プロローグ
世界は謀略に溢れている。
カメラの前で、笑顔で握手する政治家。チャリティーを開催する金持ちの慈善家。武器商人に麻薬王にエトセトラ。
ここで問題だ。彼らの違いは?
正解は、着ている服が違うだけ。
何十万円のスーツだろうが、シンプルな白Tだろうが、硝煙のついた迷彩服だろうが、一皮むいてしまえば、もう区別できない。
世界の表側では、今日も服を変えて、笑顔を張り付け、平和を演出する。
ただし、表があれば裏もある。そんな裏側で、政治家の、金持ちの、悪人の手足となるのがスパイだ。
なんでそんなことを知っているのかって?
答えは簡単だ。俺はスパイだから。いや、正確には、スパイだったからだ。
俺の名前は、井谷瀬萌。スパイだった男だ。
スパイって聞くと、多くの人は、007のようなスタイリッシュなものを想像するだろう。
しかし現実は違う。スパイの活動なんて、ほとんどが情報収集だし、銃をぶっ放すなんて目立つこともしない。
2010年にFBIに逮捕されたロシア人スパイなんて、パーティでどんちゃん騒ぎしたから捕まったんだ。
とにかく、目立たず静かに行動する。これが鉄則。
それができないとどうなるか。
それを俺は、身をもって知った。
俺の関わった作戦は、南米で行われていた武器の取引に参加して、関係者の情報を集めるというものだった。取引のフリをして近づいて、情報を集め、さらにチャンスがあれば拉致する。銃の撃ち合いも爆発もなしの簡単なお仕事。
でもしくじった。
ここで再び問題だ。人間の一番目立つ部分ってどこだと思う?
正解は、服装。
観光客溢れる常夏のビーチでスーツ着てるやつはFBIだし、雪が吹雪く冬山でビキニのやつは馬鹿だ。
TPОをわきまえた服装をするってのは、目立たないためにはとにかく重要だ。
じゃあ、南米ではどんな服装が合うと思う?
シャツにジーンズ、迷彩服、スーツも用心棒みたいでいいだろう。でも、用心棒が着るスーツは黒色だ。絶対に鼠色じゃない。
鼠色のスーツに、糊のきいたワイシャツを着た外国人が、南米の街をうろうろしてたら、目立つにきまってる。しかも最悪なことにあの外国人は俺の仲間だ。
こうして、すべてがバレた俺たちは、任務を放棄して、文字通り、命がけの逃走をした。
盗んだバイクで、人が溢れる商店街を走る俺。後ろからはSUVと鉛の弾丸が追いかけてくる。
バイクの機動力を活かして躱し続ける。目の前には隣国との国境。あと少し、あと少しで、国境を越えられる。
そこで俺の人生は幕を閉じた。
・・・はずだった。
ごみごみした街並み、人々の喧騒、俺を殺そうとする敵、火薬のニオイ、血の味。
先程までの最悪の風景は、いまやどこにもない。目の前に広がるのは、森と整備された街道だけ。
「これは、なんなんだ」
理解できずに呆然とする俺だったが、一つの仮説にたどり着く。
「異世界転生だ」
スパイというのは、意外にも待つことが多い。ターゲットを監視する時なんて、何時間も缶詰めになる。
だからスパイは、よく本を読む。本なら燃やしてしまえば証拠も残らないからだ。かくいう俺も色々な本を読んできた。そして最近のお気に入りが、異世界ものだった。
異世界もののテンプレは、死んだと思ったら、異世界にいるってやつだが、まさに今の俺の状況と同じだ。
―最高だ
暇つぶしの妄想で何度も転生した異世界。その異世界転生が現実になったんだ。
死ぬ間際の一瞬の夢幻でもいい。この転生を最後まで全力で楽しんでやる!