始まり
「さて、まずは現状の確認だ」
生き残るためには、現在の状況を把握しておかなければならない。スパイの基本だ。
鏡はないので顔を確認することはできないが、目に映る体は生前のものとは異なっている。
「かなり若そうだ」
生前の俺はおっさんと呼ばれる年齢になりかけていた。だが、いま目に映る体は、若く、張りもある。
―転生で間違いなさそうだ。
続けて、持ち物を調べてみたが、残念なことに服以外は何もない。身一つで異世界に放り出されたというわけだ。
「まあ、いい。サバイバルの知識ならあるし、なんとかなるだろう。それよりも、テンプレの転生をしたのだから、やはりあれをやらなきゃだろう」
そして俺は、何度も妄想した言葉を唱えた。
「ステータスオープン!」
―開かない。
それならばと、似たような言葉を唱えてみるが、何も開かないし、起こらない。
「まじか。結構楽しみにしてたんだけどな」
俺は落胆しながらも、気持ちを切り替える。
―もしかしたら魔法を使えるかも。
そう考えた俺は、今度はそれっぽい言葉を唱えようとした。
その時、かすかな音が聞こえてきた。
馬の嘶きに何かを引きずる音。間違いない、馬車だ。
何も持たず、自分に何が出来るのかもわからない現状、他人と接触するのは得策ではない。幸い、元スパイの俺は、目立たない術を熟知している。ひとまず、向かってくる相手をやり過ごそう。
そう考えた俺は、街道沿いの茂みに身を隠した。
しばらくすると、予想通り馬車が来た。馬車を操縦するのは、中年の男だ。さらに、馬車の周りには、武装した人間が三人いる。
―やはり、接触しないで正解だ。
もしあいつらと戦闘になっていたら、せっかくの転生もあっという間に、終了だった。
しかし、ホッと一息ついて気を抜いたその時、俺は茂みを揺らしてしまった。
「警戒!」
馬車の護衛たちが、戦闘態勢になる。
―まずい
俺は、浮かれていたんだ。異世界に来られたこと、若返ったこと、とにかく気を緩めすぎていた。
しかし、今更悔やんでも遅い。この状況を切り抜けるためには、どうすればいい。
考えたが、何も浮かばない。そうしている間にも、相手は警戒を強めている。こうなったら、一か八かだ。
かつて、俺が現役のスパイだった時にも、相手に疑われ、正体がバレそうになったことがあった。
そんな時、どうしたらいいのか。
答えは簡単だ。相手にとって好ましい人物になりきればいいのだ。
相手が悪人なら、警官だと殺されるが、同じ悪人なら酒を酌み交わす仲になれる。
相手との会話で、相手がどういう人間なのかを見極め、なりきる。スパイ時代に何度もやってきたことだ。
覚悟を決めた俺は、静かに立ち上がって話しかけてみた。
「怪しい者じゃない。少し休んでただけだ」
さあ、相手はどう出る。
「黙って出てこい!魔法を唱えようとしたら、即座に攻撃するぞ!」
さっそく収穫があった。この世界には、魔法が存在するのだ。
先程自省したばかりなのに、心が浮かれる。
しかし、殺されてはせっかくの転生も無駄になってしまうので、俺は気を引き締めて、ゆっくりと前に進み出た。
「何者だ」
相手の質問に馬鹿正直に答えてはいけない。のらりくらりとかわしながら、時間を引き延ばし、情報を引き出す。
「歩き疲れたから、休んでたんだ」
「見たところ荷物がないようだが、どこから来たんだ」
「近くの村だ」
「ああ、あの村か」
地理を把握していないので、近くに村があるのかは賭けだったが助かった。
「ここで何をしていた」
「採集だ」
「回復薬の原料が採れるんだったな」
ここまでくると、相手の警戒も少しはとけてきたようだ。
それに情報も少しは集まってきた。
「よくわかった。すまなかったな」
相手が武器を収めてくれた。うまくやり過ごせたようでよかった。
同時に、馬車を操作していた中年も声をかけてきた。
「私の護衛が失礼しました。私は、この先の都市で商人をしていますバントウといいます」
丁寧に名乗ってくれたのだから、こちらも返すべきだろう。失礼な相手というのは、相手の記憶に残りやすい。
しかしこの世界では、名字は一般的ではないかもしれない。名前だけ名乗っておこう。
「私は、もえ―」
その瞬間、突如として爆炎が舞い上がった。
―C‐4だ!
プラスチック爆薬の一種であるC‐4は、粘土状であり、さらに耐久性もあるので非常に使い勝手がよく、世界中の軍隊で用いられている。
もちろんスパイの世界でもメジャーな爆薬で、小規模な破壊にも便利なので俺もよく知っている。
しかしなぜ、突然C‐4が?
「魔法だ!」
「やはり敵だったか!」
どういうことだ?まるで俺が爆発を起こしたかのような反応だ。
「まってくれ、俺じゃ―」
俺が言葉を言い終わらないうちに、相手が切りかかってくる。さらに、後方の仲間が懐から銃を取り出す。
―銃だ。
この世界にも銃があるのか。しかしそうなると、余計にまずい。ただでさえ丸腰なのに、遠距離からの攻撃は厄介だ。
幸い、後ろには森がある。俺は身を翻すと、一目散に森に逃げ込み、全力で走った。
相手は何かを警戒しているのか、積極的に追ってくる気配はない。
この世界に転生してきてまだ数十分だというのに、俺はまた、背後から迫りくる敵と銃弾から逃げる羽目になってしまっていた。