志は遂げたのかー天狗の今弁慶ー
1864年(元治元年)十一月二十日、水戸天狗党、上洛の途中、高島、松本藩と信濃和田峠にて戦となる(和田嶺合戦)。1865年(元治二年)二月四日、武田耕雲斎、藤田小四郎ら越前敦賀にて斬首。
日暮れ時である。
太陽は干草山の西へと姿を隠し、東からだんだんとやってくる闇が峡谷に蓋をするかのように覆いかぶさってきていた。
元治元年(1864)十一月二十日、信濃国和田峠の麓、中山道沿いを前日の雨で増水した砥川が激しい音を山間に轟かせながら諏訪平へと流れ下っていた。
その音をかき消そうとするかのように鉄砲と大砲を打ち合う音が、冷たい空気を休めることなく震わせ続けている。
鉄砲を放ちながら干草山を下ってくる部隊のなかに、一際目を引く男がいた。
馬上から配下を指揮する四十ほどのその男の背丈はおよそ六尺(180㎝)。
緋色の陣羽織を身に着け、薙刀を振るいながら部下たちを叱咤していた。
大男の率いる部隊が樋橋村に架かる橋の手前まで来たときである。
”ドスーーン”
大筒の鋭い銃声があたり一帯に響き渡ったのと、薙刀を手にした大男が三間(5.5m)ほど後方の地面に馬から落下したのとは、ほとんど同時の出来事であった。
直径一寸(3㎝)ばかりの砲弾が男の腹部に命中し、そこに大きな風穴を開けたのである。
剃り上がった頭と肩から下げた大数珠と共に、乱れた衣服の内側に書かれた経文が、その男の身分を示していた。
「見ろ!水戸浪士の今弁慶を打ち落としてやったぞ!」
樋橋村の方角から高島藩の渡世筒と思われる猟師の男が誇らしげな声をあげた。
地面に転がった血だらけの修験僧はぴくりとも動かなくなった。
桑畑の脇である。
彼の配下たちは桑の影に隠れ、倒れた男を助け出そうと機会を窺っていた。
その間、銃弾が砥川を飛び交う。
すると一本の桑の影がすうっと伸びた。
その影は倒れている修験僧の近くへ寄ったかと思うと、人の形となって出現した。
それぞれ違う人の形に次々と変化しながら、動かない男にこう問いかけた。