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4 炎上

「ヴィクトリーヌ嬢、すまなかったな」


 謝罪の言葉を口にしながら、この男は許されて当然だと思っているのだろう。そんな傲慢さをかつての自分も持っていた。しかしロクサーヌは、一切手を緩める気はない。


「それは何に対する謝罪でしょうか。ここに妃殿下をお連れしたことですか? それとも、妃殿下にわたしのことを知られてしまったことですか? ああ、それとも……彼女に恋するあまり、我が家を狙う者共の暴挙を許したことでしょうか?」


「お言葉が過ぎますぞ、ヴィクトリーヌ嬢っ!」


 顔色を変えた護衛騎士が、ロクサーヌを射殺さんばかりの目で睨みつける。しかしそれをテオドールが止めた。そして、殺気立つ騎士達ばかりか支配人までも退出させてしまった。


「――何故、あの時にそうやって私を糾弾しなかったのだ」


 二人きりになり、掠れた声でぽつりとそうこぼしたテオドールは、まるで恐れているかのようにロクサーヌと視線を交わそうとしない。この男は、無力な娼婦を相手に怯えているのだろうか。またしてもロクサーヌの心に灼熱がよぎる。


「わたくしが何を言ったところで無駄だったでしょう。そもそも王家に逆らう気などなく、我が家は忠実な臣下であることを誇りとしておりましたし。そんなものに雁字搦めに縛られて――この(ざま)ですが!」


 両手を開いておどけてみせるが、テオドールはやはりロクサーヌを見ていない。彼が見ているのは在りし日の〝ヴィクトリーヌ〟であって、目の前にいる娼婦ではないのだろう。そうであれば良いと、ロクサーヌは思う。


(だって、王太子の婚約者だった哀れなヴィクトリーヌは、永遠に失われてしまったもの。この方は何の思いも晴らすことができないまま、腐らせてゆけばいい)


 ロクサーヌの満面の笑みがそんなに珍しいのか、テオドールが瞠目している。あまりに愉快で、市井の女のように手を叩いて笑いたい気分だ。

 恋も、家族も、友人も、貴族としての矜恃も、侯爵家の娘としての地位と信頼も、王太子妃としての未来も。何もかもを失った今になって、ロクサーヌの一挙手一投足でこの男を右往左往させられるのか。だとしたら、なんて痛快なことだろう!


「……でも、全ては過ぎ去ったこと。今のわたしには何の関わりもないことですわ。だから殿下、あなたの願いを仰ってください。このわたしに、何をお望みですか?」


 ともすれば笑み崩れてしまいそうになる自分を叱咤して、ロクサーヌは問いかける。そこに甘い毒が潜んでいるとも知らず――いや、察していても、テオドールはこの喜劇の舞台でロクサーヌの手を取るしかないのだろう。



 ◇



 テオドールと別れたロクサーヌは、豪華な装いのまま支配人と共に別室に向かっていた。

 あの後、二人のいる部屋を再訪した支配人が、例の第四王子がロクサーヌのことをまだ嗅ぎ回っていると耳打ちしてきた。あの〝王子サマ〟は、劇場で目につく()()の女に手当たり次第接触していたらしい。おかげで場内のあちこちに設けられたバーカウンターは、彼の話題で持ちきりなのだという。


(あの子――リリアーヌだったかしら。今度会った時に〝王子サマ〟の話をしてあげたら、きっと喜ぶでしょうね)


 噂好きのあの娘は、はしっこそうな目を瞬かせて、ロクサーヌの話を聞いてくれるだろう。昨日までの自分ならば見向きもしなかっただろうに、今はそれがとても楽しいことのように思える。それもこれも、ロクサーヌの中に燻っていた埋み火をかき熾した、テオドール達のせいだ。


(今も昔も、あの二人だけがわたくしの心を燃やすのかも知れない)


 黙考にふけるロクサーヌを、支配人は咎めなかった。彼にはロクサーヌの胸に燃える紅蓮の炎が見えるのだろうかと、また空想めいたことを考えてしまう。


「オリオール様、あなたはいつかこのような日が来ると知っていたのですか?」


 いつもは口にしない主人の家名を、そっと唇に乗せる。すると、冷静なはずの支配人が面白いほどに反応した。


「……まさか。私とて再びあのような……いや、あなたに言うべきではないな。だが、あなたをあの方々に利用させるつもりなど、なかった……」


 どうやら困らせてしまったようだ。ロクサーヌは彼を責めているわけではない。ただ運命の不思議に思いを馳せただけで、他意はなかった。思い返せば、このオリオール家の当主には世話になってばかりなのだ。

 この劇場に来た時のロクサーヌはいかにも怪しげな、下手な髪染めでまだらになった頭の十七の娘だった。最初から没落した貴族だと見抜かれていたのは確かだが、彼にはむしろ、軽々に身を売るなとたしなめられた。元貴族の子女として身を立てる道は他にもあるのだから、と。

 そんな彼の優しさを拒んだのはロクサーヌ自身で、両親を亡くしたあの頃は、「お前の器量では劇場の娼婦はおろか、下働きが関の山だろう」という嘲りの言葉を頼りに劇場に押しかけるほど捨て鉢になっていた。彼はそんな娘を野放しにして私娼に身を落とさせるよりはと、手元に置くことにしたのだろう。彼はロクサーヌの話を聞き、金を貯めて両親の墓を自分の手で整えてやれと言ってくれた。しかし皮肉にも、彼のその言葉とテオドールの援助が引き金となって、ロクサーヌは娼婦となる道を選んだ。


 両親を亡くした時、教会の墓地に葬る金もなく、土地も持たないロクサーヌと兄弟は、泣く泣く遺体を燃やした。教会の厚意で先に仮葬していた母と、亡くなったばかりの父を一緒に。生きている間も、死んでからも、二人を離れ離れにはできなかった。

 先に病を得た母を看取り、その後気力をなくし衰弱するばかりの父に向かって、いずれ母を火葬せねばならないのだとは言えなかった。そのまま後を追うように父が没した頃には、平民となってから一年が過ぎていた。家族は三人だけになってしまい、切り崩していた蓄えは尽きようとしていた。

 そして不憫な遺族達を気の毒がった教会の人々がかき集めてくれた薪を積み上げ、三人で真夜中に火葬をした。その時の炎の色と、夜空の星の瞬き、そして煙と臭気の混じるひんやりしたあの空気の感触を、ロクサーヌは死ぬまで忘れないだろう。ロクサーヌの胸にある熱は、きっとこの時の炎の名残りだ。


 両親の遺灰を墓に納めることができたのは、ロクサーヌが娼婦となって五年がたっていた。どんなに不快な目に遭っても耐えられたのは、そこまでだった。肩の荷が降りたからだろうか、それからのロクサーヌは、糸が切れたように無気力になった。その様子にオリオールは眉をひそめたが、悪いことばかりではなかった。屈辱に耐えるまでもなく、どうでもよくなったのだ。だからロクサーヌとしては、特に不便なことはなかった。没落貴族と揶揄されても、貴婦人ぶって滑稽だと他の女達に笑われても、全く心が動かなくなったのだから。それに元々公娼として保護され、中産階級以下の者は入場すらできないので、無体を働かれることも滅多になくぬるま湯に浸かるような日々をただ生きた。


(――もうどうでもいいと思っていたのに、わたくしはまだ自分自身を捨て切れていなかった)


 昔のように美しいドレスを着て、金色の髪をしているから、過去の感情が蘇ったのだろうか。だとしたら、ロクサーヌは随分と形にこだわる人間だということになる。いや、かつての自分はそれこそ四角四面の生真面目な性質だった。だからセリーヌに負けたのだ。


「あなたには心の底から感謝しておりますわ、ご主人様。わたしのことを気遣ってくださっていたことは、忘れておりません」


 貴族ではなく平民の富豪、それも人柄が良く〝ヴィクトリーヌ〟に害意のない、身元の確かな紳士。オリオールはそんな狭い条件に当てはまる者だけを、ロクサーヌに宛てがうよう手を回していた。それはいわゆる上客というもので、あまりにあからさまな贔屓ぶりに、オリオールはロクサーヌを愛人の一人に加えたのではないかと囁かれていたらしい。

 しかし当時のロクサーヌは、オリオールがどんなに心を砕いてくれていたのかも知らず、一人前に客を取っている気になっていたのだ。若かったとはいえ、なかなかに恥ずかしい過去だ。そして時間もたてば周りが見えるようになり、ロクサーヌは己の幸運を知った。

 〝ヴィクトリーヌ〟であれば、支配人の気遣いに心底感謝をして、襟を正しただろう。だがロクサーヌは、荒れに荒れた。自分の力で金を稼いでいるという矜恃を心の支えにしてきたのに、それが全て誰かの施しによるものだったと知って、泣いて暴れた。これもまた、恥ずかしい過去だ。


 今ならば、上客達は元貴族のロクサーヌを重宝がってくれていたのだと分かる。凋落したとはいえ上流階級にあった令嬢の知識と教養は、彼らにとってそれなりに価値あるものだったのだと。しかし当時のロクサーヌは、「家畜のように囲って餌を与えていたのか」とオリオールを詰って八つ当たりした。

 そんな若き日は過ぎ去り、両親の墓を建てて抜け殻のように生きるロクサーヌに、客の何人かが後妻か愛人にと声をかけてくれた。しかしその全てを断り、今は無気力なバーメイドとして劇場に立っている。


「――あなたのお父上に、恩義がありました」


 初めて聞く事実に、しかしロクサーヌは驚かなかった。オリオールの態度はいつも冷徹な商人然としていたが、端々に見える罪悪感のようなものにいつからか気づいていた。父とどのような縁があったのかは与り知らぬまでも、彼が父に対して何か負い目があることは察した。オリオールが父の代わりにロクサーヌに贖罪をしていることも。

 ロクサーヌはオリオールの言葉に何も返すことなく、歩き続けた。そしてオリオールの方も、それきり無言になった。

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