3 灼熱
こんな馬鹿馬鹿しい茶番に付き合っていられない。ロクサーヌは辞去の許しを乞うこともせず、扉を開けようとしたのだが。
「待て! 待ってくれ、ヴィクトリーヌ。私が悪かった、頼むからこちらの話を聞いてくれ」
ドアノブを握ったところで呼び止められた。小さく舌打ちするロクサーヌに、護衛騎士が息を飲む。もう貴族でも何でもないのだから、それほど驚くことでもないだろうに。随分とお育ちの良いことで、とほほ笑みかけると、騎士は当惑した顔のままロクサーヌの行く手を遮った。
結局連れ戻され、逃さないとばかりにお茶やら菓子やらを供されたロクサーヌは、それらに一切手をつけずに王太子夫妻と向き合う。今さら何の用があってこんなことをしたのかなど知りたくもない。ただ、面倒ごとをさっさと終わらせたかった。
口をつぐむロクサーヌとは対照的に、セリーヌは夫にどれだけ諌められても黙らなかった。やはり、性格というのはそう簡単には変わらないらしい。かつて伯爵家の娘だった彼女は、昔からこんな風だったのだ。無邪気を装った悪意を絶え間なく放ってくる、厄介な女。それが当時の自分が下した彼女への評価だった。
恐らく、テオドールは一人で訪ねてくるはずだったのだろう。そこに彼女が無理やりくっついて来たことは容易に想像がつく。かつて侯爵家の娘だった〝ヴィクトリーヌ〟が劇場で働いていると知り、無垢な顔の下で嘲笑うために来たことも、そんな彼女の残酷さを知っていてもなお、同行を許してしまう彼の甘さも。
セリーヌ曰く、この席を設けたのはあの〝王子サマ〟達が原因なのだという。以前からテオドールの末弟である第四王子の行状に注意していたので、彼がこの劇場に密かに出入りしていることは把握していた。しかし、今日のように恋人を連れて遊び回るような真似を始めたので、いよいよ締め付けを厳しくしたところだった。そんなことを、彼女は自分の功績であるかのように滔々と語った。
このおしゃべり女に事情を話して聞かせた愚かなテオドールは、彼女の後を無理に引き取って続ける。
突然そのような行動に出た末弟を訝った彼がさらに調べさせると、末弟は秘匿していた元侯爵家令嬢のことを嗅ぎ回っていると分かったのだそうだ。それでいよいよ警戒したテオドールが、本人に詰問したところ――。
「あれは、ヴィクトリーヌ嬢が生存していることばかりか、居場所まで掴んでいた。そのような伝手も頭もない奴だというのに、私の目をかい潜って突き止めたとは思えなかった。案の定、最も親しくしている令嬢の助言を受けていることを、白状したのだが……」
「そのお方でしたら、恐らく先ほどわたしがお会いしたお嬢様かと。随分と派手な装いをなさっていたので、とても印象的でした」
気怠い表情でそう答えると、テオドールが気まずそうな顔をした。末弟の不手際を指摘されたからだろう。しかし彼の機嫌など知ったことではないので、ロクサーヌは笑顔一つ見せずに思案を続ける。
この劇場で働くにあたり、〝ヴィクトリーヌ〟はその名を捨て、公式には病死したことにした。そしてテオドールとのいかなる繋がりも、今日に至るまで持ったことなどなかったはずなのに。そう思ったところで、はたと気づく。そして沈黙を守っている支配人の方をちらりと見ると、ただ静かな眼差しが返ってきた。
ロクサーヌ自身が拒んだつもりでも、彼を通しての縁は切れていない。慣れとは恐ろしいもので、ロクサーヌは今の快適な生活がどのような資金によって賄われたものであるのかを忘れていた。無関心になっていたことを差し引いても、未だに世間知らずが抜けていないようだ。
修道院に入ることを拒み、テオドールからの施しを拒んだ〝ヴィクトリーヌ〟は劇場に潜り込み、自ら娼婦となる道を選んだ。両親を死に追いやった男の息のかかる修道院になど死んでも入りたくなかったし、彼の金で両親の墓を建てるなどもっての外だ。同じように救済の手を拒んだ兄弟は散り散りになったが、後悔はなかった。しかし〝ヴィクトリーヌ〟が劇場のメイドとなったことを知ったテオドールは、再びいらぬ情けをかけてきた。
彼が隠しきれていない匿名での資金援助を劇場に申し入れたことで支配人にロクサーヌの正体が露見し、彼の差配で援助を受け入れざるを得なくなったのだった。
当初、厄介ごとは勘弁だとばかりに慇懃に断っていたのは支配人だったが、次第に焦れたテオドールが自らの身分を盾に脅しをかけてきたことで、ついに折れた形で受け入れたのだ。その時以来、支配人に対しては恩義を感じると同時に、国内有数の商家の主人に弱みを握られたことに恐れを抱いている。だが、やはり感謝の念が大きい。彼は援助など不要と断じるのは早計だとロクサーヌを説得し、テオドールが出した金は全て「芸術の振興」の名目で受け取り劇場の娼婦の待遇改善に使うという、双方の落とし所を示してくれた。この対応が、不本意ながら後のロクサーヌを救った。
こうしてテオドールは「可哀想な元貴族令嬢」を救って多少気分が良くなり、ロクサーヌ達娼婦は無理に客を取らされることも、不衛生な環境に甘んじることもなくなり、以前よりも快適な生活を手に入れた。当初はそのことに屈辱を感じていたが、やがて麻痺し、いつしか当然のもののように享受して今に至る。
「……この劇場で私の本当の過去を知るのは、支配人のオリオール氏だけです。私は彼が漏らしたとは思いませんが」
きっぱりと言い切ると、テオドールは眉間にしわを寄せた。そして口を開きかけたところを、ロクサーヌが遮る。
「王太子殿下の配下の方が漏らしたとも思っておりません。ただ、その王子殿下と親しいというご令嬢については気になります。彼女は私に対して、〝貴族崩れのみっともない女〟と言いました。私の出自が貴族だというのは劇場で働く者には周知の事実ですが、他人の過去を簡単に明かすような無作法な人間は、ここにはおりません」
先手を取ってそちらの手落ちではないと言ったことでテオドールは表情を緩めるが、その後に続いた言葉で再びまとう空気がひりつく。そこに、二人の間の張り詰めた空気を無視するセリーヌが、能天気な声を上げた。
「わたくしは時折茶会で会いますが、彼女は――マリアンヌは良いご令嬢ですわよ。時折不思議なお話を披露するような朗らかな方だから、この劇場に仲の良い者ができたのでしょう」
大輪の花のような笑みを浮かべるセリーヌは、歳を重ねてもなお美しい。しかしロクサーヌは騙されない。昔はこの笑顔に欺かれたが、彼女は無邪気を装って嘘をつく。だが、とロクサーヌは胸中でせせら笑う。マリアンヌを無作法と断じたことが気に入らないにしても、あの陰険な女を「良いご令嬢」とは、少し苦しい評価なのではないか。愉快なので、ロクサーヌはもう少し遊ぶことにした。
「貴族であれば、貴婦人相手にはお優しくても、下賤の者には厳しいものですが……そのマリアンヌ様という方は、例外なのでしょうね。先ほどは随分と楽しそうなご様子で……この劇場について何もご存知ないようでしたから、ここのメイドと親しくなられたのでしょうか」
バーメイドが娼婦だとも知らずにはしゃいでいた愚か者。先ほどよりも容赦のない言い方をしたロクサーヌに、男性達は顔を強張らせた。セリーヌだけがきょとんとした顔をしているが、これも演技だ。どんどん温度が下がるロクサーヌの目を真っ向から見るような女が、無知であるわけがない。
すると、大切な妻が冷たい視線に晒されるのが嫌なのか、娼婦という言葉がいつ飛び出すか気を揉むのが嫌なのか、ついにテオドールがセリーヌに退席を命じた。思わぬ仕打ちだったようで、セリーヌの目に焦りが浮かぶ。それを見た瞬間、ロクサーヌの心に灼けるような何かが芽生えた。十一年前には手も足も出なかったこの女を、今ならば――。
「わたくしだけを仲間外れにしようというの、テオ。そんな意地悪をなさるだなんて、わたくしは何かあなたの気に触ることをしてしまったの?」
甘えた声で夫を呼ぶセリーヌに、出て行けと命じたはずのテオドールが早くも頬を緩めている。これも過去に嫌というほど見た光景だ。しかしロクサーヌは昔のように唇を噛むどころか、自分の口元が勝手に弧を描くのを抑えられなかった。
自分達が演じていた「修羅場」とは、これほど滑稽なものだったのか! 初めてそう思った。
「――殿下、聡明なあなた様はわたしが何者であるのかご存知なのでございましょう? でしたら、わたしが〝お客様〟と二人きりになるのは当然のことと、お聞き分けくださいますわよね?」
猫撫で声で妻を諭すテオドールと、それにやんわりと反抗していたセリーヌは、ロクサーヌからの横槍に唖然として固まった。そして数秒後、淑女の仮面を投げ捨てたセリーヌが音を立てて立ち上がる。
「よくもそのような、恥知らずなことをっ……」
「もう小娘でもない女に、ましてやバーメイドに恥など無用のものですわ」
ロクサーヌの愉悦の笑みが、嘲笑に変わる。胸の内が燃えるように熱かった。あの日、公衆の面前で屈辱を味わわされたあの時に、どうしてこんな風に開き直って笑うことができなかったのだろう。
テオドールの顔が、何か恐ろしいものでも見たかのように歪んでいる。そしてセリーヌの美しい顔も。
「……テオ、わたしくはカトリーヌ・ヴォリの歌唱曲を聴いて参りますわ。今日は公爵夫人が観劇に来ているはずですから、ご一緒させていただくことにいたします」
テオドールの前で嫉妬に狂い醜く吠えるのは〝ヴィクトリーヌ〟で、セリーヌは可憐に睫毛を震わせて困惑する役目だった。そうでなければならないのだろう、今も。
手の甲に筋が浮かぶほど強く扇を握って出て行くセリーヌの背中を、ロクサーヌは冷めた目で見つめた。