15 波紋
間近で見るテオドールの瞳は、少し潤んでいる。ロクサーヌはそんな彼から目が離せなかった。ともすれば、かつて恋をした少年の面影を重ねてしまいそうになりながらも、またこんな隙を見せるこの男がひどく憎らしい。ロクサーヌはそんな危うい間にいた。しかし、その心に灯る炎は決して消えず、ふと吹いた微風にゆらゆら揺れているに過ぎない。そのはずだった。
「い、いや、大事ない……情けないところを見せてしまった」
肩の温もりが離れたことで、ロクサーヌは幻を振り切って現実に戻る。この男はすでに〝ヴィクトリーヌ〟の愛しい殿下ではないのだ。そして自分は、娼婦のロクサーヌだ。
「いいえ。わたしも、その……マリアンヌ嬢のことで驚いてしまって……」
あの珍獣は、一体何を〝やらかした〟のだろう。まさかロクサーヌが伝授した技で、アルベールではなく義兄となるテオドールを誘惑するとは。本心から驚くロクサーヌを、テオドールは疑っていないようだ。
「もともと彼女と接する機会は多くなかったのだが、近頃はよく分からない名目で面会を求められることが増えていた。アルベールのこともあり、こちらとしても彼女と話をしたいと思っていたのだが……」
「過剰に接近された、ということですのね」
言葉を継いだロクサーヌに、王太子は先日のセリーヌのような苦い顔で頷いた。
「彼女は自分には魅力がないのだろうかなどと言いながら、私の手を取ったばかりか腕を掴んで放さなかった」
そんなことが続いたのだと、げんなりとした表情で言うテオドールを、ロクサーヌは何食わぬ顔で慰めた。やはり、あの珍獣はアルベール用の策をこの男に実行したようだ。あれは妻一筋のテオドールには逆効果なのだが。
親切ぶって「まあ。誰かに見咎められてはいけませんわね」と眉をひそめれば、テオドールは心配ないと簡単に首を振る。
「セリーヌ殿下が何もおっしゃらないのであれば、問題はないのでしょうが」
「誰か」を妻と想定していなかったのか、テオドールの引き結んだ唇が微かに震えた。それとも、セリーヌの抜け目のなさを思い出したのか。かつてセリーヌとの逢瀬を重ねては目撃者を作り、〝ヴィクトリーヌ〟の耳に入れさせた男にしては隙がある。あれはセリーヌの入れ知恵だったのだろう。目撃者が親切ごかして何度もご注進してくれたので、〝ヴィクトリーヌ〟はセリーヌが側妃となることを覚悟したのだが、そこで自分が身を引いていれば未来は変わったのだろうか。考えるが、テオドールとセリーヌだけではないいくつもの意志が働いていたあの陰謀は、やはり〝ヴィクトリーヌ〟の決断一つで避けられるものではなかったのだと思い直す。
「あのご令嬢とアルベール殿下のことを、わたしには何とも言えませんが。……もしかしたら、彼女はアルベール殿下に嫉妬してほしいのかも知れませんわね」
知らぬふりを通すロクサーヌの言を、テオドールはやはり疑わない。
「嫉妬? しかし、アルベールとマリアンヌ嬢はすでに婚約している。この時期にあえて波風を立てようとするなど、正気とは思えぬが……しかし……」
屈んだまま悩むテオドールを、ロクサーヌは冷たく見下ろす。この男は己の過去の行いを忘れているのだろうか。〝ヴィクトリーヌ〟との婚約後にセリーヌに現を抜かしていた男がマリアンヌの正気を疑うなど、お笑い種だ。失笑しそうになるのを我慢して、微笑を浮かべる。
「アルベール殿下は女性に大変お優しいご気性のようなので、マリアンヌ嬢としては気が気でないのでしょう。実は、彼女に殿下の気を引く方法を尋ねられたこともありまして――」
「それは、どういうことだ? あの令嬢には、あなたに近づかぬよう私が命じたはず」
言葉を切って口元を手で覆うロクサーヌに、立ち上がったテオドールが詰め寄る。困った顔を作って後退るが、腕を取られてしまった。この男は、ロクサーヌの周囲についている見張りから報告を受けていないようだ。セリーヌはこれ以上ロクサーヌに夫を関わらせたくないということか。であれば、今夜こそこそと劇場に現れた夫をあの女はどう見るだろう。
「――その口ぶりでは、マリアンヌ嬢がここに来たのは一度ではないな。ヴィクトリーヌ、あの令嬢は今もあなたに迷惑をかけているのか」
マリアンヌの顔を思い出したのか、テオドールは心底煩わしそうな顔で吐き捨てた。彼女は妙に人を苛立たせる令嬢だが、アルベールしか見えていない様子だった。そんな令嬢に突然迫られて、テオドールはさぞ困惑したことだろう。ロクサーヌに助けを求めるほどに。
怯えた顔で「いいえ」と首を振りながら、ロクサーヌはテオドールを見上げる。アルベールよりも明るい緑の瞳が、一心に自分を見ている。そう錯覚してしまいそうになって、ロクサーヌは唇を噛んだ。
(わたくしは一体どうしたというの。お酒に酔ってしまっているのかしら。だからこのような、見苦しい感傷に囚われている)
ロクサーヌは、この再会を楽しむために生きることにしたのだ。この裏切り者に自分の牙が届いたことに心躍らせているのだ。それなのにふらふらと心が揺らいでしまうのは、長年の自棄な生活の賜物だろうか。自分が分からなくなりながらも、ロクサーヌは触れれば手が届くところに立つテオドールを苛む言葉を探す。
「マリアンヌ嬢は、時折アルベール殿下を追って来られるだけですわ。……それよりも、殿下には愛する女性以外の者からの秋波など、さぞご不快だったでしょうね」
〝ヴィクトリーヌ〟は、愛し合う二人の邪魔者だった。暗にそう言って罪悪感を煽る切ない顔をするロクサーヌに、テオドールが瞠目した。その顔を見るだけで、彼も揺らいでいるのが分かる。ロクサーヌの心のように。しかしまだ責めるのをやめてやらない。この残酷な男に、消えない傷を与えるのだ。
ロクサーヌは伸べた手でテオドールの頬に触れ、するりと通り過ぎ――彼の首にまわして引き寄せた。抗う間もなかっただろう。声を上げようとしたテオドールの口を、自らの唇でふさいだ。
触れた途端、全身が燃え上がったような錯覚を覚えてロクサーヌは震える。掴まれたままの腕が熱い。酒の味がする唇も熱い。まるで血の流れに乗って体の隅々までブランデーが巡り、それに胸の炎が燃え移ったかのように――。
目は閉じなかった。狼狽し、羞恥と怒りに燃える男の顔を見ないのはもったいない。テオドールの薄い唇は、決してロクサーヌを受け入れまいと引き結ばれている。どれだけ優しく口づけても、変わらない。だが、それでいい。アルベールのように簡単に受け入れてもらっては面白くない。
力ずくで体を引き離されたが、もう遅い。ロクサーヌは婉然とほほ笑んだ。これで、テオドールはセリーヌに決して言えない秘密を抱えることになったのだ。
「――なぜだ。あなたは私を憎んでいるのだろう」
あまりにも間抜けな、分かりきったことを言うテオドールが少し哀れになった。その青ざめた額には乱れた髪がかかっている。ふと気になって部屋の隅を見るが、やはり護衛は彫像のように動かない。かつてのセリーヌとの逢瀬にも彼のような護衛がついていて、全て黙殺していたのだろう。
「あら、お気に召しませんでしたか? あなた方は、人に言えない秘密を抱えることで愛を盛り上げていたのでしょう?」
いっそ無邪気に言い放ったロクサーヌに、テオドールが声を荒らげる。
「違う! 私とセリーヌは、決してそのような不埒な思いで――」
「ああ、そうでしたわ。あなた方の逢瀬の様子など、逐一わたしくしにも知らされる程に周知されていましたわね! 秘密などと申してはセリーヌ殿下に失礼でしたわ」
弁明を遮って朗らかに笑うロクサーヌを前にして、テオドールは打ちのめされたように立ち尽くしている。その顔には、得体の知れないものを前にした困惑と――少しの恐怖の色があった。自らの思いが彼に届いたのだと、ロクサーヌは満ち足りた気持ちで彼を見返す。かつての恋心は悪意となって、ようやく彼に届いた。
今だけは、テオドールはこちらを見る。罪悪感以外の感情を向けてくる。それがどうしようもなくロクサーヌの心の炎を煽る。じりじりと胸を灼くこの熱は、まだ全身の血を燃やしているのだろうか。高揚したまま、ロクサーヌはテオドールに歩み寄った。
「やめろ、来るな――私にこんなことを言わせるな!」
激しい拒絶にも、ロクサーヌは足を止めない。射殺さんばかりの目で睨まれても、今のテオドールなど怯えて牙を剥く犬のようなものだ。
「滑稽ですわね。王太子殿下であれば、下賤な娼婦などいくら斬り捨てようと批判する者などおりませんわ」
「やめてくれ! 近づくな!」
なおも逃げるテオドールに、ロクサーヌは容赦なく顔を寄せてその耳にささやいた。
「そうしてわたくしを拒めば良かったのです。あなたのお言葉さえあれば、過去のわたくしならばきっと自ら身を引いたでしょうに」
この男はセリーヌとの仲を見せつけ、誇り高い〝ヴィクトリーヌ〟の方から婚約の解消を申し出るように仕向けていた。肝心なことは何一つ伝えず、〝ヴィクトリーヌ〟を拒んだのだ。そこにあったのは、リベ家の後ろ盾を失うことと敵対への恐れのみ。それも王太后のおかげで消え、テオドールは晴れてセリーヌを手に入れた。許しがたい行いだった。
好きなカレー屋さんのランチをテイクアウトしてやろうと思っていたら、少し内容が変わっていて私の心にブレーキが。ナンは、切らずにそのままが良かった!あのでっかいやつがホイルに包まれてるのが良かった!でも食べたいので週末にでも買いに行きます。ブレーキ壊れてた。