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2 狼煙

 ロクサーヌが通されたのは、娼婦風情が立ち入ることなどまずない、賓客のための部屋だった。調度品からそう察したロクサーヌは、胸が重くなる。嫌な予感がした。そして衣服を改めるよう命じられ、渡された着替えを見てさらにその予感は強くなった。

 上等な絹織のドレスは、目の覚めるような青色だった。その滑らかな感触に、ロクサーヌはめまいがしそうになる。まるで貴族だった頃に戻ったような錯覚を覚えて、喜びどころか悪寒に震えてしまった。もはや今のロクサーヌには、呪われた衣装にしか思えない。

 支配人の手配に遺漏はなく、いつのまにか現れた小間使いの女達によって着付けられ、金髪のかつらまで被せられてしまった。鏡に映る女は確かに貴婦人のような姿になっていたし、女達も褒めそやしたが、当のロクサーヌには偽物にしか見えない。

 既に貴族ではなくなって十一年だ。その間に失われたものは容色だけでなく、貴族としての気品ももはやない。ここにいるのは、ただの無気力な娼婦ロクサーヌだ。かつての己の象徴だった金色の髪を黒く染め、本当の名を捨てた劇場の娼婦。鏡に向かって歪んだ笑みを浮かべるロクサーヌを見て気が咎めでもしたのか、支配人が声をかけてきた。


「こうしていると、まるでかつてのあなたが蘇ったようだ、ヴィクトリーヌ様」


「やめて。二度とそう呼ばないでと言ったはずです」


 鋭い声が出てしまったが、支配人は咎めなかった。それどころか懐かしげに目を細めさえしたので、ロクサーヌは居心地悪く目を逸らすしかなかった。呼ばれなくなって久しい己の名を聞いて、心が勝手にざわめく。

 小間使い達が下がったのを確認すると、ロクサーヌは支配人に詰め寄った。


「あなたはただのロクサーヌとしてわたしを受け入れてくださったものと思っていましたが、違うのですか? これからわたしに何をさせようというのです」


 まさか、ロクサーヌの正体を明かした上で、娼婦として身を売れとでも言うのか。いくら無力な娼婦の身でも、二度と〝ヴィクトリーヌ〟と名乗るつもりはなかった。返答を待つロクサーヌを、支配人は小揺るぎもせずに見返してくる。そして何か思案するように俯いたかと思うと、


「私はあなたを娼婦ロクサーヌとして扱ってきたし、それはこれからも変わらない。だが、あなたとの面会を願うお方は、その限りではないのだ」


 そんな不可解なことを言った。

 訳が分からないが、ロクサーヌにこの扮装をさせたのは「面会を願うお方」のためのようだ。だったら大人しく高級娼婦でも買っていれば良いものをと唇を噛むと、紅が落ちると支配人が咎めた。


「とにかく、あなたにはそのお方に会ってもらうしかない。今後のことは、まあ……自ずと決まるだろう」


「今後などわたくしにはないわ」


 言ってしまってから後悔したが、もう遅い。彼に向かって吐いて良い言葉ではなかった。それに、ただの娼婦がわたくしだなんて。

 貴族としての自分など、とうの昔に捨て去った。そう思っていたのに、最高級のドレスをまとったくらいで簡単に覆されてしまったのだ。その事実にがっかりするロクサーヌを無視して、支配人は部屋を出るよう促した。

 言われるままに面会者の許に向かっていると、ロクサーヌは奇妙なことに気付いた。どうも、先ほど声をかけられた客に告げられた部屋に向かっているようなのだ。意を決して支配人にそれを訊ねると、彼はただ首を振るだけだった。それが何よりの答えであると判断したロクサーヌは、それ以上何も口にせず支配人の後ろを歩く。

 やがて到着したのは、やはりあの客の部屋だった。では、あの男がロクサーヌの面会希望者かと言うと、違う。彼は仲介役だったのだろう。ただ、高貴な者が娼婦を買う際に代理人を立てるのはよく行われることだが、支配人がわざわざ先導するのは尋常ではない。


 ノック数回で静かにドアが開き、薄暗い廊下に明かりが細く漏れた。宿泊棟は、どの階層も照明が控えめなのだ。もしも客が知った顔とばったり会ってしまっても、「暗くてよく見えなかった」ことにするために。

 そして支配人が中にいる誰かと二、三言葉を交わすと、まずロクサーヌが中に通され、続いて支配人が部屋に入った。その後ドアを閉めたのは、やはりあの客の男だった。目が合うと、ごく真面目な顔で目礼されたので、うっかり頷き返してしまった。これは娼婦がすべき仕草ではない。

 男を見て、ロクサーヌは思い出した。かつての自分は、影のようにひっそりと立ち、目が合うと控えめに目礼を返す存在を何度となく見てきたのだ。

 恐らく護衛騎士であるその男は、ロクサーヌに音もなく寄り添う。もはや逃げられないだろうと悟ると、ここで誰に会うのかも分かってしまった。


 顎を引き、震えそうになる手を握りしめ、ロクサーヌは前を向いた。こうして〝娼婦ロクサーヌ〟は、かつての婚約者だった王太子テオドールとの再会を果たしたのだった。


「……久しいな、ヴィクトリーヌ嬢」


 呟くようにそう言った声は、記憶の中の彼のものよりも低い気がした。時は流れ、彼は少年から青年に、そして父親となったのだから当然なのだろう。

 本来であれば、名ではなく家名で呼ばれるはずなのだが、生憎と〝ヴィクトリーヌ〟の生家は既にない。目の前の男によって潰された。

 昔と変わらない淡い金髪に緑の目をしたテオドールを見据えると、ロクサーヌはかつての己に恥じぬよう、精一杯のカーテシーを行った。すると、彼の隣に立つ王太子妃セリーヌが溜め息を漏らした。そう、ここにいるのは〝ヴィクトリーヌ〟の生家を没落させた元凶と、その伴侶だ。

 この劇場に身を寄せると決めた時は、彼らに二度と(まみ)えることはないと安心したというのに。王太子夫妻は自分達の幸せを追うのに夢中で、〝ヴィクトリーヌ〟のことを思い出す日など永遠に来ないと思っていたのに。ロクサーヌの胸に、再び黒いものがじわりと滲む。


「――私達に対してそのように畏まらずとも良い。どうか顔を上げてくれ」


 下位の者は、上位の者に許されるまで決して口を開かず、顔を上げない。その作法を頑なに守るロクサーヌに根負けしたテオドールが声をかけた。しかしロクサーヌは、顔を上げても彼らと目を合わせなかった。顔も見たくない人間が二人も揃っているのだ。この場に留まっているだけでありがたいと思ってほしい。


「やはりヴィクトリーヌ様は昔と変わらないわね。お元気そうで安心したわ」


 セリーヌのこの一言で、場の空気がびしりと凍りついた。彼女はあの〝王子サマ〟の連れのように、この劇場で働く女がどういうものか知らないはすがない。こみあげる怒りを自制しようとするが、ロクサーヌ自身の心がそれを拒む。貴族としての人生を終わらせた相手に向かって、変わらない、お元気そうとは何という言い草か。


「過日とお変わりないのは、殿下の方でございます。それどころか、ますます若々しくおなりですわ」


 いつまでも若い頃と変わらぬ無分別な女だ。暗にそう言って口元に笑みのようなものを貼り付けたロクサーヌを見て、セリーヌは怯えたように夫の腕にすがる。その仕草は、かつての彼女にそのまま重なった。そんな妻に何か思うところがあるのか、テオドールは渋い顔をしている。


「セリーヌ、少し控えていろ」


「何故ですの? わたくしだって、ヴィクトリーヌ様とお話をしとうございます!」


 いっそ無邪気なほど相手の心情を無視するセリーヌに、ロクサーヌは内心で唇を噛む。こうして二人が口喧嘩をするのを見るのは十一年ぶりだが、当時と同じ言葉が胸中に浮かぶとは思わなかった。


(……このように無粋で無遠慮で無神経な女に、わたくしの全てを明け渡すことになるだなんて)


 昔の自分は、婚約者を差し置いて彼の傍に侍る彼女を見て、身分を弁えず周囲を混乱させる彼女を見て、そして……〝ヴィクトリーヌ〟が恋した人から愛を告げられる彼女を見て、嫉妬の炎を燃やしていた。しかし、今のロクサーヌの心は死んでいるも同然だ。みすみす生家を没落させてしまった悔恨が燻っているだけの、空虚な心のはずだったのだが……。

 何をしに来たのか知らないが、わざわざ呼びつけておいてこんな痴話喧嘩を見せつけるとはいい面の皮だ。テオドールが時折ロクサーヌの方を気にしているのが、さらに苛立たしい。しかし何より嫌なのは、ロクサーヌ自身の中にまだこんな感情が残っていたことだった。このままではきっと、怠惰に穏やかに死んでいくことができなくなる。


「御用がないのであれば、わたしにはこなすべき役目がございますので失礼させていただきます」


 そう言い放って踵を返すロクサーヌを止められる者は、この場にはいなかった。支配人も護衛騎士も、戸惑った顔で互いを見ている。そして主人たる王太子夫妻の喧嘩は終わりそうになかった。

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