7 余熱
テオドールらとの再会から十日が過ぎ、あの日以来ロクサーヌがバーカウンターに出ることはなくなっていた。「お前が出ると上演妨害になりかねん」とはオリオールの言で、アルベール避けのための措置なのでロクサーヌも逆らわず受け入れている。しかし、ただ遊んでいられるわけもなく、近頃は思っていたよりも忙しい日々を過ごしている。既に様々な噂が飛び交っているのか、来客が続いているのだ。
そして今夜も、昔馴染みの客と久々の対面を果たしたところだ。バーメイドとなってから疎遠になった客なので、会うのは何年ぶりになるだろうか。ソファに身を沈めて寛ぐその客は、ロクサーヌの記憶の中の姿のままで、髪に白いものが増えたようだが若々しい。整えられた口髭の下の唇に、淡い笑みを浮かべているのも以前のままだ。
「――君は随分と難儀なことになっているようだが、大丈夫なのかい?」
唐突にそう訊かれて、ロクサーヌは戸惑った。特に困っていることなどないからだ。すると、不思議そうな顔をしたのが気に入らないのか、客――ワルキエ氏は手にしていたグラスを置いて真顔になった。
「分かっていないようだから言うが、第四王子殿下に目をつけられたそうじゃないか。あのお方は、悪い方じゃあないが……今は婚約者が変わったばかりだからまずい。それに、あのお方に悪い癖があるのは分かっているだろう?」
「まあ、ワルキエ様はお耳が早いですわね。ですが、一度お会いしてからは主人が取り次ぎを拒否しておりますので、もうお召しはないと思います」
アルベール達は二人とも悪目立ちしていた上に、色々と騒がしかったと聞いた。しかし、あれ以来アルベールは来ないし何が難儀なのか分からない。ロクサーヌの茫洋とした瞳に、ワルキエの呆れた顔が映る。この親切な客は心配してわざわざ会いに来たようなのだが、肝心のロクサーヌには緊張感のかけらもないのだ。テーブルに置いたグラスを掴んで一気にあおると、ワルキエは当事者よりもよほど深刻な顔でまた問いかける。
「本当は何を考えている? 婚約者をすげ替えた王子に思うところがあるのは分かるが、君はもう王家の人間には関わらない方がいい」
「……ワルキエ様」
じっと見つめてくる黒い瞳には、真剣な色が宿っている。本心から気遣っての言葉だと全身で訴えかけてくるこの男は、王族達にただ巻き込まれただけのロクサーヌからどんな答えを引き出したいのだろうか。ここは面白さを追求して、「わたしはアルベール様を愛してしまったのです」と言ってみるのはどうだろう。しかし、この馬鹿げた嘘を口にする寸前に、ロクサーヌは思いとどまった。
(そうだったわ。この方は時々こんな風に〝善意〟からの発言で、わたくしの心を揺さぶってくる男だった)
この紳士は娼婦に優しいが、反面「哀れな君の理解者は私だけだよ」と過剰に示して女の心を縛ろうとする悪癖があったことを、久しぶりに思い出した。だから彼は足が遠のいていた年増の、それも噂の渦中にある娼婦にわざわざ会いに来たのだ。
彼はいつの頃からかロクサーヌの正体を察していて、時折何かの拍子で今のようにロクサーヌを〝ヴィクトリーヌ〟として扱うことがあった。そんな時、過去のロクサーヌはこの男に憐れまれる屈辱に耐え、身内で渦巻く憎しみの炎を持て余した。今思うと、彼には良いようにいたぶられていたが、その様こそが彼の望む〝可哀想〟な姿だったのだろう。そして彼は、その炎に無遠慮に手を突っ込むことが心の交流だと思っていた。だから全てがどうでも良くなったロクサーヌはお気に召さなかったようで、何を言われても受け流しているうちに寄り付かなくなった。
振り返ってみると彼はひどい男のように思えるが、女を救う救世主気分のうちは気前よく金を落としてくれるので、娼婦としては良い客だった。彼の好む劇中の薄幸の姫君を演ずれば良いのだから。そして今夜も昔のように心を乱す姿を見せれば稼げるのだろうが、今のロクサーヌにとっては面倒なだけだ。だから彼の小芝居に付き合う気も起きず酒をちびちびと飲んでいると、ワルキエがロクサーヌの手を握った。
「……悪かったよ。私は、君のあの危なっかしくて見ていられなかった頃を知っているからね。だからつい、要らないことを言ってしまった」
「いいえ、嬉しいお言葉です」
今度は荒れていた頃のことを思い出させようというわけか。しかし彼の期待には応えられないので、落ちてくるワルキエの唇を黙って受ける。一向に乗って来ないロクサーヌに焦れた彼の手つきは、少々手荒い。この手に縋りそうになったこともあった気がするのだが、今は少し煩わしかった。そんな自分の心境の変化に微かな寂しさを覚えながら、ロクサーヌはそれをごかますようにワルキエに身を寄せた――。
◇
「――ああいう面倒臭い男を相手にするのも、けっこう大変なもんなんだねぇ」
ワルキエ氏をばっさり斬り捨てたのは、新人バーメイドのリリアーヌだ。からりとした口調の彼女は、先ほどまでロクサーヌ達の逢瀬を覗き見ていたとは思えないほど堂々と腰かけている。ロクサーヌも話し相手がいるのは嬉しいので、若い彼女が好みそうな甘い果実酒を勧めて、残っていたつまみも進呈した。それに遠慮なく手を伸ばすリリアーヌは、明るい声とは裏腹に「やっぱりあたしには遠い世界だね。早まったわ」と肩をすくめる。
「そんなことないと思うわ。ワルキエ様だって、女に無茶なことはさせないから人気なのよ。それに彼はね、初めての時に大失敗したわたしを見捨てなかったわ」
「そりゃあ、あんたが元お貴族様だからだよ。あたしの育ちの悪さとあんたのしくじりは、何ていうか……まずさの度合いが違うんじゃないの?」
ワルキエ氏を一応庇ってみたが、リリアーヌの返答は渋い。
近頃ロクサーヌがアルベールに続いて上客を迎えていると小耳に挟んだ彼女から、後学のために「最初から最後まで」を見せろと頼まれた結果がこれではつまらない。それに彼女は高級娼婦になるのだと意気込んでいたので、ワルキエに「家族の借金のために娼婦をしている可哀想な娘」としてリリアーヌの名をさりげなく告げたりもしたのだ。そんな彼女が何故尻込みするのか分からず、ロクサーヌはとりあえず無責任に励ますことにした。
「わたしは初めてワルキエ様のお相手を務めた時、相当〝まずかった〟のよ。ちょうど色々と嫌になっていた時でね。泥酔して現れた挙句、彼に絡んで絡んで、それはもうひどかったそうなの。ぐへへ、ここの酒をお前の金で全部飲み尽くしてやるわ! とか、色々言って暴れたらしいわ」
真実を打ち明けたのに、リリアーヌは疑わしげに鼻を鳴らして信じない。ならば、とロクサーヌは他のひどい失態を演じた時の話も、酒の肴代わりに語って聞かせた。何しろ、荒れていた時期のロクサーヌはこの手の話題には事欠かないのだ。当時を知る者達は、ロクサーヌのことを〝遅れてきた反抗期〟と未だに呼ぶ。盗んだ馬で走りだしたりはしなかったが、借りた馬を往来で飛ばして警邏の兵士に追われかけたことだってあった。そんなあれこれを、リリアーヌが「もう勘弁してよ」と根を上げるまで語り尽くしたところ。
「……あんたって、大人しそうな顔してるくせに、相当やばいね。ねえ、本当に貴族のお嬢様だったの? あたしのことを担いでるんじゃないの?」
「あら、やばいって、〝とても凄い〟ってことよね。わたし、そんなに大したことはしてないのに」
「ああもう! 今のは褒めてないし、あんたやっぱりあたしのことをからかって遊んでるだろ!」
ついに怒りだしたリリアーヌは、つまみの干しぶどうをぶちりと噛みちぎって叫んだ。食べながら喋るのは行儀が悪いと指摘したロクサーヌは、寝ながら嘔吐する奴よりはましだと言い返されてしまった。調子に乗って喋り過ぎた弊害が早くも出た。
「明日からあたし、あんたの顔をみるたびに思い出しそう……。お上品に座ってても、中身はその辺の酔っぱらいより性質が悪いってさ……」
励ましたはずの若者が、げっそりした顔でロクサーヌを見てくる。これはもう、飲んで憂さを晴らすしかないだろう。
「まあまあ、そう言わずもう一杯どうぞ」
「ああ、どうも――って、違うだろ! あんた、あたしまで酔わせて何をさせようっていうんだよ! 言っとくけどね、あたしはあんたみたいに泥酔したりしないから!」
気遣いは通じず、完全に警戒されている。しかしロクサーヌは気にせず自分のグラスに酒を追加した――ら、リリアーヌに奪われてしまった。そして、まるで酒場に入り浸る酔客に対するように、「もうやめときな」と水を手渡される。そういえば、カウンターの中で働いている時のリリアーヌは、元々そういう店にいたのかと思うほど、酒を用意する手付きが慣れていた。劇場の女の過去は詮索しないのが不文律なのだが、つい彼女の前身について考えてしまう。この物怖じしない気性と明るい人柄は、下町の小さな店の看板娘といったところか。……もう少しやつれて気落ちした感じを出さないと、ワルキエのお眼鏡に適わないかも知れない。
「……ねえリリアーヌ。あなたもう少し不幸せそうな顔をできない?」
とても良い案だと思ったのに、ロクサーヌの言葉にリリアーヌは鼻にしわを寄せて唸ってきた。まるで猛犬だ。
「突然何を言い出すのさ。不景気な面したって、金は稼げないし何も変わらないだろ。だったら明るくやってくしかないんだよ」
「いいえ、ワルキエ様の前でそうすれば稼げるのよ」
断言すると、リリアーヌは一転して食いついてきた。彼の癖やどんな反応をすると満足するのかをしっかりと教えてあげたら、リリアーヌは何とも言えない顔をしながらも礼を言って席を立った。今日は休みだったが、彼女も明日からまた働くのだ。余った酒も土産に持たせたら、今度は晴れやかに笑って帰っていった。
次回は人物紹介です。ここまでに出てきた人について書いてあります。