第101話 南満州鉄道(満鉄)
1906年10月
結城
アメリカ人で初めてのノーベル賞を、セオドア・ルーズベルト大統領が受賞した。もちろん日露戦争の終結の為に、熱心に仲介をしてポーツマス講和条約を両国が結んだ功績によるものだ。
だがアメリカ政府は大統領も含めて、日本政府があの時の約束を守り講和を成功させたときに”ノーベル平和賞の受賞ができるように推薦状とその意見書を必ず出させていただきます。”と言う約束が守られたと思って物凄く感謝していた
つまり日本政府の後押しでこのノーベル賞を受賞したと思っているのである。
わざわざセオドア・ルーズベルト大統領から直筆の礼状がくるほどだった。
まあ、何もしなくても受賞することを俺は知っていたけど、一応は約束通り推薦状とその意見書はノーベル財団に出していた。その写しもアメリカ政府には渡していたのである。ただノーベル財団に大使が書類を届けただけで、何の政治工作もしていない、ノーベル財団でそれを読んだのかすらわかってないのだ誰も確認もしていないし関係者は忘れていたのである。
セオドア・ルーズベルト大統領から直筆の礼状がきて、初めて”そんな事もあったな~”と思い出していたのであった。
日本が平和ノーベル賞への大統領推薦でアメリカ人で初めてのノーベル賞をもらえた、そのエピソードが米国の新聞にのり、日本とアメリカとの関係は思っていた以上によくなった。
大蔵省の戦費回収特別局で記念切手やら戦地巡礼などでも、アメリカ人は感謝をして記念切手シートを大量に買ってくれたり、富豪達が戦地巡礼で旅順に観光できて金を使ってくれたので戦費回収特別局の査定が大幅に変わったのである。
そして1776年7月4日、大陸会議によってフィラデルフィアで採択されたアメリカ独立宣言から130年、国際社会での発言力が欧州中心であったが、ルーズベルト大統領のポーツマス講和の仲介と、ノーベル平和賞は国際社会における「アメリカの発言力時代」への第一歩となったのである。
樺太に米国海軍基地の設営を認めると言う約束では、南樺太のすでに日本海軍の基地がある大泊港に軍港を作る事になったのである。今の日米間の友好関係として日本の海軍基地と米国の海軍基地が隣り合わせにできるのである。軍港の建設の為に北海道や東北から多くの出稼ぎがこの大泊に集まり活気に満ちた街へと発展するのだった。
大連から長春までの南満州鉄道については、米国の鉄道王と呼ばれたエドワード・ヘンリー・ハリマンが訪日してきた。この利権についての準備交渉は大蔵省の戦費回収特別局が任され、ここで大まかな交渉条件が決まる事になったのである。
こんな大事な交渉をしたことがない戦費回収特別局、栗田真之助局長は助っ人に俺を呼び出し「五条く~ん、手伝ってよ~英語得意でしょ、それに聞きましたよ、あのポーツマス条約の時に米国とこの件で裏交渉したんでしょ、ハリマン氏との打ち合わせも景気のいい条件で決めて下さいよ。」
まあ、この人にはこのような大事な交渉は無理だろうと、西園寺先生からも政務官として交渉の席に出るように言われていたのである。
当日、大蔵省の会議室に米国のユニオンパシフィック鉄道・サザン・パシフィック鉄道の社長であるハリマン氏とその部下がやってきた。
お互いの紹介が終わるとさっそく遼東半島の大連・奉天・長春(新京)までの約700kmの南満州鉄道の経営についての条件の打ち合わせが始まった。
100%の経営権と沿線の開発権を打診してきたが全く話にならない金額だった。奉天や長春の都市開発についてはユダヤ人大富豪ヤコブ・ヘンリー・シフ氏と別件で金を引き出すつもりなので、”国際都市大連の一部地域の開発権と、この700kmの南満州鉄道の経営権51%である。それと建設資材やレール用の鉄鋼も機関車も客車も日本製”が条件だと言った。ただしその機関車や客車の設計は米国にまかせるとしたのである。
ハリマン氏
「それは、厳しいですね、わが社のメリットは何がありますか、」
「この南満州鉄道の経営方針はそちらで決められる。その為の51%の持ち株があるでしょう、それに沿線の撫順炭鉱の経営権もこれで関わろうとしたのではありませんか。」
「さすがにハリマン氏の条件では日本政府は納得しませんよ、兵士が血を流してロシアから奪いとった土地ですからね、」
「それに、奉天や長春での都市開発はヤコブ・ヘンリー・シフ氏と契約を結ぶつもりですので。」
「え~、、あのユダヤ人大富豪もこの満州に関わるんですか、」
「そうですね、おそらく欧州のロスチャイルド家といっしょになって参加してくれると思いますよ」
俺はこちらの手の内を見せた。そしてとどめには
「米国政府との約束はこの南満州鉄道の共同経営という事でハリマン氏と必ず成約しなくても約束を破った事にはなりません、他にも鉄道経営に関心がある米国企業はあるでしょうからこの条件で公募してもいいんですけど。」
そうだこのハリマン氏が最初に来たのは米国政府との蜜月があるからだ、こちらはそんな事は関係ない
それにこの鉄道王には一つの夢が胸の奥に秘められていた。
それはアメリカ大陸を自分の鉄道会社で横断して、太平洋はすでに用意されているパシフィックメール汽船会社の船で乗り越え、まず日本に立ち寄り、さらに満州にわたって満鉄をその手中に収め、ついでシベリア鉄道を全部、手に入れその上ヨーロッパのどこかの鉄道会社を買収して、しかるのち自分の船に乗って大西洋を横断、再び祖国アメリカに戻るという、実に雄大なる夢を見ていたのであった。
彼は腕を組み考え事をしていたが、やはりこの壮大な夢のためにはこのチャンスをものにしなければいけなかった。
彼は立ち上がり右手を伸ばし、こちらの条件で決めてくれたのである。我々も立ち上がりこの、”国際都市大連の一部地域の開発権とこの700kmの南満州鉄道の経営権51%と、建設資材やレール用の鉄鋼も機関車も客車も日本製”という条件で参入することになったのである。
後日、日本政府との正式な契約を交わして政府が100%出資する国有鉄道(国鉄)が共同経営(49%)という事になったので向こうが指示する図面に沿った
機関車や客車それに大量のレールが、これから国鉄に発注される事になったのである。
それと莫大な南満州鉄道の契約料が大蔵省の戦費回収特別局に振り込まれてきたのであった。
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1906年11月
ついに米国のユダヤ人大富豪ヤコブ・ヘンリー・シフ氏から連絡が入ってきた
欧州のロスチャイルド家が資金援助して、東欧から迫害を受けているユダヤ人約5万人の渡航費用を準備して移住をさせたいので、受入れ準備をしてほしいと言ってきたのである。
住宅から食料を生産する農地、インフラの整備までの支援を日本政府にお願いしてきたのである。そのために必要な資金はすべて用意するという内容だった
国内の景気は日露戦争の間は戦争特需で金がまわりどこも景気は良かった。しかし戦争も終わり、日本経済は不況に見舞われ徴兵されていた兵士も除隊して戻ってきても仕事にあぶれていたのである。
そこへ新たに生まれたのが、この満州景気である。日本政府は小躍りして喜んだ奉天と長春を中心にして、その近郊に大掛かりな集団住宅街の建設の為に仕事にあぶれた元兵士を雇い高給で送りこんだり、寒冷地に向いた小麦やジャガイモなどの栽培に適した農場の整地や建築資材にナベ、釜など国内の関係する産業にこの大富豪の潤沢な資金がまわっていったのである。
こうして史実では日露戦争が終了したあと、1907年に戦後恐慌が起きるはずだったが、満州鉄道の資材準備にこのユダヤ人大富豪の資金が日本経済を活気づけたのである。
つづく、、、