第106話 南部式短機関銃
一年ほど前に、日露戦争も終わりポーツマス条約に沿って奉天や長春などの治安維持の為の部隊や旅順や大連の駐屯部隊をのぞいて、陸軍の兵士が日本各地の本拠地へと戻ってきた。東京の第一師団の乃木少尉もその一人だった。
陸軍では、この戦いでの戦闘分析を参謀本部において検討されていた。とくに参謀本部が注力したのは、ロシア軍との塹壕戦についての検証だった。機関銃・鉄条網・塹壕を組み合わせて堅固な防御力を示した塹壕陣地は、野砲による砲撃でも容易には破壊できず。
陣地を防衛する機関銃による弾幕射撃の効果は、歩兵にとって巨大な脅威であり人海戦術による攻撃は効果をもたらさず、いたずらに膨大な犠牲だけが生じるようになった。
そのため戦闘は膠着状態に陥って長期化し、歩兵に機関銃陣地を制圧する能力を与えるべく手榴弾といった近接兵器を使った攻撃も効果は限定的だった。
他にも塹壕陣地の制圧には歩兵による白兵戦が不可欠だったが、そのための手段は銃剣やスコップといった中世と大差ない武器しか存在しなかった。
この塹壕戦についての戦術を考察するために203高地での戦いで、一番の被害を受けた第一師団第二連隊の真田中佐が選ばれ戦闘に参加した各士官から意見を聞いていたのである。
真田中佐
”やはり、ほとんどの意見は防弾装備とヘルメット、それに手榴弾がこの塹壕戦では役にたったとなるのか、、”
ここに来ている、あの戦場を経験した士官は、みんな体のどこかに敵の弾を受けていた。史実では戦死してもおかしくない状況でこの防弾装備とヘルメットで助かった士官はみんな同じ意見だった。
「ほかに今回の203高地での塹壕戦で、なにか意見はないか遠慮はするな、」
私はこれらの防弾装備でなく、あらたな兵器について意見がないかと思い聞いてみた。
「ハイ、意見させてもらいます。」
そう言ってこの師団で有名な、乃木大将の長男である乃木勝典少尉が手を上げていた。
私は彼を指名して話をきいた。
「塹壕戦において飛び込んでいく兵士は瞬時に敵兵と対峙します。小銃の弾を装填する操作をしている暇もなく、銃剣での白兵戦となり、体の小さい我々東洋人では非常に不利な状況もありますが、わたくしが使っていたこの南部式大型拳銃は自動拳銃で、引き金を引けば弾がある限り連発できます。このような自動で弾を連発で撃て、さらに口径が9mmとか10mmの大きい弾であれば敵兵もダメージが大きく反撃できません。拳銃弾を連発で撃てる、小型軽量で兵士が持ち運びできる機関銃のようなものがあれば塹壕戦では有利となります。」
それを聞いていた他の士官達も身に覚えがあるのだろう、皆がうなづき拍手をする士官もいた。
私もそれを聞いて、確かに機関銃と言えば固定陣地に備えつけて動かす事など考えた重量ではない、それを軽量にして兵士が突撃の際に、いや守備でも攻めてくる敵に対して弾幕を張れる、これはいい案だと思った。さっそくこの案はロシア戦を検証していた参謀本部へと伝えられ開発することになったのである
塹壕戦についての意見を聞いてから、一年以上がたった、1907年5月
千葉県習志野演習場
塹壕戦を想定した戦術演習が行われていた。近くには陸軍兵器開発部の責任者の真田中佐と短機関銃の開発者、南部麒次郎技官、それに陸軍の重鎮達がテントの下で双眼鏡を片手にしてこの演習を見ていた。
突撃壕に配置された実演部隊は100mほど離れた敵の塹壕、そこに丸太で組まれ土嚢で補強された機関銃座に敵兵を模した標的、それに塹壕内にも標的がたくさん置かれていた。
最初に部隊に装備された2.5倍の照準器を付けた、新型の狙撃銃をつかって機関銃座の敵兵の標的を正確に倒していた。
そのあと今度は40mmの口径で単発の中折式の擲弾発射器が、「ポ~ン、ポ~ン、ポ~ン」と何発も煙幕弾を敵の塹壕前を狙って撃ちだした、弾が落ちるとクルクル回りながら白煙を吹き出し視界をさえぎった。
それに合わせて防弾装備とヘルメットをかぶり、短機関銃をもった小隊が敵陣に向かって走りより、手榴弾をなげて機銃弾の弾幕を張ると、間隙をぬって敵塹壕に飛び込んでいくのである。敵兵を模した標的には着弾でボロボロになっていた。
そうだ陸軍は南部式自動拳銃を作った南部麒次郎技官に下記の性能の短機関銃の開発を指示していたのだった。
本体重量2,000g以下、9mm南部弾の使用、装弾数30発以上、発射速度500ないし600発/分、単発/連発/安全装置の設置、距離500mの防寒服を着た兵士を殺傷できる能力
この軍の仕様書に合わせて、何度かの試作でついに要求に応じた南部式短機関銃ができたのである。形状は小銃同様の木製銃床を備えており、銃身には全体を覆う放熱筒が取り付けられていた。
この放熱筒後方にボルトとリコイル・スプリングを収納する機関部が設置されていて作動方式はブローバック方式、弾倉は左から水平に差し込まれる少しカーブした40発入りの箱型弾倉と、銃の先端には銃剣の着剣装置が付いているなどしていた。
この軽量の南部式短機関銃と狙撃銃、それに40mm口径の擲弾発射器と言う新兵器を装備して、塹壕戦の膠着を打破するべく日本陸軍は新しい塹壕戦の戦術を確立したのである。
これを視察した陸軍の重鎮達は、この結果に満足してこの新兵器を装備した新部隊の編成を了解したのである。
この浸透戦術を専門に行う部隊として突撃隊が生まれ、その部隊を陸戦特攻隊と呼び勇敢で知力のある選別された特殊兵科となっていくのである。
時代が変わるとこの部隊は陸軍特殊部隊”旭”と呼ばれる最強の特殊兵団になるのであった。
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東京の街ではあちらこちらから、未来人がいたならば聞き覚えのある歌を人々が口ずさんでいた。酒場では歌の上手い女将さんが、覚えたてのアカペラで「♫お酒~ぬるめ(^^♪~の ~~がいい♫」とか「♫上~発~の夜~(^^♪~~降り~と~きか~ら」他にも「(^^♪~雨々~れふ~れ ~(^^♪~とふれ~」などと夜の酒場で歌っては大人気となっていた。
帝国ラジオでDJをやっている、あの福助亭エロ吉もといマサオカが、尚美ちゃんに泣きついてお父さんのコレクション棚から、昭和のヒット演歌から結核療養中に聞いた中で自分の気に入った曲を、ラジオ局に新しく入った蓄音機で何度も流したのである。
食べていくだけがやっとの世界から、少しずつ娯楽に時間やお金を使えるようになり、この新しい演歌という音楽は明治の人達の心をがっしりと掴んだ。
夜9時になりラジオからいつものお囃子が流れ”♫~チャンチャ~ラチャン~♪~♫~「こんばんは~、福助亭エロ吉と、小島ナエの、夜の月見トーク」
「おい、エロ吉、世間じゃあんたが何度もラジオで流した演歌とやらが、大人気だよ見てみなよこの手紙の山、ぜ~ぶまたかけてくれ~て自分の好きな曲が書いてあるよ、あたいらの、人生相談なんか、何処にあるんだい、」
「うん、質問がきているよ、なになに”ツガルの海峡の冬の景色を歌っている女性の名前を教えてください”だって、エロ吉教えてあげなよ、」
「ふん、そなもん、知らね~よ!、歌のうめ~。未来人だよ、、」
”パシ~ン”とハリセンでエロ吉の頭を叩く小島ナエ
「そんなわけ~ないでしょ~よ、もっとましな言い訳しなさいよ、」
”なんて言えばいいんだよ、そんもん知るわけねえだろう~ナエね~さんも気がつけよ~”と片目を何度もつぶり合図するエロ吉、
そこへラジオ局のスタッフが慌てた様子で一枚のニュース原稿が小島ナエに渡された、それを読んだ小島ナエの顔色が変わった、突然マイクに向かってニュースをまじめに読む小島ナエにかわったのである。
「番組の途中ですが、臨時ニュースを申し上げます。もう一度いいます。番組の途中ですが、臨時ニュースを申し上げます。」
「立憲政友会の初代総理大臣の伊藤 博文閣下が、自宅前で暴漢に襲われ亡くなりました。 もう一度申し上げます。立憲政友会の初代総理大臣の伊藤 博文閣下が、自宅前で暴漢に襲われ亡くなりました。」
史実では1909年 10月26日満州のハルピンで大韓帝国 の安重根 による暗殺事件で死亡するはずだったが政治結社・誠天会の構成員によって帰宅したところを襲われ刺殺されたのである。
つづく、、、、