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14 凪

 王太子妃セリーヌが訪れて以来、しばらくぶりにロクサーヌは貴賓室の椅子に腰掛けていた。そして今夜対峙している相手は――。


「お久しぶりですわね、殿下」


 白々しく挨拶をするロクサーヌに、テオドールはどこか疲れた顔で頷いた。王太子としての務めを果たした後にこんなところに忍んできたのだから、疲れていないはずがない。彼がそこまでして何を話したいのか半ば察しているので、ロクサーヌはただ待った。前回と違い、身分上の作法を重んじたのではない。自分でも意外なのだが、待ち望んでいたはずの彼をいざ迎えてみれば、思ったほど気分が高揚しないどころか苛立ちすら感じるのだ。

 テオドールはそんなロクサーヌの内心を悟ったわけではないのだろうが、戸惑った顔で視線をさまよわせ、落ち着かない様子で脚を組む。接待する側のロクサーヌが話題も提供せず沈黙を守っているので、どう切り出そうか迷っているようだ。婚約者だった当時の彼は、このような状況であっても自ら機転を利かせていたように思うが、出来の良い妻が隣にいることに慣れるとこうなってしまうのだろうか。考えて、ロクサーヌは自らの不機嫌の原因に気づいた。


(――ああ。わたくしは、殿下のこの態度が気に入らないのだわ。過去に捨てた女の前で油断を見せるなど、今までどれだけぬるま湯に浸かっていたのかしら)


 セリーヌは夫の手綱を握るあまり、過保護に過ぎたのではないか。王太子は昔の失態など帳消しになるほど出来が良いという評判を先日聞いたばかりなのだが、目の前の彼にそのような才気は見出せない。ただくたびれて、困惑している。

 ロクサーヌが現在のテオドールに落胆を覚えるのは、きっと〝ヴィクトリーヌ〟の思い出のせいだ。かつての憧れの王子様は、自分ばかりか父のことも裏切った男だというのに、未だに少女の頃の思いを捨て切れていなかったなどと認めたくはないが。初恋は忘れがたいものだといつか客がうそぶいていたのは、こういうことだったのかと、初めて理解した。


「……少しお酒でも召し上がって、お寛ぎくださいませ」


「ああ――ありがとう」


 てらいもなく礼を言われ、ロクサーヌは口元だけでほほ笑んでテオドールの酒杯を満たした。酒でも飲まねば笑っていられないのは、こちらも同じだ。ただ、気取られていないだけで。

 琥珀色に艶めく酒を一息にあおると、テオドールは少し表情を緩めてロクサーヌを見た。


「セリーヌが、またあなたを訪ねたそうだな。……妻がすまない」


 王太子から率直に謝られ、ロクサーヌは少しだけ心が疼く。かつての自分は、この男に謝られてばかりだった。


(この方は、いつだってわたくしに謝罪をして、セリーヌのもとに行ってしまったのだった……。彼女がそう仕向けたと分かっていながら、それでも行ってしまった)


 思えば、最初から勝ち目などなかった。テオドールとセリーヌは、あっという間に恋に落ちていったのだ。〝ヴィクトリーヌ〟が伸ばした手など届かない奈落へと、二人だけで落ちていくのを見ていることしかできなかった。いや、闇の中に落ちていたのはこちらの方で、彼らは光あふれる天に昇っていたのだろう。しかし、地の底で爪先立って天に焦がれていた哀れな娘は、もうどこにもいない。


「セリーヌ殿下より、お叱りを受けてしまいましたの。娼婦がアルベール殿下に良からぬことを吹き込んだのではないかと、大層気にかけておいででした」


 一応の真実を告げると、テオドールがまた沈痛な顔をして詫びてきた。王太子夫妻の心労は〝王子サマ〟のおかげで相当重なっているようだ。今度彼が来たら、もっと煽ってみよう。想像して、浮かべている微笑がうっそりと愉悦に歪みそうになる。


義弟君(おとうとぎみ)を思うが故と理解しておりますが、わたしとて痛む心はありますから、疑いを向けられるのは悲しゅうございました……」


 寂しげに、心の中では舌を出してそう言うと、テオドールは目を閉じて息を吐いた。こんな告げ口をしておいて、ロクサーヌはセリーヌとはまたマリアンヌについて話せたらと思っている。あの令嬢が王太子妃に及ぼす被害のほどを、ぜひ知りたいからだ。


「アルベールにもあなたにこれ以上の迷惑をかけぬよう、よくよく言い聞かせる。重ね重ね、私の身内がすまない」


「いいえ、迷惑などと――恐れ多いことですわ。ただ、あなた様がアルベール殿下を説得なさるというのは……」


 わざと気の毒そうに言い淀むと、テオドールは口を開きかけたものの、すぐに唇を噛んだ。婚約者を捨てて他の女に乗り換えた兄の言うことを、弟が素直に聞き入れるのだろうか――ロクサーヌが皆まで言わずとも、彼は察してくれたようだ。悲しげに見えるようにほほ笑むロクサーヌから、テオドールは目を逸らした。

 再び沈黙が降り、ちらりと部屋の端に控える護衛に目を走らせるも、向こうはこちらと目も合わせない。ロクサーヌが彼の主人を緩やかになぶっても咎めないということは、口出し無用と命じられているのだろう。やはりテオドールは、この部屋の中だけに留めたい何かを吐き出しに来たのだ。逸る気持ちを抑えて、ロクサーヌも酒杯に口をつけた。

 勢い余ってごくりと飲んでしまい、酒が熱の塊のようになって喉を滑り落ちる。たまらずむせそうになって、ロクサーヌは顔を伏せた。やはり強い酒は飲みつけないので、好みの赤ワインにすれば良かった。同じ酒だというのに、種類が違うと随分味わいも変わるものだ。蒸留酒に恨みを募らせるロクサーヌの様子に何を感じたのか、テオドールはくしゃりと表情を歪めた。


「……ヴィクトリーヌ。今さら何を言っても弁解にしかならないと分かっているが、私はリベ家を――いや、忘れてくれ」


首を振り、毒でも飲んでいるような顔でブランデーを空けたテオドールを見て、ロクサーヌの唇は弧を描く。


「まあ。我が家門は絶えて久しいというのに、王太子ご夫妻は未だにお心を傾けてくださるのですね」


 ありがたいことですわ、と止めのようにささやくと、輝かしい王太子殿下は亡霊にでも出会ったように青ざめた。反対に、ロクサーヌは少しずつ飲むうちに強い酒に慣れてきて気分が良い。いつも一口目に失敗してしまうのをいい加減にやめたいのだが、ついたくさん口に含んでしまうのでいけない。

 細工物の酒杯を握りしめて俯くテオドールに、ロクサーヌは干したブトウを勧めた。自分が甘いものを食べて口直しをしたいだけだったのだが、テオドールは慈悲を与えられたかのように感謝した。


「私は昔も今も、あなたの優しさに甘えてしまう」


 不意打ちのようにそんなことを言われて、ロクサーヌは酔いのせいだけではない熱が頬に宿る。ただ、それは一瞬のことで、心は急速に冷えていった。


(この方は、リベ家の没落がなければわたくしとセリーヌを妃と愛妾として召し上げただろうか。そしてわたくしには謝罪の言葉を、セリーヌには愛を告げたのかしら)


 きっと、そんな日々には耐えられなかっただろう。好いてもいない男と肌を重ねることよりも、恋する相手が自分ではない女を愛する様を見せつけられる方が苦しい。この男との未来がなくなったことは〝ヴィクトリーヌ〟を殺したが、皮肉にもロクサーヌとして生きる道につながった。

 しかし、今の言葉は一体何のつもりなのだろう。恋に溺れていたテオドールは、〝ヴィクトリーヌ〟に対する自分の残酷さに気づいていたのか。だとしたら。


「わたしにそのようなお言葉をかけるほどに、お悩みでいらっしゃるのですね」


 今度は唇を湿らせるようにして、慎重に一口。酒の芳香が鼻に抜けて、頭がくらりとする。

 謝罪を受ける度に、詰りたい気持ちが積もっていった。彼の後ろ姿を見送る度に、悲しみが募った。そんな感情を隠していたのは他でもない〝ヴィクトリーヌ〟自身だというのに、一度で良いから振り向いてほしかった。そんな過去の思いがとめどなくあふれてしまうのは、きっと酔っているからだ。

 酒盃から唇を離して目を上げると、テオドールは追い詰められた顔をしていた。


「――マリアンヌ嬢が」


 思わぬ人物の名前が出て、ロクサーヌの喉を多量のブランデーが通り過ぎる。なぜ彼女の名がテオドールの口から出るのだろう。アルベールとセリーヌのことでさぞ気を揉んでいるのだろうと、楽しみにしていたのに。


「マリアンヌ嬢は……なぜ私に色目を使ってくるのだろうか……」


 今度こそむせた。激しく咳き込むロクサーヌを見て慌てたテオドールが、テーブルに脛をぶつけている。護衛は――微動だにしない。仕方なく立ち上がったロクサーヌは苦しみながらもテーブルを回り込み、テオドールのそばに屈んだ。強打していたから、冷やした方が良いかも知れない。


「――水を持ってこさせましょう」


 言って立ち上がろうとしたところを、テオドールが制止した。肩に触れた手の温もりに、ロクサーヌは言葉もなく震えた。

酔っているのでネチネチと責めるスタイルです。

外食を自粛中なので自宅で焼き肉をしたら、匂いが消えません。鼻が慣れたら気にならなくなりますように……

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