という伴奏だけのレコードの原音盤を作った。尚美ちゃんや玲子ちゃんが選んだベスト10ということで、2曲入りを5枚で10曲を一気に作ったのである。
まあ~、昭和の演歌の原曲はいくらでもあるのだ、しばらくはこの10曲あれば一時間くらいのコンサートもできるだろうと言うことらしい。
さらに玲子ちゃんは演歌に飽きたら、歌謡曲やアイドル曲もあると言っていたけど、アイドルが何だかおいらは知らなかった。
さっそくおいらのラジオに出てもらい、ナエ姉さんに幸子ちゃんを紹介して用意したカラオケ盤で生声をラジオから流したら、すげ~反響で手紙やハガキがめちゃくちゃ送られてきたので、それからは、幸子ちゃんの歌のコーナーもつくり週に3回、出演料を払い歌ってもらったよ、本人もこれで仕送りが増やせると言って喜んでいた。
そんな事をしてラジオで幸子ちゃんを売り出し3ヶ月もすると安いレコードプレイヤーや別売りのマイク、夜のお店のレンタル器材の数がそろったのである
さっそく電気店で幸子ちゃんのレコードと、この安いレコードプレイヤーや別売りのマイクが発売になったのである。
ラジオでも口コミをしていたので、発売日には大勢の客がお店の前に並んでいた。それに帝国ラジオのやり手の営業マンたちが、夜のお店にも器材を紹介してまわり、どの店も客寄せになるからと置いてくれるのである。帝国ラジオではそこに幸子ちゃんのカラオケレコードもつけてレンタルを開始したのである
だんだんと東京の夜の街ではこの”カラオケ”が流行り出して女給さんが小遣いをもらって歌ったり、歌自慢の客が自慢の声を聞かせるのである。
調子にのったうちの島田三郎が”男の演歌もないのか”と言ってきので、また尚美ちゃんと玲子ちゃんが、昭和男性演歌からベスト10を選んで楽譜に落して社内の歌自慢を見つけて同じように売り出したのである。これで選曲する曲も増えたので歌詞を書いた冊子をサービスしたら、これも夜のお店で受けたのである歌詞カードを探さなくていいので、これだけ5冊くれとか10冊とか言ってきて、いまでは明治の時代の繁華街は”カラオケ”がブームとなってしまって一曲歌うのに金を取るようになったのである。
つづく、、、