第109話 「karaoke」
1907年10月
実りの秋がやってきた。東北各地の貧しい農家や国内の山間部などの、農家などは今年の収穫量に驚いた。パンパンに肥えた実がなり倍近くの収穫ができたのである。結城が技術資料を提出した近未来のドイツで発明されるはずだった、ハーバー・ボッシュ法を先に北大式アンモニア合成法として、日本が国際特許を取った化学肥料、それは鉄を主体とした触媒上で褐炭から単離された水素と大気中の窒素とを反応させて、アンモニアを合成させる方法が工業化されて大量に国内販売がはじまった。
(窒素が十分に含まれたアンモニア態窒素の化学肥料、この窒素はタンパク質の素となり、植物の根や葉や果実を大きく成長させるために、なくてはならないものである。)
国の政策で東北地方や、国内の山間部などの貧しい農家には、無償に近い価格で潤沢に供給されたのである。
これにより冬を越す十分な食料が蓄えられて、食べ物が不足して栄養不足により厳しい冬を越せずに、死亡する幼児や老人たちがいなくなったのである。
日本から大量に輸出される化学肥料は世界中を驚かせた。この化学肥料の登場は、農業生産に大きな革命をもたらしました。
それ以前の農業は、土壌の肥沃度を維持するために、自然に依存した方法が主流でしたが化学肥料の利用が急速に進められました。この取り組みにより食糧生産量は劇的に増加したのである。世界中の国からこの発明に対してライセンス料金を支払い自国での化学肥料を生産していくのである。
他にも満州での、ユダヤ人移住に関する米国のユダヤ人大富豪ヤコブ・ヘンリー・シフ氏の資金による、資材や物品の関係で満州景気がはじまり、各産業が活気づいていた。
そこで国は秋田の油田開発で生産される、自前のアスファルトを使い自動車の普及を目指して、全国の国道をアスファルトで舗装する計画を国の公共事業としてはじめた。
冬季の農家の出稼ぎ仕事としても人気がでて、貧しい農家の収入が増えたのである。それに電力事業にも国は交付金をだして、すべての市町村に電気の供給がいきわたるような政策をはじめたのだった。
これらの資金は化学肥料のライセンス料でまかなうことができたのである。これにより電気を動力として、新しい産業が立ち上がったりして国民の仕事が増え女性も労働力として収入が増えて、それが消費に回り、いろいろとお金が回り出したのである。そのことで国民の生活レベルが上がり始めて、日本の国民総生産はしだいに上がりはじめた。
そんな好景気の日本の国会で一つの法案が承認されたのである。市街地建築物法である、地震災害が世界トップクラスの日本での最初の耐震建築法の制定である。
地震学の研究者が新しく制定した、震度1~7クラスの地震の中で、この震度7でも建物が崩れないようする厳しい法律だった。また既存の建物についても今後10年以内に、このための耐震補強工事をするか取り壊しをすることになったのである。
国はこれにも補助金をつけたのである。これによって急いで今ある住宅や高層の建物の耐震性をあげる事に力をそそいいだのである。
また東京においては火災に強い都市計画が、国の音頭で始まり火災の防火帯として使える幅の広い道や、下町の長屋や住宅が密集した場所には公的資金も投じられ、道の整備や住人には少し離れた場所に、地震に強い集合住宅が作られそちら移住してもらったのだ。これにより下町にも幅の広い道路が出来て火災防火帯が広がっていくのである。
初期消火にも東京に国は予算をつけて、江戸川や墨田川、荒川に目黒川など各川沿いや支流沿いの町内には、川から水をくみ上げる消火ポンプと町内の奥まで届く連結式の耐圧ホースが配布されて、町内会の人による年2回の消防訓練が義務づけられた。他にも防火用水槽とバケツが町内の各所に設置されて普段から住民による初期火災の予防に努めていたのである。
1923年9月1日におきる関東大震災についは何も知らない、東京の住民や市政をになう役人は国のこの防災姿勢に感心してみんな積極的に協力するのである。
こうして何年も時間をかけて、着実に東京は災害に強い街づくりを進めるのであった。
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横浜の裏街通り、以前はフランス人の裏社会のボスでベルナルド・アンドレ達が、売春宿や飲み屋の経営をしていたが、日露戦争で母国フランスがロシアと同盟を組んでいたことから、仕事がやりづらくなり、尚美達が旅順にいっている間にここを売り払い、部下達やコルレオーネらシチリア島の出稼ぎ連中ともども、全員がここを引き払い母国へと帰ったのである。
そんな後にできた日本人が経営するモダンなビヤホールの店に、日本にやってきた外国の商社員はここにくるとみんなビックリするのである。
こんな場末のビヤホールにラジオとプレイヤーと呼ばれるレコード再生機が一体となって置かれており、箱型のスピーカーがその本体の両サイドの壁にコードでつながり置かれていた。
そのスピーカーからラジオではきっと人気のあるアナウンサーが、面白い事でも言っているのか、客の日本人達がビールを飲みながら笑いながら聞いていた
音声を電波に乗せて遠隔地に送る技術がある事は彼も知っていたが、それが商業的に出来上がり国民の娯楽になっている事にびっくりしたのである。
(アメリカのピッツバーグに設立されたKDKA世界で、初めて定時放送を開始したラジオ局として知られています。1920年11月2日、大統領選挙の開票速報を放送したのがその始まりと言われていた、それよりも10年以上も早い民間放送局が日本で始まっていたのである。)尚美パパ
日本語が多少わかる彼は、このラジオの人物が卑猥な事をしゃべると、もう一人の女性アナウンサーが”パシ~ン”と何かで彼を叩いているのである。そのやり取りがなんとなくわかり、カウンター席に座る彼もついビールを吹き出して笑ってしまうのである。
その放送が終わると、今度は日本人客がビールをついでいた店の女給達に金を渡して何かをお願いしていたのである。
一人の店の子がラジオのプレイヤーにレコード盤をおいて針をのせて、マイクのコードを繋ぐとスピーカーから曲が流れて、それに合わせて彼女は上手な声で歌い出したのである。それも箱型のスピーカーから音楽と歌声が重なり店中に流れるのであった。
それを見た彼は「oh my god!(オーマイゴッド)」と叫んでしまった。
すかさずカウンター越しにいたボーイに「あれは何だ!、」と聞くと、彼はよく外人にこの事を聞かれるのか、自慢げに答えた。
「karaoke」・・「This is karaoke beer Hall」 ついに「カラオケ」がデビューしたのである。
こうして日本にくる外人が、日本の技術力にたまげてしまうのである。彼らにとってすでにラジオやレコードなどの技術はすべて、欧州や米国などの白人が発明した技術だと思っていたが、日本人はそれをすでに民衆の娯楽にまで完成させていたのである。特にラジオ局には驚いた、その番組構成がすばらしかった。またそれを楽しむためのレコードとラジオの技術を一つにする発想に驚いたのである。
これを見た外国人によって「karaoke」は世界中のトレンドになったのである。
つづく、、、、




