第102話 帝国ラジオ放送局
1906年10月
東京の夜の大通りは久しぶりの提灯行列でにぎわっていた。日帝大医学部の上杉教授と薬物学の城島助教授コンビが2度目のノーベル医学賞を受賞したのである。
結核は人類の歴史上、最悪の死病であった。それがストレプトマイシンの発見からその考えは劇的に変化し、結核は治る病気へとなったのである。
この受賞に世界は驚いた。1902年にペニシリンという抗生物質の発見は、細菌感染症の治療が可能になり、世界中で多くの命がこの二人の日本人によって助かった。
それから4年後、今度は誰もが死病と思っていた結核が治療できるのである。それに日本では昨年からこの結核で死亡する患者が一気に激減したのである。とある小説家の無駄口が新聞の記事になり、それからは全国の患者を救う為に医学部が全力を挙げて、患者の容態を調査して薬の配布を進めた事で効率よく患者の命を救ったのである。
治療効果はよほど状態が悪くなければ100%の効果があった。医学全体では、まだドイツや英国などの欧州は進んでいたが
このような大事な分野では想像もつかない薬を日本は発見してくるのであった医学の世界ではもう、日本人を黄色いサルなどと言って差別する人間はいなくなったのである。
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「ああ、あー、聴こえますか。ああ、あー、聴こえますか。JOTH、JOTH、こちらは帝国ラジオ放送局であります。……」
日本で初めてのラジオ放送、女性アナウンサーの小島ナエがそのよく通る声で第一声を電波塔から発信していた。
1906年10月東京の愛宕山に日本で初めてのラジオ局ができた。コンクリート造りの立派な放送局で屋上には15m程の電波塔が立っていた、建物の中にはデカい放送部屋やニュースなどを読む小部屋まで放送スタジオはいくつも用意された立派な設備が整っていた。ついに白鳥社長が完成させた電気信号増幅器である真空管技術で強力な電波放送が可能になったのである。
このラジオ局の開局には政府もどうしたらいいのか、確認してもわからないだろうから、勝手に作った開局届けの書類を郵便、通信、運輸を管轄する逓信省に届けて受け取ってもらった。
西園寺先生はこれが情報革命になる事は知っているので、他の政治家にも口添えして騒ぎにならないように民間の放送局がどのように活用されるのか政府は黙って様子を見ていた。
俺はすでに政府の要職に就く人や逓信省の重要な人物には事前に最高級のラジオを袖の下で自宅に持っていきプレゼントしておいた。
来年からの正式放送スタートを目指して、2ヵ月の試験放送が始まったのである、東京の大きな新聞社にも少し歯抜けになった試験放送の番組表をのせて告知も始めた。
放送局を運営するにはニュースはあたり前だが放送で国民が喜ぶ娯楽を提供するなどいろいろなアイデアを考えてくれるプロデューサー、企画の立案を行いスケジュールの管理や関係者との交渉など器用な人材が必要だった。
そんなラジオ局の人材について、自宅に遊びにきてた正岡先生に話したら自分の小説担当の島田三郎さんを紹介してくれた。会って見ると年も近くなかなか気が付く人で新聞社にいたので東京の芸能関係にも知り合いが多くスポーツ関係にも明るかった。当然、社会情勢についてもニュースの原稿にまとめる実力もある。
俺はすっかり気に入ってラジオ会社を作るので協力してほしいと頼みこんだ。ラジオによって日本はどう変わるかを簡単に説明すると
彼は興奮した様子で「そりゃ~おもしろそうだ、みんなが喜ぶ内容を考えてやってみたいぜ~、」そう言って新聞社を辞めて、この仕事を引き受けてくれたのである。
島田さんは、たくさんの知り合いの中から、しゃべりがうまく声がとおる小島ナエという人生経験が豊富な、水商売から足を洗った女性をアナウンサーに抜擢したり他にも有能な遊び心がある人材を集めてきて、帝国ラジオを立ち上げたのである
まだ試験放送で朝の定時のラジオ体操 朝、昼、夜のニュース番組、大きな事件があれば臨時ニュース、それに落語や放送劇に人気小説の朗読、あとはラジオを「聴く人」はリスナーと呼ぶことを説明して、リスナー参加型でハガキで近所の面白い話とか人生相談に恋の悩み事を書いて送ってもらい、女性アナウンサーの小島ナエさんが、そのハガキを読んだりアドバイスしたりして番組を盛り上げる提案をしてあげた。
ラジオ放送が娯楽から生活情報・経済情報と、放送開始からさまざまな場面で利用されていくことを、ここのみんなは確信していたのである。
まあ、ともかくラジオ放送の夜明けである。リスナーが喜ぶなら何でも試してくださいとお願いした。
受信機であるラジオは真空管を仕込んでよく聞こえるものを安価にして、普通のサラーリマンが気軽に買える価格にした。当然見た目を高級にした高額品もある。それと電源がいらないが音が小さい最も簡易である一人用鉱石ラジオも販売することにした。
あとは町内会や商店街などにお願いして街頭ラジオの計画も進めていたのである。そんな事で魅力あるラジオの普及と、この電波を使った媒体への企業や製品のCMの稼ぎで黒字を目指す事にした。
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尚美
私は北樺太が厳冬期に入る前に、最後の補給船に乗せてもらい東京に戻る事になった。シュマリちゃんも途中の函館で下船する。
集落のアイヌ人達が大勢見送りにきてくれて「スイ・ウ・ヌカラ・アンロ(さようなら)、、カムイ・ナオミ」を皆が口々に叫んでいた、なんとなく別れの挨拶だと思っておもいっきり手を振ったらみんなも手を振てくれた。わずかな期間だったが、最後はみんなが私を慕ってくれて、いろいろな物を持ってきてくれた。キタキツネの毛皮は玲子へのお土産にした。
こうして私は家に帰ってきたのである、
「ただいま~、、ああ~、疲れた。」
「尚美ちゃ~ん、お帰りなさ~い、、お疲れ~」
「エ~、なんでマサオカが家にいるだよ~。」
「エヘヘ、、隣に越してきたんだよ~」
荷物をおろしてソファーくつろぐ尚美、幸子ちゃんがお茶を持ってきてテーブルの上に置いた。
「んだ、前から隣で工事ば~してたんだ、」と答える幸子ちゃん
「エ~、あの、住宅工事はマサオカの家だったの、」
「んだ、、おらの家だ、」(幸子ちゃんのマネをする正岡)
「どうして、あんたが隣に越してくるのよ金があるんだったら、山の手にある玲子の家の隣にでも建てなよ、玲子気に入っているんでしょ!」
「んだども、玲子ちゃん、おらの事、好いてねえべ~、ここなら、漫画があるべ~、」(まだマネをする正岡)
「おらのマネすんな~」と正岡の頭をお盆で叩く幸子ちゃん
「いててて、、ごめんね~幸子ちゃん、、」
「いや~、凄いんだよ欧米であれが人気でちゃってさ~、今度は結城君のラジオ劇でもこれをやるからよろしくって言われたよ、」
「バカじゃないの~、よろしくもくそもないわよ、あんたのはパクリでしょ」
「んだ!・・」
このラジオ劇は”海賊王物語”というタイトルで流された、まるでホントのような波の音や剣が交される効果音が作られ、キャラクターに応じた声優という仕事が初めて日本で誕生したのである、小説の世界がまるで目の前にあるような放送で、子ども達は始まる時間になると、眼を輝かせわくわくしながら街頭ラジオの前や、自宅にラジオを置いている友だちの家に集まって聞くので、その放送時間になると街から子供たちの遊ぶ声が無くなる現象を起こしたのである
子どもからねだられてラジオがどんどん普及していくのであった。
つづく、、、