第二話 ミニ覚醒
意外にも一面に広がっていたのは草原だった。見渡す限りの緑。夏になろうかというこの季節の新緑は目に優しく、気持ちがいい。たまに生えている花の鮮やかな色がその緑を彩り、さらに美しいものに仕立て上げる。不意に吹く風が俺の頬を撫でる。だが俺の心は複雑な心境だった。
結界の中から見たこの外の景色はひどく荒んだものだった。草木一本生えておらず、見渡す限りの茶色が広がっていて、悪魔は世界をこうするのだと教わった記憶がある。優しかった両親に教わった。
その時の記憶との乖離に俺はえも言えぬ疑念を覚えた。俺にも両親はいた。施設に連れて行かれるまで大事に俺を育ててくれた両親がいた。挨拶も言えぬままに死ぬことになってしまったことを今申し訳なく思う。
いやまて、まだ死んでない。七歳の俺ではあるけど、老成していると何度も言われてきた俺だ。思考も大人びている自信があるし、一人で生きていく自信も少々ある。
だが心細いのは事実だった。だってまだ七歳だもん。しょうがないじゃん。そんなふうに自問自答したって、この寂しい気持ちは離れてくれない。そう考えるとふつふつと怒りが湧いてきた。確かに魔力はゼロだったけど、何も結界の外に出さなくてもいいじゃないか。そのまま施設に入れておいてくれたっていいじゃないか。
これが空元気だと自覚していた。この心細さも怒りも何となく嘘だと気づいていた。だけど空元気でも出さないと押しつぶされそうだった。出会ったことのない漠然とした恐怖がつきまとっていた。他の何かにそれを紛らわせないと死にそうだった。
それは自分の魔力がゼロであることにも原因がある。人間の唯一の悪魔に勝てる点なのだ。魔法というのは。サラ王国がここまで持ち堪えたのは結界と王国魔法騎士団のおかげによるところが多い。年に一度開催される。大魔法大会に置いて良い成績を残したものだけが、王国魔法騎士団に入団できる。そこに入ったものは権力も富も名声も保証される。誰もが憧れるのだ。無論俺も憧れた。そりゃ憧れたさ。魔力ゼロなんて知る前には死ぬほど憧れた。魔法の特訓もした。だけど全く成果はなかった。そりゃそうだ。だって魔力ゼロなんだもの。
この寂しさと漠然とした恐怖が自虐を加速させる。何だか笑えてきた。終わりが見えない草原の真っ只中で俺は膝を抱えた。あーあ何で俺はこんなダメなんだろう。おおきなため息をつく。鬱屈とした感情がさらに暗鬱とした感情を連れてくる。それは自分の生を諦めることに直結していた。しょうがないじゃないか。武器もない。魔法の才能もない。体格だってまだちびだ。こんなないないだらけで悪魔蔓延るこの結界の外を生きられるわけがない。
さっきまでとは全く逆のことを考えてしまう。俺はもう死ぬのだ。
「おい人間のガキ。こんなところで何してやがる」
聞いたこともないおぞましい声が頭上から降り注ぐ。俺はもうそれに興味すら持てないでいた。俺はもう死ぬしかないのだから。何をしたって意味がない。
「聞いてんのか。テメェしまいにゃ食うぞ」
俺は虚な目をそいつに向けた。そいつはひどく醜悪だった。豚に似たような顔で目元に大きな傷がついていた。座っている俺からはわからなかったが、二メートルは超えているような巨漢だった。
「聞こえてるよ。どうせ俺は死ぬんだから食うなら早く食っちまえよ」
その醜悪な豚はまん丸に目を見開いた。
「驚いた。ちいセェのにそんなこと言うのか。この世全てがどうでもいいって顔してやがるな。気に入らねぇ」
俺は何でこいつは俺を食わないのだろうかと思った。悪魔は皆人間の肉が大好きでたまらないはずなのだ。そもそも悪魔が人の言葉を話せるのは知らなかった。俺は嘘ばっかり教えられてきたのかも知れない。
「おい、人間がいるじゃねぇか。くっちまおうぜ」
どこからともなく現れた三人の悪魔達はそう言った。そいつらはこの豚と違って、カマキリのような顔をしていた。醜悪であることに全く変わりはない。向こうは三人でこちらは一人。この豚の悪魔がどう立ち回るかはわからないが、味方になることは多分ないだろう。だって悪魔なんだもの。人間の敵である悪魔なんだもの。
「おいテメェらこの人間は殺させないぞ?」
そんな俺の予想を簡単に裏切って、豚の悪魔は俺の味方になってくれるようだった。意味が分からない。俺の今までの常識からでは全く想像もつかない彼の行動に俺の頭はクエスチョンマークで埋め尽くされた。
「テメェさては親人間派だな。もろとも殺しちまえ!!」
親人間派と言う聴き慣れないワードが出てきたが、今気にするべきは自分の生死だ。だがふと思い当たる。ああ俺は死ぬ気なんだった。別に抵抗をする必要もない。ただ痛くしないでほしい。そう思った。
「おい人間!ぼーっとしてんな!立て!!俺だけじゃ二人が限界だ」
そんな声が耳に届くが俺には関係ない。もう俺には生きる道筋なんてないんだから。ここでうまく難を逃れたとしよう。だけどどうせまた同じように襲われる。この豚のように人間を助けようとする悪魔もいるようだが、少数派だろう。苦しむのならもういっそここで死んでしまった方がいい。
一匹のカマキリ悪魔がこちらに近づいてくる。もちろん醜悪な笑みをたたえている。
「久々の人間だなぁ」
その笑みはあの施設の人間が俺たちを殴る時の表情に似ていた。何かが俺の中で引っかかった。
「おい!坊主!早く立て!戦え!!」
そんな声がまた耳朶を打つ。俺“たち”?そうだ俺には死ねない理由があった。アイがいた。俺は死ねないんだ。死んじゃいけないんだった。俺はまたアイに会うまで生きていなきゃいけなかった。そう考えたら生きる理由をずっと探していた自分に気づいた。
おれは立った。
こいつを殺すために。
おれは拳を握った。
こいつを滅するために。
「称号『無謀なるもの』を取得しました」
そんな意味不明な機械音が頭の中に響くが、そんなことはどうでもよかった。
俺は生きたかった。
不思議と力が湧いてきた。すべてを打倒せんとする強い力だ。その力をおれは拳に貯めて、精一杯殴った。腹の底から力が湧いてくるようだった。全能感が俺を支配する。何でもできる。何でも殺せる。そう言う気持ちが俺を支配した。俺は生きるためにこの力をカマキリにぶつけなかればならなかった。抵抗は何一つ感じなかった。あるのは生きるために殺さなければならないと言うはっきりとした思いだった。
「人間如きのパンチなど恐るるにたら…」
カマキリ悪魔は冗談ではないほど吹き飛んだ。
「どうした!!人間!!」
カマキリ二人をちょうど倒し終えようとしていた豚は驚いた様子でこちらをみた。だけど俺はもう意識が朦朧としていた。
俺は簡単に意識を手放した。死にたくないと思いながら。