第105話 「ドレッドノート」
1907年4月
九段下の料亭 軍の反長州、反薩摩派・菊月会と政治結社・誠天会との密談
九段下の料亭に、政府が進めている方針に強い怒りを感じている二つの組織が会合をもった。鬼山誠天会長が率いる愛国者団体・誠天会と反長州・反薩摩派の過激な思想を持った軍の内部団体・菊月会
鬼山誠天(誠天会会長)
「岡田さんよ、いったいいつから陸軍は腰抜けになったんだよ~、満州はこの国のものじゃねえ~のかよ、あれだけの日本人の血を流して露助から奪い取ったのによ、なんでぇ~、白人やろうに大事な満鉄を売りやがるんだ、どうなっているんだよ、」
岡田誠道大尉(菊月会 幹部)
「政府は金がないとか言っていたが、これもそれも与党、立憲政友会の腰抜け達が下手な交渉しやがって、ロシアとの交渉で賠償金はもらえなかったからだろう、ロシアが払わなければ戦争を続けて奴らを満州から追い出せばよかったんだが、中途半端に妥協しやがって、陸軍の幹部たちも今回の件ではみんなびっくりしている。」
「それで、岡田さんは政府の奴らに一発かましてやらね~のかよ、」
「それはできないな、一部の将官クラスとくに乃木大将や児玉参謀長は戦争の終結を喜んでいるし、政府のやることについては了承しているからな、彼らを敵にまわせば国民は支持しないぜ、なんていたって大国のロシアを破った英雄だからな~」
「チェッ、、何が英雄だよ、奉天であそこまでロシアを追い詰めて最後の詰めが甘いから敵の本体を取り逃がして、追いかけもしないで守りに入るのが英雄かよ、」
「ポーツマス条約の不平等で賠償金をもらえなかった政府に対して街頭演説や右翼系の新聞で、あれだけ叩いたのに国民はのってこね~しよ、どうなってだ~」
「確かに、このロシアとの講和条約を結ぶ為に政府の誰かが米国に満鉄を差し出し取引した奴がいると言う噂があるが、きっとこいつが裏でシナリオを書いてるかもしれない。」
「岡田さんよ~、そんなわけのわからん奴よりも、日本の利権を白人に売りやがった立憲政友会の大物に国民の思いを「天誅」で教えてやるよ~、俺達の信条は「皇室を尊敬すべし」「日本国を愛重すべし」「人民の権利を固守すべし」日本人の大勢の血を流して得た利権を、白人に売り渡す政府の連中に本気で教えてやるぜ、見てなよ、まずは、腰抜け政府の重鎮を、血祭りにしてやる。」
こうして南満州鉄道の経営権を、米国の鉄道王ハリマン氏に委ねたことで歴史の流れは大きく変わろうとしていた。
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結城
俺は西園寺先生から相談を受けていた。大震災の被害軽減になるための耐震構造に詳しい建築の専門家について調べていたら、日帝大の建築学科にいる佐野利器と言う人物を見つけた、彼は芸術としての建築より、工学としての建築、とくに耐震工学に重きを置き、日本の構造学の発展に貢献した人物だった。
この頃、日本では頻繁に大きな地震が発生しており、1885年には「三陸地震」1891年には「濃尾地震」が発生していて、特に濃尾地震はマグニチュード8.0と
される大地震で、多くの建物が倒壊し、死者7,000人以上という甚大な被害をもたらした。
建築構造学者である彼は。耐震建築であれば被害を少なくす事ができたと、時間をかけて建築法規の制定運動を起こし、この先の未来で都市計画法と市街地建築物法(建築基準法の前身)の制定に貢献した人物だという事がわかった。
この人しかいないと思った俺はさっそく彼に会いにいき、政府が進めようとしている耐震構造を含めた建築基準の法律制定のメンバーに入ってもらう事になったのである。
そして東京の街づくりも含めて震災に強い都市にする為の、プロジェックトがはじまったのである。
震災対策にどうにか目途をつけていたら、今度は海軍から面倒な話が舞い込んできたと西園寺先生から相談を受けたのである。
1906年イギリスのポーツマス造船所で一隻の戦艦が進水した。艦名は「ドレッドノート」弩級戦艦の誕生だった。
「ドレッドノート」“Dreadnought”は『Dread:恐怖、不安』『Nought:ゼロ』の合成語であり、「勇敢な」「恐れを知らない」「恐怖心が無い」を意味する。本艦がそれまでの戦艦に比べ格段に強力だった為「(非常に)強力である」を意味するようにもなる。
中間砲・副砲を装着せず単一口径の連装主砲塔5基を搭載して、当時の戦艦の概念を一変させた革新的な艦であった。これにより片舷火力で最大4基8門の砲が使用可能となり「本艦1隻で従来艦2隻分」の戦力に相当し、さらに艦橋に設置した射撃方位盤で統一して照準することで命中率が飛躍的に向上、長距離砲の命中率はそれ以上であった。
また英国や他国の従来の戦艦の速力がレシプロ機関で18ノット(33km/h)程度なのに対し、蒸気タービン機関の搭載により21ノット(39km/h)の高速航行が可能であった。従来の戦艦より高速であったことは、海戦において重要な「距離の支配権」を握れるということを意味した。
この艦は敵艦との間合いを常に自艦にとって最も有利な砲戦距離に保つことができ、不利であれば逃げることも可能であったが、在来戦艦側は不利であってもこの艦からは逃げられずに殲滅される確率が高かった。
ドレッドノートの登場は、近代軍艦としての戦艦の設計に革新的な影響をもたらし弩級戦艦は世界中に建艦競争を引き起こしたのである。
日本海軍は弩級戦艦が無い為に新たに作る必要があった。 まず、同盟関係にあったイギリスの造船会社ヴィッカース社での建造が検討された。 日本とヴィッカース社は戦艦「三笠」を建造した関係がある。 しかし、イギリス政府が日本への弩級戦艦のような最新兵器の技術提供を禁じた事でヴィッカース社での建造は無理である事がわかった。 日本海軍は国産で最初の弩級戦艦を作る事になった海軍省がこの予算について政府に打診してきた、国の予算がない中で軍事費を減らそうと考えていた、政府は困ってしまったのである。
そうだろう~、技術が進歩するたびに前の兵器が古くなるんだから、新造艦であれだけ日本海海戦で活躍した戦艦「三笠」も、3~4年しかたってないのに動力はレシプロ機関で18ノット(33km/h)程度しかない主砲も2基4門だよ、副砲がいっぱいあっても射程外から弩級戦艦は一方的に攻撃できるわけだ、こんな世界の建艦競争につきあえるほど日本は金がある大国じゃない
それに戦艦三笠の主砲、口径12in (30.5cm)を含む、口径が30cmを超える大口径砲を作る技術がなかったのである。
銃砲身は高圧の燃焼ガスが通過するため、高耐熱性・高強度・高靭性を備えた特殊鋼が使われる。
口径の小さな砲の場合はムクの特殊鋼に穴をあけるだけでよかったが、口径が大きくなり、使用する装薬(火薬)の量が増大するにつれ、普通の方法では砲身が裂けてしまうようになった。
そこで考えられたのが、張力の大きい、ガン・ワイヤを巻く方法である。もちろん米、英、独などの先進国は、みなやっていたことだ、その技術を日本はまだ持っていなかったのでアームストロング社の砲を輸入して使用していたのである。
ミリオタの俺はこれはチャンスだと思った。砲の問題はエザキスチール(株)で解決できる、それに英国の物より数段いい、高速蒸気タービンについてはすでにカザマで研究している。おそらく30ノット(55km/h)はだせる動力になるはずだ。そして、この日本海軍に作りたいのは高速戦艦と、口径が小さくても速射できる主砲、それとこの時代にでも作れる軽空母だ。
そのために海軍技術研究所の所長である古賀義勇少将を政府の代表として訪ねるつもりだ、彼の副官には平賀譲技術将校が艦艇設計に従事していた。かれは史実では超弩級戦艦「大和」を設計する人物だった。
つづく、、、、