13 迅風
静寂の中、カップの中身を含むと口中に清涼感と甘い香りが広がる。このお茶は、体調が万全であればおいしい。ハッカ茶を味わいながら、ロクサーヌは貝のように黙り込んだマリアンヌを見る。彼女は子供がむずがっているような顔でこちらを見返すものの、言葉を発する様子はない。そして、ロクサーヌがお茶を飲み終わってしまったところで、マリアンヌはやっと口を開いた。
「アル様が……アル様は、どうして私に手を出してこないのよ。お前が何か余計なことを吹き込んだの?」
「な……」
目を見開いたまま絶句するロクサーヌを、マリアンヌは怪訝そうに見る。このご令嬢は、自分が何を言っているのか分かっているのだろうか。それともまさか、ロクサーヌが劇場で過ごしたこの十年で、外の社会は未婚の娘の純潔を重んじる価値観が劇的に変化したのか。いや、あのアルベールが恋人の体を未だに暴いていないことに驚くべきなのか。いや、マリアンヌの態度から、彼女は未通だろうと思っていたが。
二の句も継げずに目を白黒させていると、マリアンヌが頬を染めて「何とか言ってよ!」と急かしてくる。
「――マリアンヌ様。念のためにお尋ねしますが、今のあなたが純潔を失うことで問題が生じることはないのですか?」
「問題って、何よ。ああ、結婚前に子供ができてしまったら……ということ? それなら平気よ。私とアル様の子供ができるのは、今じゃないから」
気を取り直したロクサーヌだが、ご令嬢の返答によって更なる混乱に陥ることになった。若い男女がことに及んでおいて、そう都合よく行くわけがない。もしも未婚で子ができてしまえば、令嬢は「予期しない病」によって表に出なくなり、子は――闇に葬られるか孤児として教会に預けられる。そのような子を、〝ヴィクトリーヌ〟だった頃に見たことがあった。
正気とは思えない返答だが、彼女には特別な力がある。それを思い出したらほっとしてしまった自分の心の動きに、何だか納得がいかない。正体不明の異能など、妊娠しない根拠にしてよいものではないだろうに。ロクサーヌはこの令嬢――いや、様々な意味で未知の存在に相対するにあたり、からかう余裕などなくなっていた。
「…………マリアンヌ様、そのような意味ではなく、未婚の男女がそのような関係となるのは問題だと申しているのです」
まさか、娼婦の身でこのような説教を口にすることになるとは思わなかった。不思議な感慨に浸りながら反応を伺うと、マリアンヌは「でもでも」と身をよじっている。……先日のセリーヌが見せたあの表情の意味が、今ならばよく分かる。マリアンヌがこの調子で王太子妃に話しかける様子を見るのは良いが、こちらに絡んでくるのはご遠慮願いたくなってきた。
このマリアンヌという令嬢は、貴族の娘にしては態度が奔放に過ぎる。市井で育ったのではないかと疑ったが、彼女は間違いなく生粋の貴族なのだという。しかし、そうなると余計に違和感がある。
ロクサーヌはポットからお茶を注いだ。ハッカで頭を冷やすのだ。
「なぜ、純潔を自ら捨てたがるのですか?」
処女が妄想をこじらせた結果なのか、男女の営みを美化しすぎて夢見ているだけなのか。一線を超えるというのは、様々な意味で丸裸になる行為だということを、この令嬢は理解しているのか。何より、正式に王子の婚約者となった今身を慎まずして、どうするというのか。王太子妃候補となったことのあるロクサーヌには、彼女はやはり奇怪な未知の生物だ。
その珍獣は、ぎろりと鋭くロクサーヌを睨む。
「アル様に群がる女どもに勝つためよ! 私が婚約者になったんだから、アル様は変わるはずなのに!」
「……マリアンヌ様、それはあなたの異能で見た殿下が、婚約によって身を慎むようになられたということですか?」
我ながら胡散臭い猫なで声が出た。しかしマリアンヌはこちらが話に乗ってきたことが嬉しいようで、機嫌よく「そうよ」とうなずく。この気分屋の令嬢は、自分が見た幸せな未来を少しも疑っていないらしい。まあ、ロクサーヌの居場所どころか正体を知る機会などないはずの彼女がアルベールをここに導いたのだから、その力は確かなものだと認めねばならないのだが。
「アル様が本当に愛するのは、シモーヌでも他の女でもお前でもなく、この私だと決まっているのよ」
「ですが、そのような結果を得られていないのですね」
胸を張っていたマリアンヌは、ロクサーヌの反論に鼻白む。彼女はアルベールがロクサーヌのところに通っているからこそ、今日もここに来たのだ。二人の逢瀬の場に押しかけてこんな問答を吹っかけること自体が悪い冗談のようだが、マリアンヌは大真面目にこの話題を続ける。
「それは……本来なら会うはずのなかったお前がしゃしゃり出てきたからよ! だから、責任を持って私にアル様を誘惑する方法を教えなさい!」
責任も何も、全てアルベールとマリアンヌの行動によってもたらされた結果だ。しかし何だか面白いことになってきた。ロクサーヌは内心でほくそ笑み、腹を括ったような顔をして頷いた。
娼婦としての技を教えることに躊躇はないが、問題はマリアンヌ自身だ。アルベールとどこまでの関係となっているのかを確かめておきたいので尋ねたところ、「な、何を言わせようとしているのよ、せくはらよ!」と訳の分からない返答をされた。
「何の腹かよく分かりませんが……とりあえず、殿下の顔に胸を押し付けてみてはどうでしょう」
アルベールのお気に入りなので間違いない。自信を持って提案したのに、マリアンヌは悲鳴を上げた。
「マリアンヌ様、この程度のことで羞恥を覚えるのであれば、誘惑などやめておいた方が良いですわ。お二人がある程度の触れ合いを経ているのなら、さほど抵抗なく受け入れられるのでしょうが、どうやらそうではなさそうですもの……」
では、初めて彼女に対面した時、扉の向こうで聞こえたあの嬌声は一体何だったのだろう。首を傾げながらため息を落とすロクサーヌを見て、マリアンヌの顔に焦りが浮かぶ。
「ち、違うのよ! ちょっと恥ずかしかっただけで、私とアル様はすごく親密なんだから!」
「それは、どの程度?」
「ど、どの程度って…………ほっぺに口づけたり、抱きしめたりよ……」
見つめ合ったまま、ロクサーヌとマリアンヌは沈黙した。
まさか、そんな親子でも行うような触れ合いで「だめよアル様!」だの「いけないわ」だのと大騒ぎしていたのか。信じられない思いで観察していると、彼女の顔がどんどん紅潮していく。ロクサーヌの懸念した通りのようだ。となると、分からないのはアルベールの気持ちだ。彼は十一年ぶりに再会した年上の、それも兄の元婚約者に躊躇なく手を伸ばしたのだから、恋人であるマリアンヌに何もしていないのが不思議でならない。そして彼女は、自分が誰よりも大切に扱われている可能性に気付いていない。婚約者に対する扱いとしては至極真っ当なのだが、相手があのアルベールだからこの常識が当てはまるのかは怪しいが。
どちらにしても、この令嬢に恩を売りアルベール共々操れるようにしておくのもいいだろう。
「分かりました、私にお任せください。では、まずは効果的に胸元に視線を集める方法から……」
張り切って饒舌に語るロクサーヌと、それに聞き入るマリアンヌ。この奇妙な風景は意外にも長引き、教示役のロクサーヌがお茶で喉を潤すまで続いた。体を密着させるくだりだけで悲鳴を上げるマリアンヌは、大層からかいがいのある生徒だ。興に乗り、更なる段階へと話を進めることにしたのだが。
「――と、このようにして誘いをかけ、相手がそれに乗ってきたのなら、あとは簡単です。流れに任せて押し倒――」
「ちょ、ちょっと待って! 今日はそこまででいいわっ!」
ここからが娼婦の本領なのに。がっかりするロクサーヌに、首まで赤くしたマリアンヌが待ったをかけた。手を出されたいのならこの先が肝心なのだが、やはりマリアンヌにそこまでの覚悟はないようだ。彼女は男女の交わりについての知識はあり、そして体も成熟してきているの反し、情緒が幼いことがよく分かった。先ほどは先制を食らってうっかり真面目になってしまったが、子供ゆえの発言と思えばさほど驚くことはない。ロクサーヌは姉か母のような気持ちで――もしくは、異郷から来た珍獣を見物するような気持ちで、ゆったりとほほ笑んだ。
「はい。まずは、マリアンヌ様のお心の準備が整うことが先決ですね。そして、アルベール殿下のお気持ちも」
後に添えた言葉に、マリアンヌがぴくりと反応した。ロクサーヌがアルベールの名を口にする度に目が三角になるこの令嬢は、誰に何を教わりに来たのか忘れたように腹を立てている。
「アル様の気持ち? あんた、やっぱりアル様から何か聞いてるんじゃない!」
マリアンヌの粗暴な言葉を、ロクサーヌは穏やかに「違います」と否定した。
「殿下からは何も。ですが、マリアンヌ様と清いお付き合いを続けておられることは、あのお方なりの誠意の証ではないかと思うのです」
ロクサーヌとしては、当たらずとも遠からずという予想に過ぎないのだが、マリアンヌは天啓を受けたように顔を輝かせた。
「そう……そうよね! 私は他の女とは違うもの。だからアル様は、結婚するまで手出ししないつもりなのよ!」
自ら結論を出し、マリアンヌは実にすっきりした顔で部屋を後にした。そしてロクサーヌも爽やかな気持ちで彼女を見送り――でたらめなことを吹き込んでみてもよかったのかも、と少し後悔したのだった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
何かと窮屈な毎日の中で、車窓から桜を見るのが近頃の楽しみでした。散ってしまって残念ですが、旬の菜花やアスパラやあさりを食べて、まだまだ春を楽しもうと思います。