5 引火
そして、目的の部屋に辿り着いたのだが。
「ご主人様、わたしはこの中に入っても良いのでしょうか」
何やら甲高い嬌声の聞こえてくるドアを指さしたロクサーヌに、オリオールは苦い顔で頷いた。そのいつになく人間臭い表情がおかしくて、くすりと笑みをこぼしてしまう。するとドアの両脇に立つ護衛騎士達が、オリオールよりも渋い顔をした。彼らも中にいる主人の所業に呆れているようだ。
「……やはり、出直した方が良いのでは?」
中から聞こえる声が明らかに色を帯びたものに変わったので、ロクサーヌは言ってみた。しかしオリオールは、眉間にしわを寄せたままドアに近づき、何と力いっぱいノックした。途端に静まるドアの向こう側に、ロクサーヌはまた笑う。恐らく身繕いをしているのだろう室内の慌てぶりを思うと、とても愉快だ。
ノックしてから、軽くお茶を飲む程度の時間が過ぎた頃だろうか。やっとで「入るがいい」と中の護衛騎士から返事があった。こんな醜態を晒しておいて、入るがいいも何もないだろうに。またこみ上げる笑いを隠して、ロクサーヌは神妙な顔で入室した。
「ちょっと、この女の格好は何なの? どうしてただのメイド風情がこんなに上等なドレスを着ているのよ!」
挨拶も済んでいないのに、この場の主人である〝王子サマ〟を差し置いてあの派手な身なりの女が叫んだ。これだけけたたましい声であれば、ドアから漏れても仕方がない。そんな感想を抱きながら、ロクサーヌはしれっと「高貴な方との面会と聞きましたので」と答えた。すると女――マリアンヌはせせら笑う。既に一度会っている相手だから少し迷ったが、初めましてと膝を折るも、マリアンヌは反応すらしなかった。
「ヴィクトリーヌ・リベ、下女が思わぬ幸運を得たと思っているのだろうけど、アルベール様がお前をお召しになったのは私のおかげなのよ」
この女は、リベ家のヴィクトリーヌを呼び捨てにした。今さら何を言われても平気だと思っていたのに、ロクサーヌの心はにわかに燻り出す。そこで初めて〝王子サマ〟が口を開いた。褐色の髪に暗い緑の目をした第四王子アルベールは、その綺麗な顔を曇らせてマリアンヌをたしなめた。そこには、〝ヴィクトリーヌ〟の知る小さな男の子の面影はない。
マリアンヌは機嫌を損ねたが、己の恋人の扱いを心得ているアルベールは、彼女の頬を撫でながら「いい子にしていておくれ」などと口付けている。ロクサーヌ達の目の前で。
「ああ、待たせたね。久しぶりだね、ヴィクトリーヌ。先ほどの黒髪のあなたには全く気付けなかったよ。今夜はどうしてもあなたと話をしたくて、支配人に無理を言って取り計らってもらったんだ」
周囲の人間の冷めた目に気づいた王子は、気まずそうな顔で取り繕うようにそう言った。劇場でマリアンヌが怒涛の罵りを浴びせた相手が、探していた〝ヴィクトリーヌ〟当人とは思わなかったようだ。彼の恋人は分かっていてそうしたが。
「まあ。では、殿下がわたしのお客様というわけですのね。とても光栄ですわ」
わざとらしく手を組んでそう答えると、王子の口元がわずかに引きつった。その隣のマリアンヌは、ロクサーヌの言葉の正確な意味を読みとっていないようで、変わらぬ優越感のにじむ目で嘲笑している。彼女はメイド風情がまた綺麗なドレスを着て、働かずに済んでよかったわねとでも思っているのだろう。
「……ですが、わたしは三人でというのは、初めてですの」
困惑した顔を作ってアルベールを見つめる。遊び慣れた彼は、ロクサーヌの言葉の意をちゃんと汲み、そして慌てた。
「む、無論、私とマリアンヌとあなたは初対面だね。だが、そう構える必要はないよ。こうして歓談するだけなのだから、安心してほしいな」
必死さを隠しながら三人で床入りするわけではないと強調するアルベールを見て、ロクサーヌはほくそ笑む。この〝王子サマ〟は、バーメイドの正体をマリアンヌに知られたくないのか。それだけでも面白いのだが、何も知らない恋人を連れてまで、彼らが何をそんなに聞きたいのか気になる。
「承知いたしました。では……」
後ろに控えるオリオールを見上げると、彼は頷いて静かに部屋を出て行った。そして護衛騎士達も一名を残して退室した。しかしその一名が邪魔だ。ロクサーヌは少し考えると、アルベールに話しかけた。
「殿下、どのような話をご所望かは存じませんが、お耳汚しになるのではないでしょうか……」
ちらりと騎士の方を見て不安そうな顔をしてみせると、アルベールはあっさりと護衛を部屋の端に遠ざけてくれた。娼婦として生きてきた〝ヴィクトリーヌ〟の話を聞こうというのだ、そのくらいの気遣いはしてくれても良いはずだ。しかし、まだ邪魔者が残っている。マリアンヌだ。再び視線で訴えてみると、アルベールは恋人の手を握った。
「マリアンヌ、この後人気の歌劇が始まると聞いて、席を取ってあるんだ。きっと君の気に入る上演だと思うよ」
この説得はどのくらい続くのかと思っていたら、ロクサーヌの予想に反してマリアンヌはあっさりと席を立った。
「分かりましたわ、アル様。私、もう気が済みました。この者のつまらない過去は聞くまでもありませんし、所詮負け犬の話でしょう?」
心底どうでも良さそうな口調でそう言うと、マリアンヌは護衛を連れて出て行った。
この劇場の内側を知らず、それなのに没落したリベ家の名を知っているマリアンヌ。ロクサーヌに向かって〝ヴィクトリーヌ・リベ〟と呼んだあの態度は、虚言や知ったかぶりではないと感じた。しかし、彼女が何を思ってここに来たのか、まるで分からない。
「これで、あなたも少しは安らげるかな」
気の強い恋人を無事に送り出して安心したのか、アルベールの方がよほどほっとした顔をしている。それでもう少しからかってみたくなったロクサーヌは、正面からじっと彼の目をみつめてみた。するとアルベールの視線はそろりとさまよい、ロクサーヌの胸元に落ち着く。大きく開いた襟からこぼれるものが、気になるようだ。
「まさか、あなたがあのヴィクトリーヌとは思わなかったよ……。雰囲気も体つきも、私の記憶にあるあなたとまるで違うから……」
「ええ、今夜は黒髪にしておりましたから。……わたしがこのような女になっていて、驚きましたか?」
腕を寄せ、見せつけるように指を口元に沿わせると、胸元がより強調される。バーメイドの先達から習ったこの仕草の効果は折り紙付きで、アルベールは食い入るように見ている。この〝王子サマ〟は、恋人が不在になったとたんに年増の娼婦に興味を持ったようだ。
「実は……あなたも知っているかと思うが、私は元いた婚約者を廃して、あのマリアンヌを新たな婚約者に据えたんだ。しかし、その……元の婚約者の処遇に、悩んでいて……」
ロクサーヌがみじろぎする度に途切れる言葉に、笑みが浮かぶ。この年でこれほど色に溺れていては、伴侶となるマリアンヌはさぞ苦労するだろう。そう考えるだけで面白い。
「彼女は新たな婚約者と縁をつなぐことも、修道院に入ることも拒んでいる。私も愛妾として召し上げたいのは山々だけど、マリアンヌが……。しかしこのままでは、王族としての私の……立場というものが……」
徐々に身を乗り出してくるアルベールに気付かないふりをしてほほ笑んでいるのが、面倒になってきた。
「つまり、その邪魔になったご令嬢に身を引くよう説得するために、似た境遇だったわたしの考えを知りたいのですか?」
核心をついたつもりのこの一言を、アルベールは即座に否定した。意外な思いで若い王子を見つめると、アルベールは澄んだ目をして、
「彼女は今も私のことを愛しているんだ。私もそんな彼女を愛しく思うから、その想いを尊重してやりたい。だから、彼女を私の愛人としてこの劇場に匿ってやりたいと思っているんだ」
ロクサーヌの想像を超える答えをくれた。
(この〝王子サマ〟は、馬鹿なのかしら……)
一方的に婚約を破棄されるという屈辱を味わい、彼女は絶望したはずだ。その上で、別の女の手を取ったこの男に懸想したままでいるなどと、どの面を下げて言っているのだろう。何だか新種の珍獣でも発見したような気分だ。劇場の舞台に立つ珍獣の方が万倍もかわいいが。
「マリアンヌには、あなたが言ったように、諦めてもらう方法を探すためにあなたに会うと言ってあるよ。でも本当は、ここで生きるあなたが無事なのか、ここが安全な場所であるのかを知りたかった……」
言いながら、アルベールが勝手に隣に座ってきた。そしてこの節操なしは、ロクサーヌの手を握って腰を抱く。部屋の端に侍る騎士がみじろぎしたのか、かしゃり、と小さな音がした。
「今夜ここであなたと出会えたことは、神が紡がれた運命に違いないと思うんだ」
流れるように女を口説くその手腕は感心するが、本当に節操がない。何も実兄の元婚約者で、十も歳の離れたロクサーヌに食指を伸ばさなくてもいいだろうに。呆れながらアルベールを見上げると、口づけを強請っているとでも思ったのか、顔を寄せてきた。ここで屈辱や怒りを感じたなら抵抗したのだが、生憎とロクサーヌの心は動かない。
いつもの如く面倒になったロクサーヌは、流されることにした。目を閉じて全てを受け入れている間に騎士は退室したようで、静寂の中でアルベールが忙しなく身動きするかすかな音と、互いの息づかいだけが聞こえる。
ロクサーヌはアルベールに腕を絡めて体を押し付ける。自分の中の炎が、この〝王子サマ〟に燃え移ればいいのにと思いながら。




