第13話 あいつが来る
叔父の淹れる珈琲の香りが部屋に漂ってくる。ビジホでもちゃんとしたドリップコーヒーが置いてあるようだ。
『光。亮市兄ちゃんのこと、好き?』
『にいちゃ? 大好き! みーちゃんの次に好きっ』
並べた布団の向こう側で、美花が顔を顰める。僕は自分がなにか不都合なことを言ったのかと不安になった。
『あいつ、そんないい奴じゃないよ。いい、二人きりになっちゃだめだよ。アイス買ってもらってもだよ』
『ママ、ママ、どこ?』
『どうした、光。ママはすぐ戻ってくるよ』
『にいちゃ。にいちゃがみーちゃんを連れて行ったの? どこ連れてったの? 早く返してっ』
『なに言うとんのや。そんなわけないだろ』
『だって……みーちゃんが、あいつが来るって……』
『あいつ? アホなこと言うな。俺が夜中に光や美花のとこ行くわけないやろ。それは俺じゃない。そんな出鱈目、絶対誰にも言うな。わかったなっ』
見たこともない恐ろしい形相で、亮市兄ちゃんは僕を睨みつけた。掴まれた腕が痛い。泣くことが出来ないくらい怖かった。
『う……うん。じゃあ、ママはみーちゃんのところに行ったの?』
『いや、そうじゃない……。それより、光。あの夜、本当に寝てたんか? なんか見たんやないか?』
「ほら、珈琲。光? どうしたん、ぼんやりして」
僕が取り戻した記憶の最新版。僕は美花が殺されたなんてわかってなかった。すぐに帰ってくると思ってた。
母の実家で亮市叔父に会った時、美花の言葉を思い出したんだ。だから、美花が叔父と一緒にいるのではと思った。
だが、亮市叔父は鬼の形相でそれを打ち消した。叔父が僕に詰め寄ったのは、僕が何かを見たのではと恐れたからだ。
3歳の僕は、初めて叔父を恐ろしいと思った。あの夜のことは、誰にも言ってはならないと思ってしまった。
叔父の脅しは効果てきめんだった。僕は美花が『あいつが来る』と言ったことを誰にも言えず、美花の記憶とともに葬ってしまった。
「あ、いや。なんでもない」
僕は慌てて首を振る。
「それで、叔父さん、話ってなに? 美花のことでって。先生にも聞かれたくないことだから、なにか個人的なことかな」
僕はまだ、しらを切って友好的な態度を取った。亮市叔父は僕の前で口角をあげ、ゆっくりと珈琲を飲む。
「らしくないなあ、光。おまえは小さい頃から、素直な奴やったやないか」
残念そうに頭を横に振りながら、カチャンとカップの音をさせた。『ここの珈琲、ビジホにしてはイケるな』と一言こぼした。
――――そう言えば、なんだか喉が渇いた。緊張してるのか。
僕もひとくち口に含んだ。確かに薫り高い珈琲だ。
「今でも素直だよ、叔父さん」
「じゃあ、俺の話はわかるやろ? おまえ、なにを思い出して、なにを親戚中に言うつもりや。俺に先に聞かせてくれよ」
「ええ? なんで。そんな大した話じゃないよ」
亮市叔父は一瞬戸惑ったような表情を見せた。もしかして自ら墓穴を掘ったのかと思ったのかもしれない。
「ただ、あの事件のあった夜。美花……みーちゃんは僕に言ったんだ」
『光、まだ寝てはだめ。起きていてよ。あいつが、今夜もあいつが来るんだから』
「あいつってさ。にーちゃ、亮市兄ちゃんのことだったんだ」
不自然に泳いでいた亮市叔父の視線が、僕の一言で、火が付いたようにカッと燃え上がった。




