志は遂げたのかー天狗の今弁慶ー 3
斉昭様は、水戸藩領にいらっしゃったこの三年の間に、藩主として様々な政治改革を推進しておられました。
飢饉で藩の財政が底をつきかけていたのを立て直すため、養蜂や硝子製造をはじめられ、また、人材育成のため弘道館という藩校を建てられたのでございました。
その改革のひとつに軍事力強化にもお力を注がれておられましたようで、追鳥狩と称した軍事演習もなされていたとか。
斉昭様が二度目に小松寺へ足を運ばれましたのは、鋳砲のため寺の鐘を御自らお運び出しになられたときにございます。
どちらの藩と戦をするのかと尋ねた私に斉昭様は昂然とこうおっしゃいました。
「他藩との戦のためではない。日本国を侵略しようと目論む異国人を打ち払うための大砲を造るのよ。異人どもを徹底して追い払わねばならんからな」
この時、初めてお会いした時のお言葉の意味がやっと腑に落ちたのでございます。
日本国を犯そうとするアメリカやロシア、イギリスの異人に対抗するための力として私のような若い男児がこの国の守り手として必要である、という意味であったと。
水戸藩では、文政七年(1824)の大津浜でイギリス人が上陸したという事件があって以来、海防を意識してきておりました。
また、天保八年(1837)にはアメリカの船が薩摩藩の沿岸まで来て威嚇射撃をしたという事件もあったと聞き及んでおります。
斉昭様は外敵に日本が侵略されてしまうのではないかと憂い、これに対応なさろうとしておいでだったのですね。
また、二度目にお会いしたころは、隣国の中華がイギリスと戦争し敗れ、国土の一部を乗っ取られたという風説も流れておりました。
斉昭様の憂いが現実となってしまったのは、この十一年後、嘉永六年(1853)の黒船来航にございます。
浦賀にやってきた四隻の軍艦に乗ったアメリカ人は、我々日本人を脅して開国を要求してきました。
異国船を追い払えという斉昭様の攘夷の訴えも空しく、幕府は翌年再びやってきた彼らと開国条約を結んでしまいました。
斉昭様は海防参与に任じられ、攘夷を幕吏にお説きになられたというのに……。また、せっかく水戸藩中の鐘をつぶして造った大砲を幕府に献上なされたといいますのに、この時は使わずじまいでございました。
それからというもの、この国は大変騒がしくなりました。