8 灯火
「……ねえ、あんたの噂、また広まってるってさ」
あれから晩酌相手となっているリリアーヌがいつもの勢いの失せた小声でそう言ったので、ロクサーヌは目を丸くした。気怠い顔のまま。
「あたし、こないだあのワルキエさんの相手をしただろ? その時に言ってたんだよ、ロクサーヌのことがかわいそうだって。結構な騒ぎになってるから、力になってやりたくて動いてるって。でも、多分噂を広めてるのはあいつだよ。あの得意げな顔は、絶対一枚噛んでるよ。きっと、あんたが頼ってくるのを待ってるんだ」
ロクサーヌの紹介でワルキエに指名されたリリアーヌは、彼から色々と聞かされたようだ。ロクサーヌの正体を明かすことはしないまでも、彼ならば相手が貴族について疎いのをいいことに、思わせぶりなことを繰り返し言ったのだろう。それでもリリアーヌはワルキエ好みの〝薄幸の娼婦〟をやりつつ、情報収集に勤しんでいたようだ。彼女は無意識なのかも知れないが、客をあいつ呼ばわりしてロクサーヌに肩入れする真っ直ぐな気性は、好ましくはあるが少々危うい。だがロクサーヌは、劇場から出歩かない自分に代わり、進んで耳目となってくれるこの娘の行動を止める気はなかった。
「大丈夫よ、ありがとう。それにしても、あなたは聞き上手なのね。わたしは人の話を聞き流すので精一杯なのに」
「聞き流すって、そりゃあたしの話もかい! せっかく忠告してやってんのに、何であんたはいっつもそんな張り合いのない顔してるんだよ!」
ふざけやがって、とごろつきも顔負けの悪態を吐きながら、リリアーヌはグラスをあおる。ロクサーヌはそれを愉快な気分で見ていたが、ふと思いついて黙り込んだ。しかし、何か考えを巡らせているのかとリリアーヌが期待してしまうほどの時間が経過してから、「ちょっとご主人様のところに行ってくるわ」と言って逃げた。残されたリリアーヌは腹いせに酒を根こそぎ消費して帰ったらしいと、後で戻った時にテーブルに転がった瓶の数でロクサーヌは悟るのだった。
そしてまんまと部屋を出たロクサーヌは、言葉通りに主人であるオリオールの執務室を訪れていた。門前払いを食らう覚悟というか、面倒なので伺いを立てずに直行したのだが、幸い支配人は在室でしかも手が空いていたようで入室を許可された。
「それで、こんな時間に何の用かな」
オリオールは彼の言う「こんな時間」にもかかわらず、平時と変わらないきっちりとした出で立ちのままだった。それに引き比べてロクサーヌはというと、寝巻きにガウンを羽織っただけの姿なので、酔った勢いで行動するのはいけないなと一応反省する。そして、彼はこんなことでロクサーヌを追い返したりしないと知っているので、すぐに用件を言うことにした。こんな格好の娼婦の話を聞くつもりのある支配人は、顔に似合わず世話好きなのだ。
「そろそろ、元の名で生きようかと思うのです」
「……突然何を言い出すのだ。今のは酔っぱらいの妄言と思ってやるから、さっさと寝ろ。寝酒はするなよ」
今度はロクサーヌが聞き流されてしまった。なるほど、先ほどのリリアーヌはこのような気分だったのかとこれまた反省したロクサーヌだが、引き下がる気はない。
「あなたの許しを得るために来たのではありません。わたしを知るあなたには、先に話を通しておくべきだと思っただけです」
図らずも馴染みだったワルキエ氏が勝手に引っ掻き回してくれているようなので、ロクサーヌはさらに火種を追加したらどうなるのかを見てみたくなったのだ。あれからテオドール側もアルベール側も音沙汰がなくて少々物足りないところにリリアーヌという情報源を得られたことは、幸運だった。今後も彼女の活躍に期待しつつ、ロクサーヌも自分にできることをしようと思い立った結果なのだが、オリオールは額に青筋を立てている。何故彼が怒っているのか理解できないロクサーヌは、「馬鹿な」と声を荒げる支配人に少し驚いていた。
「何故だ。あなたは十年前に全てを捨てたはずではないか。今さら名乗りを上げて、どうしたいのだ!」
激高するオリオールの問いに、ロクサーヌは答えない。
「やはり、間違っていた! あなたをこんな場所に迎え入れるべきではなかったのだ……」
「そんなことはありません、オリオール様。あの時のわたしは、あなたの劇場に拒まれたところで思い止まりはしなかったでしょうから。すぐに別の場所を訪ねるか、街角で私娼にでもなって野垂れ死んでいたわ。だからわたしを受け入れてくださったこと、心から感謝していますのよ」
言いながら、ロクサーヌは過去を思う。
屋敷を追われた〝ヴィクトリーヌ〟達は、ある教会に身を寄せていた。だが、両親を看取り蓄えも尽きた後もそのままではいられず、教会の伝手で兄は国外へ渡り、弟は王都から遠く離れた地へ養子に出され、〝ヴィクトリーヌ〟だけが王都に留まることになった。とある貴族の屋敷でメイドとして働けることになったのだ。その貴族の家令からの「兄弟を見送ってから、ゆっくりと支度をして来れば良い」という言葉を信じた〝ヴィクトリーヌ〟は、兄と弟との別れを惜しみながら見送り、教会に遺灰を預けて屋敷に向かったところ、絶望に叩き落とされることになった。
メイドとして来たのに屋敷の客間に通されて不思議に思っていると、屋敷の主人と思しき人物から謝られた。「教会の顔を立てて雇用の依頼を受けたが、まさかリベ家の娘とは思わなかった。あなたの身柄を引き受けたことが外に知れれば、当家の不利益となる。だからどうか、この話はなかったことにしてほしい」そのようなことを丁寧に告げられ、家令からいくらかの金を渡されて、呆然としたまま馬車に乗せられて屋敷を後にした。あの優しい言葉は、〝ヴィクトリーヌ〟よりも世間を知る兄を遠ざけるためのものだった。教会への義理は果たした格好で、小娘一人を追い払えば事が済むようにするための方便だったのだと遅まきながら悟ったが手遅れで、馬車は貴族の邸宅ばかりか教会からも遠ざかっていった。そして王都の外で放り出され、自分がどこにいるのかも分からず途方に暮れたことは、昨日のことのように思い出される。教会にも戻ってくれるなという主人の明確な意図を感じても、どうすることもできなかった。
その後、何とか入り込んだ街でリベ家の悪評を耳にした時に教会に戻ることは断念した。世俗から離れ、両親の看病や日々の暮らしに気を取られている間に、〝ヴィクトリーヌ〟が無実と信じていた父は王家に仇なす悪人で、その娘もまた王太子とその妃の仲を引き裂く悪女だと、貴族ばかりか庶民にまで話が広がっていた。そんな者を預かり続ける教会が矢面に立たされていたと知っては、もう頼ることはできなかった。しかし、身を立てる術を持たない〝ヴィクトリーヌ〟は市井で働こうにも門前払いされ、当初は蹴った修道院に入る道も頭をよぎったが、もはや神に祈る気にはなれなかった。それに、罪人であるリベ家の娘が修道女となることは己の罪を認めるのと同義だったので、それだけは嫌だった。
そんな〝ヴィクトリーヌ〟を拾ってくれたオリオールには恩があるが、だからといって彼の言葉を聞き入れるつもりはない。
「ヴィクトリーヌ様、どうかおやめください。やはり、あなたにこのような暮らしをさせるべきではなかったのだ。……すぐに王都を離れ、静かにお過ごしいただけるよう手配いたします」
懇願され、しかし〝ヴィクトリーヌ〟は唇を吊り上げて笑った。
「お断りいたします。わたくしのこの手で、あの方達が築き上げてきたものに爪痕くらいは残してやりたいの。全て台無しにしようというのではないから、かわいいものでしょう?」
絶句するオリオールの顔は、暖かな色のランプの明かりを受けてなお、血の気が失せていた。そんな彼にロクサーヌはまた笑顔を向ける。
「――というのは、格好良く言い過ぎかしら。わたしはただ、あの方達の輝かしい幸せに少しけちをつけてやりたいだけです」
「……それが、あなたの身を滅ぼすことになってもですか?」
痛ましいものを見るような目を向けられても、ロクサーヌは明るく頷いた。
「ええ、構いません。だって、わたしのすべきことはもう終わっていますもの。あとはただ流されて生きるだけと思っていたら、突然あんなことになったでしょう? 実は、あれから毎日が楽しいのです。別に何をしたというわけでもないのに、わたしに関わったあの方達が不快な思いをしたと想像するだけで、とても楽しくって!」
オリオールはロクサーヌから目を逸らし、絞り出すような声で「承知しました」とだけ言った。望む答えを得たロクサーヌは、これ以上彼といたらもっと後悔させてしまうだろうと感じたので、すぐに退散した。オリオールには何の罪科もないというのに、彼はいつまでもロクサーヌに――リベ家に対して負い目を感じているようだ。それにつけ込むことに躊躇はなかったが、真面目な彼を自分のふざけた企みに巻き込むことは、できるだけ避けたいとは思うくらいの心はある。
(彼の協力が得られればとても楽だけど、いくら何でもそれは虫が良すぎるものね。せめて邪魔をせずにいてくれるかしら)
そういえば、邪魔をするなとオリオールに釘を刺すのを忘れた気がする。足を止めるが、ロクサーヌはまた歩き始めた。こちらがオリオールに何かを強いることなどできないし、人を意のままに操ろうとするなど面倒の極みだ。あのセリーヌは得意としていたようだが、ロクサーヌには彼女と同じ舞台に上がる気は毛頭ない。楽しいことをするためにオリオールに断りを入れるという面倒を乗り越えたのだから、これ以上はもういいだろう。……そんな考えが甘かったとロクサーヌが思い知るのは、次の日のことだった。
急に春めいてきましたが、マスク不足の中でいろんな粉が飛び交うシーズンに突入するのは緊張感があります。もうやめて!とっくにわたしのライフ(マスク)はゼロよ!にならないことを祈ろう……