6 火種
次回から不定期更新になります
欲を発散して冷静になったのか、衣服を整えたアルベールはすまなそうにロクサーヌに謝った。
「あなたがあまりに魅力的だったから、触れずにはいられなかったんだ」
そんな言い訳めいた世辞を口にしながら、その視線はロクサーヌの胸元に固定されている。しかし「また会いに来るよ」と言われたら、さすがに笑っていられなくなった。
(……やっぱり、馬鹿なのかしら)
女の勘は侮れないので、この男がロクサーヌと関係を持ったことは早晩マリアンヌに知られるだろう。だがマリアンヌはあっさりと退席したので、後腐れのない関係は許容しているのだと思いたいが……そもそも彼女はバーメイドの正体を知らないのだった。
(ああ、馬鹿はわたくしの方だわ。拒むのを面倒がってはいけなかった。愛妾を許さないマリアンヌが、わたくしを見逃すはずがない)
「ああ、そんな顔をしないでロクサーヌ。きっとまた、すぐに会えるから」
心底面倒で、怠くてたまらない。そんな顔をしていたつもりだったのだが、アルベールには「愛しい人を憂い顔で見送る女」にでも見えるらしい。〝ヴィクトリーヌ〟ではなくロクサーヌと呼ぶ気遣いができるのに、どうしてこちらの心情を察してはくれないのか。うんざりしながらも、ロクサーヌは肝心の話が何もできていないことを思い出した。やっぱり、流されるのはいけない。
「アルベール様、先ほどのお話の続きをしましょう。元婚約者の方の処遇についてでしたわね。わたしとしては、ここに未来あるご令嬢の身を置くことはお勧めいたしませんが……」
アルベールが触れてくるのを何とかかわしながら切り出すと、節操なしは「分かった、それはまた後日話し合おう」とにこやかに言った。目先の欲に弱く、女は自分に惚れるものだと思い込んでいる。それがこの第四王子の実態なのだろうか。小さい頃は大変愛らしい子だったのに、謎の成長を遂げたようだ。
「わたし、不思議に思っていたのですが……」
かわすのをやめてアルベールに胸を押しつけるようにして迫ると、背中と尻に腕が回された。そのままにさせてロクサーヌはさらに続ける。
「マリアンヌ様は、何故わたしがここにいるとご存知だったのでしょうか。元の名は誰にも明かさず、ひっそりと過ごしているつもりでしたのに……」
吐息と共に耳元でささやきかけると、アルベールの体がぞくりと震えた。せめてこの疑問には答えてから帰ってほしい。そうでなければロクサーヌは働き損だ。愛しの婚約者の名前を出しても抑止力にはならないようで、アルベールはごくりと喉を鳴らした。
「それが、彼女には不思議な力があって……過去や未来が見えるんだ。あなたのこともそれで知ったのだと言っていたよ」
「過去や、未来を……?」
困惑するロクサーヌの唇をアルベールが塞ぐ。もう話は終わったとばかりにまさぐる手は、胸にまで伸びてきた。勝手に熱を帯びる体を放置して、ロクサーヌは考える。
(マリアンヌのあの確信的な態度の根拠が、そのような怪しげなものだというの?)
にわかには信じられず、唇が離れた一瞬を狙って、もっと詳しく話してほしいとねだってみた。するとアルベールは隠し立てするつもりもないのか、
「マリアンヌや彼女に近しい者に関わる事柄を、夢に見ると言っていたよ。私のことをその力で助けてくれたこともある」
「それでは、今まで何の関わりもなかったわたしは……。マリアンヌ様は、今後関わることになるから、わたしのことが見えたということでしょうか」
ロクサーヌの指摘によって恋人の悋気を想像したのか、アルベールはそそくさと体を離した。しかし懲りないようで、「あなたとはまたゆっくりと話したいな」とうそぶくので筋金入りだ。
そうして名残惜しそうに部屋を出たアルベールは、その足でマリアンヌに愛を囁きに行くのだろう。護衛騎士達が何とも言えない顔でロクサーヌを見たが、笑顔で見送った。
これで来客はいなくなったので金髪のかつらを外すと、やはり頭が蒸れていた。もう面倒なので地毛で行こうと髪を整えていると、オリオールが密やかにドアから滑り込んでくる。
「ロクサーヌ……平気か?」
「もちろんです。わたしの生業ですもの」
何も言わずとも全てを察していた支配人の短い言葉が、ロクサーヌの心に染み入る。やはり今夜の自分は、いつもより感傷的になっているようだ。
「……もう二度と取り継がんから、犬にでも噛まれたと思って忘れるといい」
苦々しい声のオリオールの言葉に、ロクサーヌはつい吹き出してしまった。
(さ、先ほどから頭をかすめてはいたのだけど……犬! そうよ、アルベールはまるで発情した犬のようだったわ!)
彼はロクサーヌの体にまとわりついて離れず、執拗に胸に鼻面を押し付けてきたことを思い出す。さすがに不敬に過ぎて口にできないので、ロクサーヌは勢いに任せて笑い続けた。ようやく平静を取り戻した時には、オリオールが呆れ顔で立っていた。気が触れたと思われただろうか。
「……楽しそうだな」
「ええ、楽しいですわ。とっても!」
ロクサーヌは心からの笑みを浮かべていた。晴れやかで、底抜けに明るく、そして少しだけ空虚な笑顔を。
◇
「――このようなことしか聞き出せず、申し訳ございません」
黒髪の「変装」姿で謝るロクサーヌの正面に座ったテオドールは、何とも言えない顔で黙ったままだ。それも当然だと思う。報告したロクサーヌ自身も半信半疑なのだ。彼の末弟が問題児なのは今夜だけでよく分かったが、アルベールとマリアンヌの行動はともかく、彼らの情報源があやふやに過ぎる。
元婚約者を愛人にするために、過去の兄の犠牲者を訪ねるというのは、百歩譲って理解できる。だが、そのロクサーヌの居場所を特定した根拠がおかしい。
「いや。ヴィクトリーヌ嬢、あなたにはさぞ不快なことだったろうに、耐えてくれて感謝している。今後はあなたを煩わせないつもりだが――」
突然言葉を切り、テオドールはロクサーヌの胸元を凝視した。兄弟は似るものなのね、と生温かい視線を送ると、テオドールは弾かれたように顔を上げる。娼婦相手に何を憚る必要があるのだろう。不思議に思いながら笑いかけると、テオドールは目を伏せてしまった。何だか分からないが、葛藤があるようだ。どうでも良いが。
「わたしのことは良いのですが、心配なのは元婚約者のご令嬢です。そのお方は、本当にアルベール殿下のことを未だにお慕いしておられるのですか?」
「ああ、それは真実らしい。彼女はどうしてもアルベールを諦められないと、泣き暮らしていると聞く」
アルベールはただの自惚れ屋ではなかったのか。一人の令嬢の人生を壊しておきながら、まだ縛りつけるとは恐ろしい男だ。
「そもそも、アルベール様は整っていた婚約を破棄してまでマリアンヌ様を選んだのでしょう? それなのに、切り捨てたはずのそのご令嬢のことも手に入れたいだなんて。それに、そんな扱いを受けてなお、すがりつくご令嬢のお気持ちも理解できませんわ……」
思わず本音がもれてしまったが、テオドールは咎めなかった。半分は身に覚えがあるからか、硬い表情で曖昧に頷くばかりだ。だが、彼も弟の気持ちは分からないようだ。もう考えるのも面倒だ……などと全て投げそうになったところで、テオドールが口を開いた。
「奴の思考をなぞるなら……誇り高いマリアンヌは自分が正妻でなければアルベールを受け入れないので、その座にとにかくマリアンヌを据えた。そして元婚約者の――シモーヌというのだが、彼女は何があってもアルベールに惚れ抜いているので、正妻ではなく愛人として密かに囲うことにしたのだろう……と、思う……」
己の所業ではないがあまりに最低な言い分に、テオドールは語尾を濁した。セリーヌ一筋の彼とは、相容れない考えだろう。しかし、欲望に忠実なアルベールの理屈としては理解できる。ロクサーヌが本当に不可解なのは、元婚約者のシモーヌの方だ。愛が憎しみに変わったという方が、よほど共感できるというものだ。
「愛の形は人それぞれとは申しますが、奥が深いものですわね。アルベール殿下の分け隔てなく与えられる愛には、感心いたしましたが」
「あれでも、幼い頃は可愛かっただろう? あまり言ってくれるな」
初めて軽口を聞いたテオドールに、ロクサーヌはほんの一瞬笑顔を消した。この男はまさか、自分が捨てた元婚約者に気を許したのだろうか。
ロクサーヌは、目を伏せて昔を懐かしむふりをする。
「そうですわね、とてもお可愛らしい方でした。先ほども、昔と変わらずわたしを姉のように慕ってくださって……。アルベール殿下は、セリーヌ妃殿下のことも義姉として慕っておられるとか。とても愛情深いお方ですわね」
滑り込ませたセリーヌの名に、テオドールの眉がぴくりと動いた。しかしそれ以上は表情を動かさず、ロクサーヌの赤い唇を見ている。先ほど見せつけた胸元の痕と、多情な末弟、そして彼が愛する妻を結びつけたのだろう。相手があのアルベールならば、根拠のない話だと笑い飛ばすことはできないはずだ。
(――そうやって、疑いの芽を育てるといい)
何も持たず、ここにいる騎士に組み敷かれれば抵抗もできないこの身でもできることがあるのだと、今日分かった。
(この無力なわたしくでも誰かを不幸にすることができるのか、試してみましょう)
ロクサーヌの仕込んだささやかな毒は、この男の心中でどうなるだろうか。それを見届けるだけでも、きっと楽しい。
笑うロクサーヌの瞳の奥の虚無に、テオドールが気付くことはなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
全国で大変な事態となっていますが、体調に気をつけて予防に励むしかないので歯がゆいですね。早く終息して、明るく春を迎えたいものです……